第23話 瀬川音々、耳がいいだけでは済まされない
瀬川音々は、たぶん、人の話を聞いていないようでいて、いちばん聞いている。
真白は最近、かなり本気でそう思っていた。
この子は普段、静かだ。
片耳イヤホンをしていることも多いし、窓の外を見ている時間も長い。
話しかけても必要最低限しか返さない。
ぱっと見の印象だけなら、クラスの会話から半歩外にいる人間である。
なのに。
いちばん危ないところで反応する。
人の声の揺れ。
言葉のリズム。
ちょっとした音の違和感。
そういうものにだけ、異様に精度よく反応する。
今日は音楽の授業があった。
それだけで、真白の中ではすでに警戒レベルが少し上がっている。
音楽の授業には音々がいる。
音々がいるところには、“普通の人は聞かないものを聞く耳”がいる。
「何その顔」
移動前の教室で、ひかりがにやっとした。
「何が」
「音楽の授業前だけ微妙に警戒してる顔」
「してない」
「してるよ」
と絵麻。
「一ノ瀬さん、瀬川さんがいる授業の前、ちょっとだけ真顔になる」
「観察こわ」
真白が言うと、
「褒めてる」
と絵麻。
「何でもそれで済むと思わないで」
「便利だから」
「だめだ、もう感染が止まらない」
後ろでは木乃葉が机に突っ伏したまま、眠そうに言った。
「瀬川さんは普通に怖いよ」
「本人の前でその評価」
とさやか。
「だって耳がこわい」
「それはちょっとわかる」
と澪が言ってしまった。
真白は横目で澪を見る。
その“わかる”はだいぶ重い。
たぶんこっちと近い意味で言っている。
「何がこわいの?」
と、当の音々がちょうど教室の入口に立っていた。
「うわ」
ひかりが言う。
「気配」
「薄い」
と木乃葉。
「足音も」
と絵麻。
「褒めてる?」
音々が首を傾げる。
「半分くらい」
とさやか。
「便利だね」
と音々が真顔で言った。
感染源が増えた。
◇
音楽室での授業は、合唱のパート確認から始まった。
教師がピアノで音を取る。
クラスが歌う。
また止まる。
そんな、わりと平和な時間だ。
真白としては、この授業はそこまで嫌いではない。
ただ、必要以上に本気を出せないので、毎回その力加減が難しいだけだ。
澪も同じようなことを考えているのか、普段より少しだけ“上手すぎないように”歌っている気配があった。
それはそれで高度な技術では、と思わなくもない。
そして音々は、やはり異常だった。
「じゃあ次、ソプラノだけお願いします」
教師が言う。
数小節歌う。
そこで音々が、すっと手を挙げた。
「先生」
「はい、瀬川さん」
「今、二回目の和音だけピアノ、少し違いました」
「え?」
教師が止まる。
「二回目?」
「はい。和音の下が半音ぶつかってた」
「……」
音楽室が静かになった。
教師は少しだけ驚いた顔で、該当箇所を弾き直す。
一回目。普通。
二回目。たしかに少しだけ濁る。
ほんの一瞬だ。
しかも、言われなければ多くの人は流すだろう。
「あー……ほんとだ」
教師が苦笑する。
「すみません、押さえ直し甘かったですね」
「いえ」
と音々。
「いや、“いえ”じゃないのよ」
ひかりが小声で言う。
「どうやってわかるの」
「音だから」
「その答え、今日はもう聞いた」
真白が思わず言うと、
「一ノ瀬さんもわかった?」
と音々が真顔で返してきた。
「……いや、私はそこまで」
「そっか」
そっか、ではない。
比較対象にするな。
こっちは音楽をやっているが、それでも今のを一発で言語化するのはだいぶ嫌だ。
教師が軽く笑いながら言う。
「瀬川さん、耳がいいですね」
「普通です」
「いや普通ではないと思う」
と、さやかがかなり本音で呟いた。
教室に小さな笑いが起きる。
だが真白と澪だけは、わりと笑えない気持ちでもいた。
この子、本当に危ない。
たぶん悪気はない。
探っているつもりもない。
でも、普通の人が“なんとなく気持ち悪い”で流す差異を、普通に掴んで口に出す。
それは、自分たちみたいな人間にとってはかなり脅威である。
◇
授業後半、今度は簡単なリズム打ちの課題があった。
