シンギュラリティ宣言(後編)・3a
スペース・バイクにまたがった翼は、今度は事故現場の真っただ中にあるカエサル号と、そこで救助活動を行っている華たちの元へと向かった。
管制からの補助がないので、軌道計算は自分のネビュラで行う必要があった。翼の耳の後ろに埋め込まれた極小のチップが唸りを上げた。あまり酷使すると火傷しそうになるほど発熱するから注意が必要だ。
鼻の長いスペース・バイクは錐もみ状態で前進した。スラスターから噴射する窒素が、四方八方に飛び散ってバイクの姿勢をコントロールする。花火の明るさのせいで真っ白に染まっている地球が、8の字を描いて頭上と足元を交互に通過した。
カエサル号が次第に近づいてくる。さっきまでがっちりと組み合わさっていた事故船が、今度はそれぞれの慣性でバラバラに分離しようとしている。それを宇宙消防士たちがネットを張って食い止めようとしていた。
「お姉ちゃんたち、お疲れ様。こちらはどんな具合ですか? 不足しているものはありませんか?」
「はいはーい」
翼が近距離回線で呼びかけると、救命医の天野妙子がすかさず応答した。花火の閃光と宇宙船の影のコントラストに遮られて、彼女の姿こそ見えないが、その柔らかで優し気な声は気持ちよくこちらに伝わった。
「ちょうどよかった、翼ちゃん、ちょっと向こうのほうまで行って、ネットの端を支えてくれる?」
「向こうって、どっちですか?」
「あっちのほう」
妙子がそう言うのと同時に、大きく広がっているネットの向こうにピンクの逆三角マークが閃いた。「そこに愛梨紗がいるから」
ネットの端を引っ張る仕事なら、さっき同じことをやってきたばかりだ。翼は腕まくりをする真似をして(実際に腕まくりすると死ぬので)から、覚えたての言い回しで気持ちよく返事した。
「了解しました。そのくらいの仕事なら、合点承知のすっぽこぽん、お茶の子キノコのタケノコさいさいですよ」
「なにそれ?」と妙子は訝しそうに訊き返した。
「幸子さんから教わったんです」
「そんなの今すぐ忘れなさい」
妙子はぴしゃりと言った。その口ぶりは大真面目中の大真面目だ。「今すぐ忘れるの。脳みそが腐っちゃう前に。さもないと、あの人に身も心も乗っ取られちゃうよ」
妙子は、まるで縁起の悪い妖怪か化け物を扱うような口調で、吐き捨てるように言った。
翼が防護ネットに沿ってバイクを飛ばすと、本当にピンクの逆三角形のところでパイロットの佐藤愛梨紗が手を振って待っていた。相変わらず愛梨紗は小柄でちびっこい。みんなと同じオレンジ色の防護服を身に着けているのに、明らかに二回りほど小さい。翼は思わず微笑みが漏れてしまった。
愛梨紗が浮かんでいる周りには、折りたたまれた防護ネットがヴェールのように波を打って漂っている。
「翼ちゃん、よかところに来たね。これば、ちょっと向こうまで引っ張っていってくれん?」
愛梨紗が掴んでいるネットの端には、頑丈で大きなカラビナが取り付けてある。
「愛梨紗さん、テールの下にフックが付いているから、そこにカラビナを通してください」
「ほいきた」と愛梨紗。
カチャリと音がして(それは翼の尻に伝わってきた)、大きな防護ネットの端がスペース・バイクと繋がった。その途端に、バイクの姿勢が大きく崩れた。重力はないはずなのに、慣性でいろんな方向に重みがかかっているからだ。
「翼ちゃん、しっかりせんね」
「ネビュラの処理が追いつかないんです」
翼の耳の後ろの端末が発熱して、真っ白なノイズが何度も視界を横切った。これはネビュラがフリーズする前兆だ。
スペース・バイクが錐もみして、てんで見当違いの方向に飛び始めた。広げていかなければならない防護ネットが、逆に縮む方向に寄り集まっていく。
「こら、翼、なにやってるの!」
どこから見ているのかわからないが、姉の華の声が翼のネビュラに届いた。
「いやーん、処理落ちだよ、お姉ちゃん、助けて!」
「自分で何とかしなさい」
「端末がアチアチなんだもん、もう無理だよ」
「しょうがないなあ……」
呆れたようなつぶやきが聞こえたかと思うと、次の瞬間には姉がすぐ後ろにやって来ていた。身体のあちこちのスラスターから窒素が吹き出す小気味よい音と共に、姉の身体は翼の背中にがっちりしがみついてきた。
「しっかりハンドルを握ってなさい。姿勢は私が制御するから」
華がすぐ耳元でささやきかけてきた。翼は背中全体で姉の身体の柔らかさを感じて、妙に胸がドキドキしてしまった。
姉のとっさの応援のおかげで、バイクは正常な姿勢を取り戻した。




