シンギュラリティ宣言(前編)・3b
バスルームの洗面台で歯を磨いていたマーガレットは、リビングから聞こえたマルコの悲鳴に驚かされた。
水をなみなみと汲んでいたコップが宙を舞い、床を転がって、足元を水浸しにしてしまった。
「なんだよ、あいつ、変な声出しやがって」
マーガレットは悪態をつくと、蛇口から直接、水を掬って口をゆすいだ。せっかく履いたばかりのおろしたての靴下がびちゃびちゃだ。濡れてしまって脱ぎにくいそれを、マーガレットは片足立ちでぴょんぴょん飛び跳ねながら脱いだ。彼女はすでに警察の制服に着替えており、半袖のワイシャツにネクタイ、黒いショートパンツをばっちり着込んでいた。ピクシーカットの極めて短い黒髪は、まだこれから寝癖を直さなければならないところだった。
彼女が片足でぴょんぴょんしている間も、リビングからはマルコの間の抜けた悲鳴が聞こえ続けている。
「おいこら、マルコ、なんだよ、やかましい」
裸足で廊下を走ったマーガレットがリビングに頭を突っ込むと、マルコはベビーベッドの横で目をかっぴろげて手招きしていた。
「マギー、早くおいで」
そのただならない様子に、すぐ事態を察したマーガレットは、唇の前で人差し指を立てた。
「ばか、あんまり騒ぐな」
彼女がそうっとベビーベッドに近づき、おそるおそる見下ろしてみると、そこには、ぱっちりと大きな目を開いたアリア・ヴィアが、嬉しそうに両手を上に伸ばして笑っていた。
その目は見事な琥珀色だった。透き通ったゴールドの瞳は、香り豊かな紅茶のように魅惑的だった。初めて空気に触れた瞳はたっぷりと涙に濡れ、力強さと柔らかさの両方を備えた、奥行きのある輝きを湛えている。
「あら、アリアちゃん、とうとうお目覚めになりましたね」
さっきの変な悲鳴で驚かされてくさくさした気分になっていたマーガレットは、たちまち心が洗われるように気分が良くなった。
アリアは「だあだあ」と小さく声を上げながら、両手を必死で上に伸ばしている。この子がそうして声を出すのもまた、初めてのことだ。声を出すときのアリアは、ぽってりとした唇を前に突き出すようにしている。その表情は実に新鮮だった。
「抱いてほしいみたいだよ、マギー」
マルコは遠慮がちに一歩引いて、そう言った。彼は初めてアリアを抱きかかえる栄誉を、自分以外の三姉妹の誰かに譲るつもりのようだ。
「その心遣い、痛み入る」
マーガレットは珍しく丁寧にお礼を言うと、大急ぎで赤ん坊の前に手を差し出した。これ以上、この子を待たせるのはかわいそうでならないという焦燥感が彼女の胸に湧き上がっていた。
マーガレットの胸に収まったアリア・ヴィアは、ようやくのことで安住の地を得たかのような、安らかな笑顔を浮かべた。そのキラキラした瞳には、見る者を吸い寄せて離さない魔力が備わっているようだ。
「お腹はもういっぱいなの? オムツは気持ち悪くない?」
そう訊かれたアリアは、ただただニコニコと笑っているだけだ。それでもマーガレットは大満足だった。
「お腹いっぱいなのね? せっかく目が覚めたなら、これから一緒に遊ぶ?」
そこにマルコが横から口を挟んだ。
「マギー、あと十分で迎えの船が来る予定じゃないのか」
「シャラップ、貴様、口をちょん切られたいのか」
マーガレットは、マルコをキッと鋭く睨みつけた。「その予定をなんとかするのもお前の仕事だろ。ところで、姉さんたちには連絡したのか?」
長女のアレクサは昨夜のうちに寝室を抜け出してどこかに出掛けてしまっていた。次女のステファニーは、ついさっきまで大騒ぎしながら身支度していて、ようやく門の外に出たばかりだった。
マルコはぶんぶんと首を横に振った。
「ステファニーを呼び戻してみるか」
マーガレットはネビュラを姉の回線に繋いだ。「ねえ、お姉ちゃん、今どこ?」
ステファニーはすかさず応答した。
「職場に向かってるところだよ、どうしたの?」
ステファニーは息を切らしていた。入社したばかりの会社の二日目の出勤だから、遅刻するわけにはいかないのだ。
「もう船に乗っちゃった?」とマーガレット。
「乗っちゃったよ」
ベゼル・リングの工事現場に向かう作業員専用の乗り合い宇宙船は、厳密に出発時間が決められている。それに乗り遅れると、次の便は一時間後だ。
「今から戻ってこれない?」とマーガレット。
「戻ってこれるわけないでしょ」
まあ、それは当然か、とマーガレットは思いつつ、ならばこれからどうすればいいのかと、彼女の頭はめまぐるしく働いた。
「アリアちゃんが目を覚ましたんだけど」
ネビュラの向こうでその言葉を聞いたステファニーは、しばらくの間黙り込んでいた。彼女の頭の中も、妹と同じくめまぐるしく回転しているようだ。
五秒ほど間があってから、ステファニーはこう言った。
「アレクサはどうしてる?」
「まだ帰ってきてないよ」
「すぐ連絡とって」
「わかった。お姉ちゃんはどうするの?」
「どうしても帰らなきゃならなくなったら帰るよ、それまで、あんたたちでなんとかして」
「了解」
「もう船が出るから、なんとかがんばって」
そこで通信を打ち切ろうとしたとき、マーガレットはふと思いついて、こう呼びかけた。
「お姉ちゃん、アリアちゃんの声、聞きたくない?」
「聞けるの?」ステファニーは驚いている。
「ちょっと待ってね」
マーガレットは、「よいしょ」と言ってアリアの姿勢を直すと、その子の口元に自分の耳を持っていった。
「ねえ、アリアちゃん、ステファニーって呼んでみて」
アリアは怪訝な顔をして、首を傾けている。まだ首がすわってはいないから、たんに元の姿勢のままなのだが、マーガレットから見たそれは首をかしげているようで、かわいらしくてたまらなかった。
「ス・テ・ファ・ニー」とマーガレットは言った。
アリアは何も言わない。
「ス」とマーガレット。
「ス」とアリアは真似をした。
マーガレットはきゃっと小さく悲鳴を上げて、その後を続けた。
「テ」とマーガレット。
「テ」とアリア。
「ファ」とマーガレット。
「ファ」とアリア。
「ニー」とマーガレット。
「ニー」とアリア。
「上手上手、続けて言ってみて、ステファニー」
「ステファニー」
ネビュラの向こうで、ステファニーの息を呑む声が聞こえた。マーガレットは満足そうにほくそ笑んだ。




