第16話 うちのクラス、隠し事が多すぎる
朝の教室というのは、たぶん毎日ほとんど同じだ。
窓際の席に差し込む光の角度。
椅子を引く音。
誰かの「眠い」、誰かの「寒い」、誰かの「課題やった?」。
黒板に書かれた日付。
ホームルーム前のざわめき。
その繰り返しの中で、人は勝手に安心する。
今日も昨日の続きだと思えるから。
ここはいつも通りの場所で、自分はその中の一人でしかないと思えるから。
少し前までの真白にとって、その“いつも通り”は、少しだけ息苦しいものでもあった。
教室は静かで、穏やかで、でも自分だけがそこへ嘘を持ち込んでいる気がしていたからだ。
一ノ瀬真白として座りながら、本当は真昼ましろでもある。
学校では無口で、家に帰ればマシンガントークで、ピアノを弾いて、歌って、何万人もの前に出ている。
その落差を抱えているのは、自分だけ。
自分だけが、ここで別の顔を隠している。
だから人と距離を取るしかないのだと思っていた。
でも今は、その前提が少し違う。
真白は教室のドアを開けて、一歩中へ入ったところで、何となく立ち止まりたくなった。
もちろん本当に立ち止まると不自然なので、そのまま歩く。
歩きながら、視線だけで教室の中をゆっくり見渡す。
朝倉澪がいる。
窓際の少し前の席で、後輩から送られてきたらしいメッセージに短く返信していた。
バスケ部主将。
学校では目立つ側の人。
でも同時に、顔の見えないステージの中心で歌うMIOでもある。
いまの澪は、もちろんMIOの顔をしていない。
いつもの制服姿で、いつものように周囲に自然に馴染んでいる。
でも真白はもう、その“いつもの”の向こう側を知っている。
後ろでは木乃葉が、今日も半分くらい眠そうな顔でノートを開いていた。
開いてはいるが、あれはたぶん授業の準備だけではない。
細い字で何かを書き込む手つきは、どう見ても“ただの板書”のそれではない。
絵麻は絵麻で、朝からプリントの端に小さな人物のラフを作っている。
相変わらず、数本の線だけで表情を乗せるのがうますぎる。
本人はたぶん、そこまで大げさに考えていない。
でもあれがただの趣味で済むとは、真白にはもう思えなかった。
ひかりは誰かと笑いながら話しつつ、会話の合間に教室全体の空気を拾っている。
情報の流れ方、人の視線の向き、ちょっとした変化。
そういうものを拾うのがうまい。
たぶんあれは、単なるコミュ力だけではない。
音々は片耳イヤホンのまま、窓の外の風の音でも聞いているみたいな顔をしていた。
でもたまに、誰かの声にだけ妙に反応する。
人より少しだけ、いやかなり、音に対して解像度が高い。
さやかはそんな教室の朝を、配布物と出欠と小さな混乱の回収で支えている。
一般人枠のように見えて、実はいちばん全体を見ているのはこの人かもしれない。
そういう意味では、彼女もまた“見る側”の人間だった。
そして教壇には、まだ誰も立っていない。
だがどうせあと数分もすれば、風間が何でもない顔で入ってくるのだろう。
2年A組担任。
現代文教師。
校則と書類に強く、生徒の秘密に妙な耐性を持ち、しかも本人もたぶん何か隠している人。
そこまで考えて、真白は自分の席に座った。
「おはよう」
と前の席の女子が振り返る。
「……おはよう」
と返す。
短い。
でも今の真白にとっては、それで十分だった。
◇
一時間目が始まる前、澪が振り向いて言った。
「一ノ瀬」
「何」
「英語の課題、今日じゃなくて明日だった」
「……それ昨日も確認した」
「復習」
「いらない」
「自然な会話」
「その主張がもう自然じゃない」
真白がそう返すと、澪は少しだけ肩を揺らした。
たぶん笑っている。
前なら、この短いやりとりだけで真白の心臓はだいぶ忙しくなっていただろう。
でも今は、そこまでではない。