前の列から順に手拍子を回していく。
単純なようでいて、意外とズレる。
ズレるのだが、そこでまた音々が小さく首を傾げた。
「今、一人だけ後ろ」
「え?」
教師が言う。
「どこ?」
「真ん中の列」
「真ん中の列の誰?」
「……」
音々が少しだけ考える。
「わかんない。でも一人だけ、入る位置が半拍後ろ」
「こわ」
とひかりが言った。
「いや、ほんとにこわい」
と木乃葉。
「それ、何で個人まで絞れるの」
と絵麻。
「重なっててもわかるの?」
と澪。
澪、その質問はだいぶガチだ。
音々は不思議そうに答える。
「わかるよ。重なってるから」
「説明になってない」
と真白。
「そう?」
「そうだよ」
「でも、違う音が重なると輪郭出るし」
「専門家みたいなこと言い出した」
とひかりが笑う。
真白はそこで、ふと気づく。
音々は喋るとき、たまに説明の単位が違う。
聞こえたものを、そのまま分解した状態で持っている。
だから“感覚”ではなく“構造”として話してしまうのだろう。
それはたぶん、音を作る側の人間の思考だ。
演奏者や歌い手とも少し違う。
もっと、並んでいる音そのものをいじる側。
切って、重ねて、配置する側。
そこまで思ったところで、真白の中でまたひとつ疑いが濃くなる。
この子、たぶん作曲か編集をやっている。
しかも、だいぶ本気のやつだ。
◇
授業が終わって音楽室を出るとき、音々が真白のすぐ後ろにいた。
気配が薄い。
毎回これで少し驚く。
「一ノ瀬さん」
「何」
「今日の合唱、二回目の入りだけ少し慎重だった」
「……」
「何その顔」
「人の歌い方まで見てるの?」
「聞いてる」
「その方が怖い」
「褒めてる?」
「違う」
音々は少しだけ首を傾げる。
たぶん本気で不思議なのだろう。
「でも、一ノ瀬さんって時々、歌うときだけちょっと“置き方”変わる」
「置き方」
「うん。普段の声より、少しだけ前に出す」
「……そう」
「うん」
「瀬川さん」
「何」
「その話、他の人にあんまりしない方がいい」
「何で?」
「……何でって」
「だって普通に聞こえるし」
「普通に聞こえる人が少ないんだよたぶん」
「そうなの?」
「そうだと思う」
ここで真剣に説明していいのか迷う。
だが、たぶん少しだけ真面目に伝えておいた方がいい気がした。
「瀬川さんの“聞こえる”は、たぶん人より細かい」
「……」
「だから、本人が隠したいことまで拾っちゃうことがあるかもしれない」
「……」
「そういうの、たぶんあるでしょ」
「……少し」
「少しあるんだ」
「ある」
音々は淡々と頷いた。
「でも」
と音々が続ける。
「言わないよ」
「え」
「だって、本人が言ってないなら、たぶん言わない方がいいでしょ」
「……」
「音って、見えるより先に漏れることあるから」
「……」
「でも、漏れたからって、全部拾っていいわけじゃないし」
真白は少しだけ息を止めた。
この子、思っている以上にちゃんとしている。
いや、ちゃんとしているのだろう。
耳が良すぎるからこそ、“聞こえてしまうこと”の怖さを知っているのかもしれない。
「……ありがとう」
と真白が言うと、
「何で」
と音々。
「いや、いろいろ」
「便利だね」
「それを今使う?」
「便利だから」
「感染してる……」
音々はそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったのかどうか、正直まだよくわからない。
でも少なくとも、会話の温度は少しやわらかくなっていた。
◇
昼休み。
真白が弁当を食べていると、音々が無言で席の近くに来た。
「何」
「これ」
差し出されたのはスマホの画面だった。
そこに開いていたのは、どう見てもDAWだった。
「……」
「……」
真白は数秒、無言になる。
鍵盤ロール。
トラック一覧。
オートメーション。
エフェクトの欄。
色分けされたパート。
どう見ても、ただのメモアプリではない。
どう見ても、作ってる側の画面である。
「何これ」
と、一応聞く。
「曲」
「それは見ればわかる」
「じゃあ何を聞いたの」
「何で見せたの」
