第19話 教室で少しだけ喋る、それだけで事件
人は、努力の方向を間違えると、たぶん静かに面白くなる。
一ノ瀬真白は今、その典型例だった。
教室のドアを開ける。
いつもの朝。
いつもの二年A組。
いつものざわめき。
そして、いつも通りの顔をして席につく朝倉澪。
ここまではいい。
問題はここからだ。
真白と澪は先日、自販機の前でひとつの暫定合意に達している。
学校では、少しだけ自然に会話する。
でも、教室の外の話は持ち込まない。
無理に距離を詰めない。
でも避けすぎない。
理論上は完璧だった。
問題は、それを実行する人間二人が、揃いも揃って距離感の正解に弱いことだった。
「……」
真白は自席に座り、鞄から教科書を出すふりをしながら、斜め前の澪を視界の端で捉える。
今日はどうする。
何か話すのか。
でも朝から急に話しかけるのは不自然ではないか。
いや、クラスメイトなのだから挨拶くらいは普通か。
でも向こうから来るかもしれないし。
いや待て、考えすぎだ。
そうやって脳内会議を開いていた、そのときだった。
「おはよう」
と、澪が自然な声で言った。
真白の思考が、一瞬だけ止まる。
来た。
挨拶だ。
普通のやつだ。
普通のクラスメイトの朝の挨拶。
「……おはよう」
と返す。
よし。
たぶん今のは普通だった。
短いが、短いのはもともとだ。
むしろここで急に笑顔満開だったら別人すぎて怖い。
真白が内心でひっそり安堵していると、ひかりがすぐ近くでにやっとした。
「へえ」
「何」
と真白。
「いや、朝からちゃんと挨拶してるなーって」
「するでしょ、普通」
「うん。普通なんだけどね」
「何その言い方」
「別にー?」
別に、の顔ではない。
この子は本当に嫌なところで目がいい。
というか、教室全体が最近ちょっと目がいい気がする。
この教室、視力検査でもしてるのか。
「おはようございます……」
後ろから木乃葉の、ほぼ眠気で死にかけた声がした。
「木乃葉さんはまず起きて」
とさやか。
「起きてるよ」
「その半目で?」
「目はね、開いてればいいわけじゃないから」
「哲学みたいなこと言わないで」
教室に小さな笑いが起こる。
真白はその笑いの端にいながら、少しだけ落ち着く。
こういう、どうでもいいやりとりが続いているうちは、まだ平和だ。
◇
一時間目が始まる前、事件は地味に起きた。
英語の小テストの答案用紙が前から回されてきたので、真白はそれを受け取った。
受け取って、自分の分を取って、残りを後ろへ回す。
その流れは完璧だった。
しかしその直後、澪が振り向いて、ものすごく自然なつもりで言った。
「今日の小テスト、範囲どこまでだっけ」
その瞬間、真白の脳内で小さく警報が鳴った。
来た。
“自然な会話チャレンジ”が来た。
しかも内容は普通だ。
むしろ自然寄りだ。
問題は、こっちがその普通に慣れていないことだけである。
「……四十まで」
「ありがとう」
「うん」
終わり。
短い。
でも悪くない。
いや、ちょっとだけ硬かったか。
いやでもこれ以上長くすると逆に怪しい気もするし。
真白が心の中で一人反省会をしていると、後ろから木乃葉の声がした。
「今の、ちょっと頑張った感じあったね」
「何が」
「“普通の会話をしています”感」
「……してない」
「してた」
「してない」
「いや、してたよ」
と、ひかりまで参戦してくる。
「ちょっとだけ“自然です”を意識してる感じ」
「何でそんなことわかるの」
「人間観察が趣味なので」
「それ免罪符にならないからね」
真白は思わずそう返した。
教室が少し笑う。
そしてそこで、さらに嫌なことに気づく。
今、自分はいつもより少しだけ喋っている。
しかも自然にツッコミまで入れた。
それ自体は悪いことではない。
でも“会話に慣れてきた一ノ瀬真白”という変化は、間違いなく周囲に見えている。
隠し事というのは難しい。
隠そうとすればするほど、別のところが動く。
◇