もちろん意識はする。
教室の外の澪を知っているから。
でも、それを知ったまま少しだけ笑えるようになってきた。
それは、ほんの数日前の自分にはなかった変化だ。
「二人とも最近ちょっと会話するようになったよね」
ひかりがにやっとする。
「そう?」
と澪。
「うん。前はもっと、“見えてるけど壁の向こう”って感じだった」
「壁好きだね、その例え」
と真白。
「わかりやすいから」
「便利だね」
「便利だから」
またそれだ。
絵麻がくすっと笑う。
木乃葉は机に頬杖をついたまま、眠そうに言った。
「前より空気が丸いのは、まあそう」
「木乃葉さんまで」
とさやかが反応する。
「何、みんなそう思ってたの?」
「委員長はそういうの気にするでしょ」
「そりゃ気にするけど」
「クラス運営上の変化」
「その言い方やめて」
教室に小さな笑いが落ちる。
真白はその輪の端にいながら、少しだけ不思議な気持ちになる。
前なら、こういう会話の外にいた。
笑いの中心にいたいとは思わない。
でも、完全に外でいたいわけでもなかったのかもしれない。
今は、ほんの少しだけその中にいる。
大きく喋るわけではない。
でも、そこにいていい気がする。
◇
授業の合間、風間が配布物を持って教室を回ってきたとき、真白はふと聞いてみた。
「先生」
「はい」
「うちのクラスって、ちょっと変ですよね」
「今さらですね」
返答が速すぎる。
真白は一瞬言葉に詰まる。
風間は平然としていた。
「変、とは?」
「……何か、静かなのに情報量が多いというか」
「なるほど」
「それぞれ、何かありそうというか」
「そういう年頃でしょう」
「先生まで便利ワード使うんですか」
「便利ですので」
だめだ、この人は。
風間は紙束を机に置きながら、ほんの少しだけ目元を緩めた。
「ただ」
「はい」
「他人に踏み込みすぎない教室、というのは悪くありません」
「……」
「人は、知らないままの方が優しいこともありますから」
「……そうですね」
「ええ」
それだけ言って、風間は次の列へ行ってしまう。
真白はその背中を見ながら、少しだけ思う。
あの人は、たぶん全部わかって言っている。
この教室が、互いの“知らないふり”で保たれていることも。
そこに救われている生徒がいることも。
知らないままの方が優しいこともある。
その言葉は、真白の中にすっと落ちた。
◇
昼休み、真白は珍しく教室の中を見回しながら弁当を食べていた。
木乃葉は眠そうな顔のまま、でも今日は少しだけ機嫌が良さそうだ。
絵麻はノートの余白で何かの髪型を研究している。
ひかりはスマホで見つけたらしいMVの色味について誰かに語っている。
音々は音々で、また何か波形アプリを触っている。
さやかはそれを見て「うちのクラス、昼休みの過ごし方偏ってない?」と呟いていた。
偏っている。
かなり偏っている。
でも、それを“変”として切り捨てる気には、もうなれなかった。
もしかしたらこの教室は、
それぞれが自分の外側を持っている人間たちの集まりだ。
書く人。
描く人。
歌う人。
弾く人。
音を聴く人。
見る人。
まとめる人。
そういうふうに思うと、今までバラバラに見えていたものが、少しだけ意味を持って並ぶ。
「……何か文化祭みたい」
思わず口に出る。
「何が?」
と絵麻。
「うちのクラス」
「わかる」
ひかりが即答した。
「表に出てる役割はバラバラなのに、裏でできること集めたら妙に強そう」
「すごい偏った戦隊ものみたい」
と木乃葉。
「色より担当で分かれてるやつ」
「リーダー誰?」
とさやか。
「それはたぶん先生では」
と音々。
教室が少し笑う。
真白も、少しだけ笑った。
たぶん本当にそうなのだ。
このクラスは、思っていたよりずっと“何かができる人たち”の集まりなのかもしれない。
