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再就職・1a

 高層マンションのリビングは月明かりに照らされて、グラスの底のウイスキーのように琥珀色の光を溜めている。


 ダイニングテーブルの前で椅子に腰かけたマーガレットは、まだ警察の制服のままだった。白い半袖のシャツは泥に汚れ、黒いショートパンツはところどころが破れている。腰に巻いていたベルトキットはテーブルの上に放り出してあり、ホルスターに入ったままの拳銃が二丁、月明かりを鈍く照り返している。


 部屋を暗くしたままなのは、赤ん坊が気持ちよさそうにうっとりと目を閉じているからだ。マーガレットの胸に抱かれたその赤ん坊は、発見したときと同じく真っ白な布にくるまれ、柔らかくてむちむちした頬を桃色に染めている。


「さっきいっぱい飲んだから、もうさすがに無理かな」

 マーガレットがそう言いながら、哺乳瓶を赤ん坊の口元に持っていくと、赤ん坊は唇を尖らすように伸ばして、もっと飲ませろとせがんできた。


「まだ飲めるの? すごいねえ」

 機械細胞(マシン・セル)の赤ん坊がどのくらいミルクを必要とするかなんて、マーガレットには知る由もなかった。自分よりもいろんなことを知っているはずの二人の姉たちは、今ちょうど席を外している。


 リビングの隣りの個室から、何か重いものを落としたような振動が伝わってきた。この振動はさっきから断続的に一時間近く続いている。一定のリズムで揺れが長く続くときもあれば、激しい緩急が突然に展開されるときもある。


 マーガレットは揺れが起きるたびに、テーブルに置かれた花瓶の中のバラの角度を直さなければならなかった。

「よくまあ、体力が続くもんだわ。あなたはあんな大人になっちゃいけませんよ」

 マーガレットは呆れ顔で、赤ん坊に向かってそう語りかけた。彼女が微笑みを向けると、赤ん坊も目を閉じたままうっとりと微笑みを返してくれた。この子は目を開けてくれないので、その目が何色をしているのかは、まだわからない。


 そのときポーンと華やかな呼び鈴の音が鳴った。それは姉のアレクサが帰宅した合図だった。

 マーガレットがネビュラで「おかえり」と答えると、アレクサは「ただいま」と甘い声を返してきた。艶っぽさの中に、ほんの少し、疲れが混じっていた。


 玄関からリビングへと続く廊下を、姉が歩いてくる足音が近づいてきた。


 ドアのすりガラスの向こうに赤いドレスが見えたかと思うと、長いラディッシュ・ブラウンの髪をカールさせたアレクサがドアを開けて現れた。彼女の肉感的な身体に張りついた真っ赤なドレスが、なまめかしい曲線を描いている。少し酔ったように、剥き出しの脚をもつれさせて、彼女は裸足で歩いていた。


 アレクサがリビングの半ばまで入ってくると、ふわりと甘い香りが部屋中に広がった。

「ただいま」

 アレクサがもう一度声を掛けると、マーガレットは、

「お仕事お疲れさま、お姉ちゃん」と返した。


「本当に疲れたわ」

 姉がダイニングの椅子にどさりとお尻を置くと、香水に混じったお酒の匂いが漂ってきた。彼女の少し目尻の垂れた視線が、マーガレットの胸の中の赤ん坊に注がれた。

「その子が例の子ね」

「そうだよ」

 マーガレットは、哺乳瓶の先を赤ん坊の口にあてがっている。相変わらず食欲は旺盛で、ぐびぐびとミルクを飲む音がかすかに聞こえてくる。


「名前は決めたの?」アレクサは訊いた。

「うん」とマーガレット。

「なんにしたの?」

「アリアちゃん」


 それを聞いたアレクサは、ちょっと黙り込んだ。

 不安になったマーガレットが、姉のほうへ顔を向けた。

「何か問題かな?」

「ううん」

 アレクサは首を横に振った。その顔は穏やかだった。「あなたも、あのとき、あの声を聞いたのね?」

「うん」

 マーガレットはうなずいた。


 あのときのあの声とは、貨物船で爆発が起きたときにどこからともなく聞こえてきたあの声のことだ。あれは大人びた女性の声だったような気がする。


 アレクサは言った。

「あのとき、『今日から、あなたたちは別の道(アリア・ヴィア)を歩みなさい』って言われた気がするんだけど、マギーもそう聞こえたのね?」

「うん」と、マーガレットは素直にうなずいた。「だから、この子の名前もアリア・ヴィアなの」

 アレクサは、くすりと微笑むと、赤ん坊の頭をそっと撫でた。ふわふわの綿毛のような髪が、柔らかく指先に触れた。


「もう二度と、私たちは人を殺しちゃいけないらしいわ」

 アレクサはそう言うと、テーブルに放り出されていたマーガレットの拳銃を何気なく手に取った。

 そして、その銃を、さっきから断続的に振動を起こしている個室のドアに向かって構えた。


 彼女が引き金を引こうとすると、それはがっちりと固まったように動かなかった。


「やっぱりそうか」

 アレクサはつぶやくと、赤ん坊の顔を見た。「私たちはもう、この子の庇護下にあるということなのね」

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