アリア・ヴィア・3a
赤ん坊を放り投げたマーガレットは、サングラスの機能を止めた。
彼女がサングラスを掛けている顔が一瞬だけグラハム警部補の視界の端をかすめたが、それがあまりに一瞬だったために、気づかれずに済んだ。警部補が格納庫の引き出しのほうに意識を集中していたことも助けになった。
「おかしいですね、何も聞こえなくなりました」
マーガレットが額の汗をぬぐいつつ、すっとぼけたことを言うと、警部補は顔を上げて鋭い視線を彼女に向けた。
「もう少し耳を澄ませてみろ、俺には何かが聞こえたぞ」
それはおかしいですね、きっと思い込みではありませんか、と笑って取り繕おうとしたマーガレットではあったが、グラハム警部補の表情があまりに真剣なので、彼女も真顔を継続しなければならなかった。
「マーガレット、他の隊員たちからのサンプルを分析してみたんだが、確かに何か、声らしいものを検知した気配はあるんだ」
「本当ですか?」
嘘から出た実か、あるいはただの偶然か、グラハム警部補は緊張のあまりに口髭をぴんと立てて、ささやくように言った。
「機械細胞の知性体が俺たちに助けを求めているのかもしれん」
それは確かにあるかもしれないと、マーガレットは思った。おそらく人間よりも高い知能を持つ機械細胞が、人間の言いなりになることを何の疑問も感じずに受け入れるはずがないのだ。彼女が自分自身の人生を振り返ってみても、そうした従属的な生き方が受け入れがたいことは間違いない。
これまでいくつもの世代を経てきた機械細胞の知性体には、さまざまなバージョンが存在する。三年前に誕生した初代のエルピスから始まって、サルトゥス(飛躍)、プロキシマ(もっとも近い)、ラディックス(根本)といった名前を持つバージョンが矢継ぎ早に生み出されてきた。
なぜそれほどまでに短期間で新しいバージョンを生み出さなければならなかったかというと、機械細胞の知性の進歩があまりにも早すぎて、人間がそれに追いつけなくなってしまったからだ。
彼らは自分で自分の子孫を作り出す。人間の手に負えない子孫を作られたのでは困るので、人間がそれに手を加えて、「知性を制限する」。つまりは、次々に生み出される新しいバージョンというのは、高すぎる知性を低く抑えるために細工を加えたものなのだ。
人間と機械細胞は話し合いの場を持つことで共存を可能にしている。機械細胞の親玉とも呼べる存在がこの世界のどこかにいて、その親玉と人間の親玉(国連事務総長がその役目を務める)が話し合うことで、両者のバランスを取っている。
機械細胞の親玉がどこにいるのか、それは完全に非公開だ。誰かにその場所を知られれば、間違いなく襲撃や強奪の危険にさらされる。そうなれば両者の信頼関係は破綻し、人類はたちまちシンギュラリティの波に呑み込まれて滅び去るだろうというのが、有識者たちの大方の予想だった。
機械細胞は今のところ人間のことを信頼してくれているようだ。だが、なぜ自分たちのことを信頼してくれているのか、それを正しく理解できている人間はあまりいないようだ。それはつまり、大きなリスクが常に潜在していることを意味する。その絶妙なバランスの元に、人類の未来は支えられていた。
その機械細胞の知性体の新しい世代を強奪するのが今の自分の任務なのだから、それによって人類の未来がどうなるのかをもっとも我がこととして考えなければならないのは、マーガレット自身だった。
彼女はこの日のために、何年もかけて根回しと勉強に明け暮れてきた。何の苦労もなしにひょいと警察官に就職できたわけではない。傍目にそう見えたとしたら、それは彼女の努力があまりにもぴたりとはまった成果だと言えよう。警察学校での半年間の訓練が免除されたのは、大学に通い、さまざまな職種でインターンとして働き、必要な資格を個々に取得していったからだ。だから彼女は、その気になれば警察以外にも消防や軍や宇宙開発機関にだって就職することができる。
もしかしたら、そんながむしゃらながんばりも、なにもかもがこの日のために用意されていたことなのかもしれない。マーガレットの胸の中を、不思議な充実感が満たしていた。
「ここで私が死ぬことは、それはそれで十分に意味のあることなのかもしれないね」
マーガレットはネビュラのプライベート回線を通して、姉のアレクサにそう伝えた。「お姉ちゃんたちと今まで一緒に暮らしてこれて、本当に楽しかった。何もかも失った私に生きる意味を与えてくれたのは、アレクサとステファニーの二人のお姉ちゃんたちだよ。ずっとずっと言いたかったこと、今になってやっと言えたよ。ありがとう。どうか、私の分まで幸せになってね」
すべてを伝え終わったマーガレットは、姉との通信を切った。同時に、向こうからの返事が聞こえないようにネビュラにロックを掛けた。
そして、彼女は目の前にいる上司に向かって言った。その顔からは緊張が抜けて、驚くほどすっきりしていた。
「グラハム隊長、どうもお世話になりました。短い間でしたけど、優しくいろんなことを教えてくれて、ありがとうございました。みなさんのことはけっして忘れません。どうかご無事で」
「何を言っているんだ? マーガレット」
唐突に妙なことを言い出した部下に、彼は怪訝な顔を向けた。
マーガレットは腰のベルトキットに手を突っ込んだ。そこには小ぶりの拳銃が隠してあった。それは機械細胞が仕込まれた小さな太陽とも呼べるもので、手の中に核融合爆発を起こすことができる道具だった。
彼女はそれを船の天井に向けた。