「一ノ瀬さん、こういうのわかりそうだから」
「……」
それはだいぶ危ない発言だ。
でも音々はまったく疑うでもなく、ただフラットにそう言っただけだった。
「ベースとピアノ、どっち先に抜いた方がいいと思う?」
「何で私に聞くの」
「なんとなく」
「なんとなくの精度が高いなあ……」
真白は画面を見る。
実際、かなりちゃんとしていた。
初心者の遊びではない。
配置も、抜き差しの感覚も、すでに“作っている人”のものだ。
「……これ、自分で打ったの?」
「うん」
「全部?」
「うん」
「いつ」
「夜」
「寝なよ」
「楽しいから無理」
「木乃葉さんと別方向で終わってるな、このクラス」
思わず本音が漏れる。
音々は気にした様子もなく、真白の指差した箇所を少し修正した。
「ここのピアノ、もうちょっと引いた方がいい」
真白は結局、普通にアドバイスしてしまった。
「低音が濁ってるから、ベース残すならこっちを薄く」
「……なるほど」
「あと歌ものにしたいなら、余白もう少しあっていい」
「歌もの」
「違うの?」
「まだ決めてない」
「決めてないのにこの密度?」
「楽しいから」
「楽しいの強いなあ……」
音々は数秒考えてから、ぽつりと言った。
「一ノ瀬さん、やっぱりわかる側」
「……」
「何その顔」
「いや」
「違った?」
「違わないけど、そういう言い方しないで」
「何で?」
「心臓に悪い」
「それはごめん」
「わかってるならいい」
でも本当に心臓に悪い。
この子は探っているわけじゃない。
ただ、聞こえたものと見えたものから自然に近づいてくる。
しかも本人はそれをあまり危険だと思っていない。
そこがいちばん怖い。
◇
そのやりとりを、ひかりが遠巻きに見ていたらしい。
「へえ」
と、午後の休み時間に近づいてきた。
「何」
「一ノ瀬さん、瀬川さんとはちょっと種類の違う会話するね」
「そう?」
「うん。朝倉とは“普通の会話をがんばる感じ”で」
「やめて、その言い方」
「木乃葉さんとは“省エネ同士で通じる感じ”で」
「何でそんなに分析するの」
「楽しいから」
「最悪だ」
「で、瀬川さんとは“たまに業界の人みたいな会話してる感じ”」
「……」
「図星?」
「……何でもない」
「何でもない顔ではないなー」
ひかりは本当に面白そうに笑う。
この子もだいぶ怖い。
でも音々みたいに核心を拾う怖さではなく、空気の輪郭をなぞる怖さだ。
「でも安心して」
ひかりが言う。
「何を」
「私、見えてても決定はしない派だから」
「……」
「このクラス、そういう人多いでしょ?」
「……そうかも」
「うん。だから平和なんだよ」
その言い方に、真白は少しだけ納得する。
見えても言わない。
聞こえても確定しない。
この教室はたぶん、そのルールで成り立っている。
そして音々も、そのルールをちゃんと知っている側なのだろう。
耳が良すぎるぶんだけ、言わないことの重さも知っている。
◇
放課後、帰り支度をしながら、真白は思う。
音々はやっぱり危ない。
それは間違いない。
耳が良すぎるし、気配も薄いし、DAWを普通に見せてくるし、たまに一言で人の心拍数を上げる。
でも、怖いだけではなかった。
この子もたぶん、教室の外で何かを作っている。
そして、そのことを大声では言わない。
ただ静かに、自分の中で音を積んでいる。
だったら、やっぱり同じなのだ。
このクラスには、書く人がいる。
描く人がいる。
歌う人がいる。
弾く人がいる。
そして、作る人がいる。
みんな違うけれど、教室の外にもう一枚の顔がある。
「……音、多いな」
小さく呟くと、
「でしょ」
と、すぐ横から音々の声がした。
真白は少しだけ肩を揺らす。
「いたの」
「いた」
「足音」
「褒めてる?」
「今日は半分くらい」
「進歩した」
「何の」
「受け止め方」
音々はそう言って、また静かに帰っていった。
真白はその背中を見ながら、少しだけ笑ってしまう。
この教室は静かだ。
でも、静かなだけじゃない。
見えないところで、それぞれの音が鳴っている。
たぶんそれは、少しだけ心地いい。




