アリア・ヴィア・4b
まるで大きなシャボン玉だった。見上げるほどに大きな大きなシャボン玉だ。それが貨物船の全体を包み、さらに大きく膨らんでいる。
厚さは一ミリにも満たないであろう、薄い薄い膜が、全長百メートルを超える貨物船よりもはるかに広い範囲へと拡大していく。太陽の光を受けて、膜の表面は玉虫色に変化し、光沢のある七色に染まっている。
ただのシャボン玉と違うのは、それが物質を消化吸収する力を持っているということだ。貨物船がなぎ倒してしまった森の木々を膜が飲み込むと、それらはたちまち分子レベルまで分解され、どろどろの濁った液体となって地面の上を這いずりまわった。
ミリオナリオス財団の巨大な貨物船は、次第にその形を失いつつあった。さきほどの爆発によって天井から横っ腹へとひと続きの大穴が空いた船からは、溶けた物質が内臓のようにどろどろと溢れ出していた。
「こちら隊長のハリー・グラハム、全隊員の無事を確認したい。生きているならネビュラで応答を頼む」
それは奇跡のようだった。隊長の要求に従って返ってきた声は、隊員全員の無事を伝えるものだった。
「こちらエドガー・ルイス巡査。爆発に巻き込まれましたが、なぜだか助かりました」
「エド、現在地はどこだ?」隊長は訊いた。
「貨物船から見て三時の方向です」
「お前の他に、そばに誰かいるか?」
「エドワード・オニールと、ウィリアム・バックがいます」
「怪我はないか?」
「驚きましたね……、骨の一つや二つは折れていてもおかしくないと思ったんですが、調べてみると、どうにもなっていません。そばにいる二人もそうです。隊長こそご無事ですか?」
「たぶん、お前たちと同じだと思うぞ。落下の衝撃も不思議と感じなかった。爆発が起きた瞬間のことは、今でもはっきりと思い出せる。ネビュラで撮った映像よりも、もっと鮮明で具体的な記憶が俺の中に残っている」
「たぶん、俺も隊長と同じだと思います」
「動けるなら、すぐに体勢を立て直せ。知性体を狙う奴らがまだ周囲にいるはずだ」
「了解」
ハリー・グラハム警部補と部下との間に、そういったやり取りが矢継ぎ早に繰り返された。彼らの証言はどれも似ていた。大きな怪我を負うどころか即死していても仕方がないほどの飛ばされ方だったのに、誰一人としてかすり傷以上の負傷をした者はいなかった。そして、みんなが口をそろえて言うのは、地面に転がされたときに、何か大きな柔らかいものに包まれたような感覚があったということだ。
「まるで生まれたばかりの赤ちゃんを包む布にくるまれたみたいな感じでした」
八時の方向に飛ばされていたハロルド・フォークナー巡査部長は、その大きなお腹を叩きながら感慨に浸っていた。「これは神の奇跡なのでしょうか?」
彼のすぐそばにグラハム警部補は倒れていたので、すぐに首を横に振って否定した。
「見たところ、この奇跡を起こしたのは機械細胞のようだぞ」
「ならば、彼らに感謝しなければなりませんね」
「そもそも最初に爆発を起こしたのは奴らだからな」
内側から外側へと爆発の衝撃が広がったことは、外に向かって船の外殻が花びらのように開いていることからも明らかだ。その証拠が、今は透明な膜の分解作用によって次第に消滅しつつあった。周りで倒れている隊員たちは、失われそうになっている情報を本部に送るために、ネビュラの視覚を通して現状をしっかりと観察した。
隊長のグラハム警部補は、すぐ横でいつまでもぼんやりしているハロルド巡査部長に呼びかけた。
「ハロルド、さっさと起きて任務に戻れ」
グラハム警部補とハロルド・フォークナー巡査部長は二年しか違わない、ほとんど同期のような関係だ。先輩の特権として、「ハリー」という愛称はグラハム警部補が獲得していた。彼の本名はヘンリー・グラハムといって、その短縮形はハロルドと同じ「ハリー」だった。
ハリー・グラハム警部補はその場で身体を起こすと、全身にまとわりつく湿った腐葉土を払い落した。すぐそばに大きなブナの木が倒れていて、そのまっすぐな幹が折り重なった下に、マーガレットが横たわっている。
グラハム警部補は、ゆっくりとそちらに近づいていった。彼の右手は、無意識に腰のホルスターへと伸びていた。
警部補は言った。
「マーガレット、意識はどうだ?」
「びっくりするほど鮮明です」
彼女は短い黒髪に乗っている木の葉を指先でつまむと、それを不思議そうに見つめた。
「それなら、さっきお前が言ったこともはっきり覚えているな?」
「はい」
警部補がまっすぐな目で問いかけると、マーガレットもまっすぐな目でそれを見つめ返した。その様子を、まだぼんやりと地面に座り込んでいるフォークナー巡査部長が、離れたところから眺めている。
「お前はさっき、俺に向かってお別れのようなことを言っていたな?」
「はい」
「あれはどういう意味だ?」
グラハム警部補の視線は、マーガレットの腰に巻かれたベルトキットに注がれていた。本来、緊急出動部隊の備品として支給されたものとは異なる小さなポーチが、彼女の腰の右横に装着されていることに、彼は今になって気づいたのだった。
