シンギュラリティ宣言(後編)・4b
長椅子に座った森崎和馬は、迫りくる睡魔と必死で戦っていた。彼は常にチームのメンバーのことを把握していなければならないと気が張っていて、その気合のために誰よりも緊張し、誰よりも疲労していた。
「おい、和馬、そんなに目を血走らせていなくてもいいんだぞ。ちょっと横になって目を閉じろ」
と、優しい言葉を掛けたのは、第十七小隊アルファ・チームの救命医、夏木コウジだ。彼は相変わらずぴんぴんと跳ねるオレンジ髪で若々しい見た目だが、いつの間にやら二人の子を持つ立派なベテラン宇宙消防士になっていた。
「ありがとうございます。そうしたい気持ちはやまやまなんですが……」
和馬は目をシパシパさせて一生懸命休もうとするのだが、意識すればするほどかえって気が張ってしまって、何かをしなければならないような気がしてくるのだ。おかげで頭の芯が熱っぽくて、足元がふわふわする。
「ホットミルクでも持ってきてあげようか?」
そばに寄りそうコウジは、後輩のことをなんだか我が子のように愛おしく感じていた。ちょっとしつこく思われるかもしれないが、それがどうしたなんぼのもんじゃいという気分だ。
「なになに、ずいぶん優しいじゃない、お兄ちゃん」
そこに、妹のユズがひやかしにやってきた。夏木家の兄妹はいつもお互いをからかい合うほどに仲がいい。
「俺もずいぶん丸くなっただろ」コウジは胸を張った。
「家ではずいぶん虐げられてるんでしょ?」
ユズは、憐れみを顔いっぱいに湛えて言った。それは冗談ではなく心の底からの言葉だということが表情に表れている。コウジの妻の冬樹冴子は誰もが認める最高の保育士だが、本物の鬼も裸足で逃げ出すような鬼嫁であることは周知の事実だ。
「いやいや、みんなはそう言うがな……」
コウジは両手を顔の前で大きく振り回しながら否定した。「端から見たら奥さんの尻に敷かれているように見えるかもしれないが、あれはそういう信頼関係があってこそのものなんだぞ」
ユズは真顔になった。
「なるほど、お兄ちゃんは喜んであの仕打ちを受け入れているということなんだね」
「無論だ」
コウジはきっぱりそう言い切ると、すっかり忘れていた後輩の和馬に顔を向けた。「お前もいつか嫁さんをもらうことになったら、俺が言っていることの意味が分かると思うぞ」
「は、はい……」
慌てて返事をした和馬の頭の中には、長い髪を振り乱して怒り狂った顔をしている海野沙織のイメージが浮かんでいた。何をやらかしてそんなに怒らせてしまったのかはわからないけれど、やがてこんな目に遭うことが日常茶飯事になるのではないかという恐怖が、彼の胸にむくむくと膨れ上がってきた。
しかし、同時に、沙織と共にこれから経験していくであろう様々な出来事が思い浮かび、彼の不安を打ち消してくれた。同じ署で働き、共に成長し、喜びや苦しみを分かち合えるパートナーがいることはとても心強い。ほんの二日前に、和馬は沙織に思いを伝えた。そうせざるを得なかった。なんとも思ってもいない相手に、「これから一緒に歩いていこう」なんていう大層なセリフが吐けるわけもなく、ずっと彼女のことを魅力的に思っていたからこそ、そういう言葉が自然と口から溢れてきたのだ。
「そうですね、僕もコウジさんの言葉の意味が分かるときが来ると思います」
和馬がすがすがしい顔でそう答えると、コウジは満足そうに笑った。
「そうだろう、そうだろう……」
それから、横でニコニコして聞いているユズに向かってこう言った。「おい、ユズ、ボーっとしてないでホットミルクでも注いできたらどうだ。気の利かない奴だな」
するとたちまちユズはムッとした顔になった。
「なんだよ、十二話目にしてやっとセリフがもらえたからって調子に乗って」
「それを言っちゃあおしまいだろ。俺なんかまだマシなほうだぞ。小隊にはまだセリフがもらえてない奴だっているんだから」
「お前たち、いったい何の話をしているんだ?」
さっきから長椅子で横になってくつろいでいた龍之介が、うるさそうに起き上がった。「わけのわからないことを言っていないで、しっかり休め。あと二時間半で現場に出発だぞ」
ユズは「はーい」と言って、とぼとぼとケータリングのほうへ向かった。ついでに振り返り、「ミルクは二つでいいの?」と訊いた。
コウジは周囲を見回した。ここには龍之介以下、第十七小隊アルファ・チームの先輩たちがその鍛え抜かれた肉体をどっしりと横たえている。
「おい、ロジャー、お前、なんか飲むか?」
コウジからロジャーと呼ばれたパイロットの山田健太郎は、両手を枕にしたまま薄目を開けた。
「十二話目にしてやっと出番かい?」
「そうだ、言いたいことがあったら、今のうちに言っておけ」
「しのぶ君はどこにいる?」
「お前の彼女なら、あそこでアイスクリームをみんなで分け合ってるよ」
「じゃあ、俺もあっちに行ってみるか」
健太郎は長椅子の上でむっくりと起き上がると、その長身で大きく伸びをして、引き締まったハンサムな顔をさらに引き締めた。
「いいよな、色男は」コウジは羨ましそうに言った。
「色男は色男で、けっこういろいろ大変なんだぜ」
健太郎はそう言い残して、女子たちが大騒ぎしているケータリングへと歩いていった。たちまち歓迎の黄色い声が沸き上がった。
「いいよな、色男は」
コウジは、また羨ましそうに言った。
「ねえ、他に飲み物がいる人はいないの?」
ユズはまだそこに立ち止まって待っていた。意外に気を使うタイプなのだ。
「待ってろ、まだセリフがもらえていないメンバーがいるんだから」
コウジはそう言うと、そばでまだ寝ている男たちのほうに目を向けた。
そこには通信士の犬養守と、新しく宇宙船技師になった坂本充樹がいた。
「こいつらの紹介もしてやらなきゃな」コウジは言った。
「守さんは私の旦那さんだよ」と、ユズは言った。
ちょっと長めの4cに続く。