二時間目の休み時間には、さらに微妙な事件が起きた。
澪が自席で英語のプリントを見ながら、少しだけ首を傾げていた。
その表情を見て、真白はほんの少しだけ迷う。
今ならいけるかもしれない。
自然なクラスメイトムーブ。
会話チャレンジ。
ここで「何かわからないの?」くらい言えれば、だいぶ普通っぽいのではないか。
そう思ってしまったのがよくなかった。
真白はほんの少しだけ身を乗り出して言った。
「……どこかわからないの」
言った瞬間、自分で思った。
硬い。
日本語としては間違っていない。
でも何かが妙に硬い。
“学校で人に話しかけ慣れてない優等生が、頑張って会話を発生させました”感が、だいぶ出ている。
澪も一瞬だけ目を丸くした。
でもすぐに、ちゃんと合わせてくれる。
「あ、ここ」
「それ、受動態だから」
「……なるほど」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「絶対って言うほど自信はない」
「意外」
「何が」
「そういうとこ、もっと“絶対これ”って言いそう」
「学校では慎重」
「何そのモード切替」
そこで、会話が少しだけ自然に続いた。
続いたのだが。
「うわ」
と、ひかりが横から覗き込む。
「何」
真白が振り向く。
「今の、かなり“クラスメイトっぽい会話”だった」
「クラスメイトだから」
「そうなんだけど、最近ちょっと進化してるんだよなあ」
進化。
言い方がひどい。
ポケモンではないのだ。
「一ノ瀬さん、最近ツッコミ増えたよね」
絵麻がのんびり言う。
「そう?」
「うん。前より一言多い」
「悪い意味?」
「ううん、面白い」
面白い。
それはつまり、前より自分が“教室の会話の中にいる”ということでもある。
たぶん悪いことではない。
でも慣れていないので、未だに少し落ち着かない。
「ねえ」
さやかまで口を挟んできた。
「最近の二人、前より会話するけど、会話の最初だけ妙に慎重じゃない?」
「……」
「……」
真白と澪が同時に黙る。
やめてほしい。
その指摘はいちばん刺さる。
「例えば今」
さやかは委員長らしい真顔で続ける。
「一ノ瀬さんが話しかけるまでの“間”がちょっと長かった」
「見てるね」
と澪。
「委員長だから」
「その理屈便利すぎない?」
真白が言う。
「便利だから」
「完全に流行ってるじゃん……」
また教室が笑う。
真白は小さくため息をついた。
だめだ。
本人たちは自然を目指しているのに、周囲には「自然になろうとしている感じ」が見えている。
つまり現時点では、自然失敗である。
◇
昼休み。
真白は弁当を開きながら、こっそり自分の反省会をしていた。
朝の挨拶、まあ普通。
小テストの会話、やや硬い。
英語プリントの会話、最初の一言が硬い。
総評。
頑張ってるのは伝わるが、頑張ってることまで伝わってしまっている。
「……難しい」
思わず漏れた。
「何が?」
向かいから絵麻が聞く。
「いや」
「英語?」
とひかり。
「人間関係?」
と木乃葉。
「クラス運営?」
とさやか。
「何で候補がそんなにあるの」
「最近の一ノ瀬さん、悩みのジャンルが増えた感じする」
ひかりが楽しそうに言う。
「前はもっと“全部自分の中で処理してます”って空気だったのに」
「それって、今の方がマシってこと?」
真白が聞くと、
「うん」
と、ひかりはあっさり頷いた。
「ちょっとだけ人間っぽい」
「その評価、何回目?」
「でも褒めてる」
「雑」
「便利だから」
「それはもういい」
真白は箸を置いて、少しだけ天を仰いだ。
この教室、最近すぐ“便利だから”に逃げる。
便利なのは認めるが、便利すぎる。
「でもさ」
絵麻が卵焼きをつつきながら言う。
「無理してる感じは前より減ったかも」
「……」
「今はちょっとだけ、ぎこちなくても話すようになった感じ」
「……」
「それはたぶん、悪くないよ」
「……そうかな」
「うん」
絵麻の言い方は、いつもふわふわしている。