地面に横座りしているマーガレットの前に、グラハム警部補は威圧するように立った。
「差し支えなければ、そこに入っているものを見せてくれないか?」
「はい」
マーガレットはためらうことなく答えると、腰のポーチをぱちりと開けて、中から小さな拳銃のようなものを取り出した。その間中、彼女の黒曜石のような瞳はじっと警部補の視線を見つめ返していた。余計な動きを見せれば撃たれることを、彼女は理解していたからだ。
マーガレットは座ったまま、手を上に伸ばした。
手渡された小さな拳銃のようなものが、警部補の手に乗せられた。それはずっしりと重かった。そのデータは、彼のネビュラを通して本部へと送られ、データベースの情報と照合された。
「これは署で支給されたものではないな? マーガレット」
「はい、それは私物です」
「許可のない銃砲の所持は、警官であっても違法になることはもちろんわかっているな?」
「もちろん、わかっています」
マーガレットの態度があまりに毅然としているので、警部補は不思議と襟を正さなければならないような気持ちに追い込まれていた。
警部補のネビュラに、本部からの分析結果が送られてきた。マーガレットが所持していた小さな拳銃のようなものは、改造された核融合エネルギー銃だった。それは発射された瞬間に使用者もろとも蒸発させるほどの威力を持つ、恐ろしい道具だった。軍の倉庫の奥に厳重に保管されていなければならないような代物だ。
「これで何をするつもりだったんだ?」
ゾッとする気持ちを口髭の内側に隠しながら、グラハム警部補はあくまで冷静にマーガレットを問いただした。そのとき、彼のネビュラには辺りに散っている隊員たちからの報告が嵐のように届けられていた。警部補は「臨機応変に動け」とだけ伝えて、彼らの判断に任せた。
今はマーガレットの尋問が最優先だ。彼女がギャングの仲間である可能性が出てきてしまったからだ。
「空からの爆弾を防ぐためです」
マーガレットは率直に答えた。「私は常々、テロリストに対して強い火力が必要だと考えてきました。相手が事を起こしてからでは遅すぎるからです」
「だから法を破ってでも、先に相手を無力化しようと思ったわけか?」
「そうです」
マーガレットはあくまでも真実を口にした。彼女がギャングの一味であること以外のことならば、訊かれたら正直に答えるつもりだった。「相手はきっと、ノヴァの強奪に失敗したなら、証拠もろとも消し去るつもりだったでしょうから、私は仲間のみなさんの身代わりになって、それを防ぐつもりでした」
「そうか……」
警部補がその場に立ち尽くしていろいろ考えている間も、彼のネビュラにはたくさんの方面からの声が届いていた。本部や消防からも現状を伝える情報が送られてきた。ギャングの行方を追っていたエディ・マーカス警部からは、現在見えない敵との銃撃戦の最中だという連絡が入った。
「ハリー、流れ弾に気をつけろ、お前のそばにも弾がかすめるかもしれん」
角刈りで筋骨隆々としたマーカス警部が、数十メートルしか離れていないところで、息を切らして銃を撃ちまくっていた。
貨物船の周囲に広がっている透明な膜が、さっきよりも速度を増して拡大していた。分速二メートルほどの速さだが、その恐ろしい分解作用から考えるに、すぐにこの場を離れる必要に迫られていることは明らかだ。
「マーガレット、すぐにここを立ち去らないと、あのバカでかいシャボン玉に呑み込まれて死ぬぞ」
警部補が言うと、まだ地面に座り込んでいるマーガレットはまっすぐな目で見つめ返した。
「私の処分はどうなりますか?」
「今はそれどころじゃない。手錠は掛けないが、お前は容疑者だ。逃げれば撃つぞ」
「お言葉通りにいたします」
マーガレットは自分の意志で立ち上がると、支給された背中のサブマシンガンと腰の拳銃を気にするそぶりを見せた。
グラハム警部補はすかさず言った。
「銃はそのまま持っていろ。容疑の内容が明らかになるまでは、お前も隊員の一人だ」
マーガレットはなんだか感動してしまって、その信頼に必ず応えたいという気持ちがぐっと胸に湧き上がった。
「ありがとうございます、隊長」
とにかく船に戻って、この場から脱出しなければならない。グラハム警部補の隊と、マーカス警部との隊で、それぞれ二隻ずつの特殊装甲宇宙船があった。それとは別に、次々と飛来してくる消防隊の船もある。
「一人残らず船に乗せて、ともかく脱出だ」
グラハム警部補が走りながらそう呼びかけると、マーカス警部だけが不満そうな声を上げた。
「奴らをとっ捕まえるまでは、俺はここを離れるつもりはない」
「お前のその意地は、次のためにとっておけ。隊員たちを無駄死にさせたら、それこそ次がないぞ」
特殊装甲宇宙船に一足先に辿り着いたグラハム警部補は、ネビュラを使って大声で呼びかけた。「ここにいる全精鋭に告ぐ。まずは身の安全を確保しろ。自分の命を守れ。話はそれからだ」




