「ほんの些細なボタンの掛け違いで 地球(せかい)は案外コロッと滅ぶ」
「さあ、行くわよ。私の奴隷たち」 マリーは当然だと言わんばかりのジェスチャーで、優雅に扉を開け放った。
「……マリー、俺は貴様の奴隷じゃない。ベルトランやエドワードは貴様の奴隷かもしれないが、俺は君の友だ……」
その瞬間、ニコライの言葉が終わるよりも早く、マリーのヒールがニコライの、非常に大切で、かつ決して傷つけてはならない場所へと完璧な角度で直撃した。
「あなたが私の友達? 笑わせないで。あなたのような恥知らずで不潔な変態が?」
「……う、うぎゃあああああああ!!!」
エドワードは悟った。もし自分もあの女性の機嫌を損ねれば、ニコライよりも無残な目に遭うだろうと……。
「ひ、ひどすぎる……。俺たちの仲じゃないか……もう10年も……」
「何言ってるの? 私とあなたが知り合ってからの期間が、私たちが友達であるという証拠には全くなり得ないわ」
「……?」 「そ、そういうものなのか……」 (泣かせた……! あのニコライさんを……!!! 泣かせたんだぞ……!!!!!)
「マリー王女殿下……。そろそろ行かなければなりません。今行かなければ、陛下がひどくご心配を……」
「あなた、言ったはずよね? あなたは私の家族なの? 第三者、つまり外部の人間でありながら、よくもまあ家族の問題に口を挟もうとするわね。増長するのも大概になさい。私と一緒にいるからといって、自分も王族だなんて愚かな考えは捨てなさいな」
「……滅相もございません……。申し訳ございません……」
「ええ、あなたは私の奴隷なんだから、そうしていればいいのよ」
「……」
「ベルトランさん……。一体、何なんですか……」
「気の毒だが小僧、貴様に教えてやろう。これは普段の王女殿下の気まぐれに比べれば、はるかに、それこそ微風のようなものだ……」
「……はぁ!?」 「……ベルトランの言う通りだ。これでも昔のマリーよりは、随分と丸くなった方だ……」
「一体、皆さんはマリー王女殿下に何をされてきたんですか……!!!」
「俺たちよりは、婿殿の方が……」
「そうだよ……。デミアンが不憫すぎる。あんな悪女が嫁だなんて、俺だったら自殺し……」
その瞬間、再びマリーのヒールがニコライの「もう一人の自分」を粉砕した。
「ぐはぁっ!!!!!!!」
「何ですって……? 私の方が不憫に決まってるじゃない! あんな口の悪いソシオパス(デミアン)と暮らさなきゃいけないのよ!?」
だが、その場にいた全員が確信していた。デミアンの方が数億倍しんどいだろう、と。
「あ……あまりだ……」
「何を言ってるの? あなたはむしろ私に感謝すべきよ。私のおかげで、あなたはカストラートになれたんだから。この世にカストラートはあなた一人だけ。その意味が分かるかしら?」
「ふ、ふざけるな……。ニコライ・ロマノフ12世・ジュニアは死なない……」
「反吐が出るわね……。自分のソレを『ジュニア(2世)』と呼ぶなんて……。あなたはそのまま死になさい」
「こ、来るな……来るなああああ!!!」
エドワードの目には、ただのガラの悪い女子高生が、出来の悪い男子をいじめているようにしか見えなかった……。
「はぁ……。こんなことをしてる場合じゃないわ。ほら、シンクレア君。案内なさい」
「は、はいっ…………」
「それにしても、なぜこんなに人が多いの? 邪魔だわ」
「それは……ドイツを代表する観光地ですから……」
「でも、私の鑑賞の邪魔になるわ。ねえ、ベルトラン。あれらを片付けて。10秒あげるわ」
「承知いたしました、王女殿下」
ベルトランは数え切れないほどの速度で一瞬にして姿を消し、再び戻ってきた。ベルトランが戻ると同時に、管理者と思われる聖職者の声が響き渡った。
『ケルン大聖堂を訪問中の観光客の皆様に、非常に残念なお知らせがございます。現在、大聖堂は過去の爆撃や煤煙による黒ずみの補修作業を行うため、一時的に立ち入りを禁止いたします』
「……ベルトランさん……。一体何をしたんですか……?」
「何をしたかだと? 簡単に伝えたまでだ。小僧、ここにはフランスの皇女であり、王位継承順位第1位のマリー・アントワネット12世王女殿下がおいでだ。現在、人混みのせいで殿下のご機嫌が極めて麗しくない。外交問題に発展させたくないのであれば、今すぐこの群衆をどうにかして排除しろと『言った』だけだ」
「……それは、ただの脅迫じゃないでしょうか……?」
「貴様はやはり青二才だな。これはあの方が普段他所で行っている脅迫の『脅』の字にも及ばない」
「……一体……。王女殿下は、どんな人生を……」
「貴様らのような凡人には、一生理解できんだろう。簡単に言えば、あの方が仰れば、有るものは無くなり、無いものが現れる……ということだ」
エドワードは感じた。マリー・アントワネット・ソードワード12世は、単に性格の悪い女ではない。世界のすべてを意のままに操れる権力を背負った女なのだと。
「これはこれは……失礼いたしました。フランスの王女殿下がお越しになると知っていれば……。あらかじめ準備しておくべきでした。わたし の失策です……」
「全く……。これだからドイツの神父はダメなのよ。ねえ、あなたの名前は何?」
「**私**の名前はルーカス・リスティヒ。この聖堂の末っ子神父です。現在、他の方々が不在なので、わたし が代わりにお迎えに上がりました」
「そう? 顔だけはマシね」
「過分なお言葉です。もし差し支えなければ、わたし が案内いたしましょうか?」
「案内してみなさい」
「では、ご案内いたします。まずは一般の方は入れない地下室をお見せしましょう。ですがその前に、あそこは光が届かない場所ですので、このランタンが必要になります」
「それにしても、なぜこんなに暑いの? はぁ……そのランタンの火、少し弱めなさい」
「申し訳ありません、王女殿下。少し火の勢いが強すぎたようですね。今、弱めます」
ルーカスは紫がかった光を放つランタンの火の強さを調節した
「到着しましたよ、皆様。こここそがケルン大聖堂に隠された秘宝であり、未だ世に明かされてはならない名画……レオナルド・ダ・ヴィンチ未完の力作、『審判の剣』です。
この絵の特徴は、ダ・ヴィンチ画伯が『騎士の太祖』と謳われるアイスランドのある洞窟の壁画を見て、インスピレーションを受け描かれた作品だという点にあります。冷たく降りた霜のように長く蒼白な髪、そして極めて冷静沈着で落ち着いた眼差し。さらに、彼が手にしている剣は『人の本質を見抜く』と言われています。ダ・ヴィンチ画伯は、どうしてもこれを表現したかったのだそうです。
この作品は、ダ・ヴィンチ画伯がまだ20歳と若かりし頃、インスピレーションを得るためにアイスランドを訪れた際、ある老人に案内されて辿り着いた洞窟で、その壁画を目にしたことから始まりました。その老人はこう言ったそうです。
『この壁画に描かれたお方は……世界で最も高貴で崇高なお方です……。しかし、世間では誤解され、暴君として描写されてしまったお方なのです……』
ダ・ヴィンチ画伯は感じたそうです。『あの壁画に描かれた男は、私がこれまで見てきた者の中でイエス様の次に神聖な存在だ』と。彼はフィレンツェに戻ると、すぐさま制作に着手しました。しかし、残念ながら絵は完成したものの、彼は満足されませんでした。