なのに、たまにやけにまっすぐ入ってくる。
真白は小さく「そっか」とだけ返した。
悪くない。
もし本当にそうなら、少しだけ救われる。
◇
放課後、今度は澪の方から話しかけてきた。
「一ノ瀬」
「何」
「今日の反省会する?」
「何その部活みたいな言い方」
「いや、必要でしょ」
「……必要かもしれない」
二人は廊下の窓際、少し人通りの少ない場所まで移動した。
「まず」
と澪。
「朝の挨拶は、まあよかった」
「うん」
「小テストの範囲確認も、たぶん大丈夫」
「たぶん、ね」
「問題は英語」
「……わかってる」
「一ノ瀬、あの最初の一言がちょっと“会話イベント発生しました”感あった」
「それ以上具体的に言わないで」
「いやでも」
「自覚あるから」
「あるんだ」
「ある」
真白は本気で少し恥ずかしかった。
頑張って話しかけた結果、頑張って話しかけたことまで伝わる。
これでは本末転倒である。
「朝倉さんも」
真白は少しだけ言い返す。
「何」
「小テストの範囲聞くとき、ちょっと自然すぎた」
「それ悪くないじゃん」
「いや、“自然を装い慣れてる人”感があった」
「何それ」
「こっちだけ初心者みたいで悔しい」
「そこ?」
「そこ」
澪は少しだけ吹き出した。
「いやでも、一ノ瀬のそういうとこちょっと面白い」
「面白いで済ませないで」
「ごめんごめん」
そう言って笑っている澪を見て、真白も少しだけ笑ってしまう。
前よりは、こういう時間もだいぶ自然になってきた。
まだ完璧ではない。
でも少なくとも、“何を話せばいいかわからない沈黙”ばかりではなくなっている。
「結論」
と澪が言う。
「何」
「会話の回数は増やしていい」
「うん」
「でも、一回一回“よし自然にやるぞ”って思うのをやめた方がいい」
「……」
「たぶんそれで硬くなる」
「たしかに」
真白は認めるしかなかった。
自然を目指すあまり、不自然になる。
それはかなり真理だ。
「じゃあ、どうすればいいの」
真白が聞くと、
「必要なときだけ喋る」
と澪。
「それ、今までとほぼ同じでは?」
「でも、前よりちょっとだけ躊躇を減らす」
「……」
「できそう?」
「努力目標」
「また努力目標」
「便利だから」
「それ便利なの?」
二人で少し笑う。
それでよかった。
きれいに解決したわけではない。
むしろ、たぶんまだまだ微妙にぎこちない。
でも、そのぎこちなさごと少しずつ馴染んでいけばいいのかもしれない。
◇
翌朝。
真白が教室へ入ると、澪が自席でノートを見ていた。
視線が合う。
ほんの一瞬。
「おはよう」
と澪。
「……おはよう」
と真白。
短い。
自然。
たぶん。
少なくとも昨日よりは、変な力みが少ない。
それだけで十分な気がした。
「おっ」
ひかりがすぐ反応する。
「何」
真白が言う。
「今日はちょっとスムーズ」
「何の審査員なの」
「教室の空気」
「やっぱり怖いなあ」
「褒めてる」
「雑」
「便利だから」
「その流れもう固定なんだ……」
また笑いが起きる。
木乃葉は机に伏せたまま、眠そうに言った。
「まあ、昨日よりは自然」
「比較されてる」
と澪。
「されてるね」
と真白。
「クラスメイトだから」
とさやか。
「委員長だから、ではなく?」
ひかりが笑う。
「今日はクラスメイトの方」
「使い分けるんだ」
教室の朝は、今日も騒がしくて、少しだけ変で、でも平和だった。
真白は自席に着きながら思う。
教室で少しだけ喋る。
それだけのことなのに、こうして本人たちにとっては地味に事件になる。
でもその事件性も、前より少しずつ薄まってきている。
たぶん、これでいい。
すぐに完璧な自然にはなれない。
でも、少しずつ“頑張らなくても会話できる”ところへ行ければいい。
学校の外では、ピアノを弾く。
歌う。
配信する。
作品を作る。
いろんな顔がある。
でも教室の中では、今日もただのクラスメイトとして、ちょっとだけ会話をする。
それは案外、悪くなかった。




