再就職・4b
翼は思いついた言葉を言いたいだけ言うと、その録音記録をネビュラの中のプライベート・アーカイブにそっと仕舞い込んだ。いつかこれを発表する機会が来たらすぐ取り出せるように、そのファイルは最上段の階層に保存した。
それから風防ガラスの外に目を向けた。早く出発しすぎたのか、第十八小隊の仲間たちの姿はどこにも見当たらなかった。ただすぐ近くに大きな大きなベゼル・リングが二重になって、もつれ合うように回転しているのが見えるだけだ。そのうちのインナー・リングと船が同期しているために、宇宙エレベーターで繋がった真っ青な地球が頭の上や足の先を八の字を描いてぐるぐると回っている。
翼は両方の握りこぶしをまっすぐ上に振り上げて、大あくびした。のどちんこがぶるぶる震え、顎が関節から外れそうになってもまだ止まらないくらいに大口を開けた。
「まったく、みんな何やってるんだよ」
そんなことをつぶやきながら、翼がぱくんと口を閉じたとき、真正面の風防ガラスの外に何かがどしんと衝突した。
翼は息が止まるかと思った。
それが人間だということがわかるまで、しばらく混乱する時間があった。その人物はぎらぎらと光を反射する銀色の宇宙服を着て、顔の見えない不透明な銀色のヘルメットをかぶっていた。それが、しばらくの間ガラスの向こうでばたばたともがいたかと思うと、やがて手足を伸ばしたヤモリのようにガラスにへばりついて、ようやく動きを止めた。
「ぎゃああああああああああああ!!!!」
途端にネビュラの向こうから、切迫した天野妙子の声が届いた。
「どうしたの? 翼ちゃん、何かあったの?」
翼は操縦席から転がり落ちそうになったが、しっかりと締まっていたハーネスによって座席から少しも動くことがなかった。その代わり、両肩と脇腹に深くベルトが食い込んだ。
ガラスの外の銀ずくめの人物は、滑らかな曲線を描く肉感的なプロポーションを持っていた。一目でそれが、日々肉体の鍛錬を怠らない女性のものだということがわかった。その人物は、爬虫類のような動きでガラスの上で両手両足を突っ張らせると、軽く拳を握ってコンコンとノックしてきた。
「あなた、誰ですか?」
翼は外に向かって呼びかけた。その視覚と聴覚はネビュラを通して、遠くにいる天野妙子や姉の華にも届けられている。
「ごめんなさい、ちょっと足を滑らせちゃって。ちょうどいいところにあなたの船があって助かったよ」
快活でありながら艶めいた女性の声が、英語でそんなことを言った。
「あなた、作業員の方ですか?」翼はまだばくばくする心臓を抑えながら訊いた。
「まあ、作業員といったら作業員かな」
彼女がガラスに貼りついていられるのは、表面に微細な毛を生やすことでファンデルワールス力を発生させ、強力な吸着を可能にする手袋と靴を履いているからだ。それは宇宙で活動する者ならば必ず用いるべき常識的な装備であり、けっして珍しいものではない。
「お怪我はありませんか? よかったら、中へ来られませんか? 一応私、宇宙消防士なので」
「ちょっとお願いしようかな。もしかしたら、生命維持パックに故障があるかもしれないから」
見れば、銀色ずくめの女性は背中にこれも銀色な薄い板状の生命維持パックを背負っていた。それが遠目から見てもわかるほどに、くの字に変形している。どうやら背中から落下したときに、パックがその衝撃をもろに受け止めたらしい。
「どうかそのまま動かないで、アームであなたを回収しますから」
多関節ロボットアームが、船の両側面から二本現れた。それが、にょきにょきと関節を増やしながら伸びていき、ガラスにへばりついている女性を優しく包むように捕まえた。
「エアロックにお迎えしますね」