でもそれを学校で声高に言わない。
言う必要がないから。
それぞれがそれぞれの場所で、もう十分にやっているから。
その感じが、少しだけ好きだと思った。
◇
放課後、帰り支度の中で、音々がふいに言った。
「一ノ瀬さん」
「何」
「やっぱりうちのクラス、音が多い」
「音?」
「うん。書く音、描く音、喋る音、考える音、編集の音、歌う音、たぶんいろいろ」
「……」
「何その顔」
「いや、ちょっと詩的だなって」
「そう?」
「うん」
「褒めてる?」
「たぶん」
音々は少しだけ首を傾げ、それから何事もなかったように帰っていった。
その一言が、妙に残る。
音が多い。
たしかにそうかもしれない。
この教室には、それぞれの“作る音”がある。
普段は聞こえないだけで、たぶんみんな教室の外では、自分の音を鳴らしている。
真白もそうだ。
澪もそうだ。
だとしたら、この教室は静かなようでいて、本当はずっとにぎやかなのかもしれない。
◇
帰り際、教室のドアの前で真白は一度だけ振り返った。
誰もこちらを見ていない。
みんなそれぞれの帰り支度をしている。
木乃葉はノートを閉じ、絵麻はペンをしまい、ひかりはスマホを鞄へ入れ、音々はイヤホンをケースへ戻し、さやかは今日も最後に教室全体を見渡している。
澪は部活へ行く前の軽いストレッチをしていた。
風間は教壇に立ったまま、何か連絡を書類へ書き込んでいる。
いつもの教室。
でも、もう“ただの教室”ではない。
秘密がある。
隠しているものがある。
言わないままにしていることがある。
それでも回っている。
それでも平和だ。
それでも、ちょっとだけ優しい。
真白は思う。
学校では誰にも知られずに卒業したい。
その気持ちは今も変わらない。
真昼ましろであることを、全部ここへ持ち込みたいわけではない。
むしろそれは全然違う。
でも。
少なくとも、この教室にいる自分は、ひとりきりの異物ではなかった。
そう思えるだけで、教室の空気は少しだけやわらかくなる。
たぶん、自分はこれからもまだ隠す。
みんなもたぶん隠す。
風間はたぶん全部知っていて、知らないふりをする。
それでいいのかもしれない。
だって――
「うちのクラス、隠し事が多すぎる」
真白が小さく呟いた、そのときだった。
「何が?」
すぐ後ろから声がして、真白は飛び上がりそうになった。
振り返ると、音々がいつの間にか立っていた。
どうしてこの子は毎回足音が薄いのか。
「……いたの」
「いた」
「怖い」
「褒めてる?」
「違う」
「で、何が多すぎるの」
「……忘れて」
「気になる」
「気にしないで」
「便利ワード?」
「便利ワード」
音々は少しだけ考えてから、さらっと言った。
「まあ、うちのクラス、何かしら隠してる人多そうではある」
「……」
「何その顔」
「いや」
「私も一個くらい隠してるし」
「え」
「冗談」
「今の絶対冗談じゃないでしょ」
「便利だから」
「便利すぎるんだよ」
音々が小さく笑ったような気がした。
たぶん気のせいではない。
真白もつられて少しだけ笑う。
結局、最後まで何も確定しない。
誰も自分からは明かさない。
でもたぶん、みんな何かしら持っている。
そういうクラスだ。
そして、その中に自分もいる。
それは思っていたより、ずっと悪くなかった。
教室の外では、また別の顔で生きている。
でも教室の中では、今日も同じ制服で、同じ席に座る。
その二重さを抱えたまま、明日もまたこの教室へ来るのだろう。
真白はドアを開け、廊下へ出る。
その背中へ、教室のざわめきが柔らかく追いかけてくる。
学校では誰にも知られずに卒業したい。
たぶん、まだ今のところは。
でも、もし少しだけ知られてしまっても。
それがこの教室の中なら、前ほど怖くはないのかもしれなかった。