翼は親切に声を掛けながら、銀ずくめの女性をエアロックへと運び込んだ。エアロックは船底に大きく扉を開ける構造になっているので、彼女を難なく収容できた。
エアロックのハッチが閉じ、室内に圧縮空気が満たされていく音が、操縦席にいる翼の耳にも聞こえてきた。
「お姉ちゃんと妙子さん、今からあの人の具合を確かめるので、私にわからないことがあったら質問してもいい?」
「もちろん、遠慮なくどうぞ」と妙子は答えた。
「お姉ちゃんも見えてる?」と翼。
「ちゃんと見てるよ」
と、華も答えた。「あんたの現場初日の姿をしかと拝見させてもらうよ。一応、一通りの訓練は受けたんでしょ?」
「付け焼刃ですが、あとは根性でなんとかやってみせます」
翼はハーネスを外すと、座席の肘あてに両手をついて、すぽんと上に向かって飛び出した。彼女の軽い身体は背もたれを飛び越え、狭い通路へと見事に着地した。
「具合はいかがですか?」
翼が、足元のハッチを開いてエアロックを覗き込むと、そこに銀ずくめの女性がくつろいで座っているのが見えた。両足を伸ばし、両腕を後ろに回してのけぞらせた身体を支えている。
「どうもありがとう」
その女性は、銀色の不透明なヘルメットをかぶったまま顔を上向けた。そのヘルメットは彼女の小さな頭にぴったり合わせたサイズで、なんだか水銀が球になって宙に浮いているような奇妙な眺めだった。
折れ曲がった生命維持パックは、床に放り出されていた。そこからしゅうしゅうとガスが吹き出し、金属の床を曇らせていた。他にもいろいろな液体が漏れ出しているのが見える。
「間一髪でしたね」
翼は梯子を使ってエアロックに下りると、座り込んでいる女性の横でしゃがんだ。「バイタルチェックをしますので、少し失礼します」
ヘルメットを脱がせようと、翼が遠慮がちに手を伸ばしたとき、当の女性はすぐさま自分でそれを剥ぎ取った。
さらりと音がして、まっすぐなブロンドの髪が垂れた。その女性は汗で額にへばりついた前髪を自分でかき上げてから、垂れた長い髪を両手でつかみ、たちまちそれを頭の後ろで束ねてしまった。それから、いつの間にか口に咥えていたピンを一本、束ねた髪に挿し込んでアップにまとめた。
「これで邪魔にならないでしょ?」
にっこり笑ったその女性は、自分の美しさで人がみな息を呑むことはすでに十分に承知していますといわんばかりの自信に満ちていた。
翼は、これほどまでに透き通った青い目と、これほどまでに艶やかな金髪の女性を初めて見た。
「ありがとうございます」
翼は、いろんな意味のこもったお礼を言った。
「翼、バイタルチェックが済んだら、その方の身元情報と一緒に報告を寄こしてくれる?」
ネビュラの向こうから、姉の華からの事務的な声が響いた。どうやらあっちでは、いよいよ慌ただしい動きが始まったらしい。隊員たちがわいわいと行き交う物音が聞こえてくる。
「あなたたちも忙しいみたいだね。そう長くはお邪魔していられないかな?」
「いいえ、お気になさらないで」
翼は、金髪の女性の手を取った。そうすることで、彼女の身体の状態を知ると同時に、身元情報を収集することもできる。ただし、プライバシーに関することを知るには、相手の了承を得る必要がある。
「私は、ステファニー・フーリエ」
女性は自分から名乗った。「アメリカのメルシー・スチール工業の現場監督だよ。社員証はこれね」
翼のネビュラに、ステファニーの全身を映した立体映像と、彼女を社員として証明しますという会社の文言の入った証明書が表示された。
「入ったばかりで、ヘマしたことを知られるとまずいんだ。どうかそのへん、うまく取り計らってよ」
ステファニーはそう言うと、愛想よく微笑んだ。




