アリア・ヴィア・2a
「姉さん、お願い、あと三十秒だけ待って」
マーガレットはとっさに、サングラスのもう一つの機能を起動させた。それは周りにいる者から、彼女の見られたくない姿を隠すための機能だ。サングラスから電波を発生させることで、ネビュラの中の情報を書き換え、相手の視覚と聴覚から真実を隠すことができる。
隊長のハリー・グラハム警部補が今立っている場所は、サングラスの効果がもっとも強く現れる半径二メートル以内だ。
マーガレットは念のために、小声で警部補を呼び寄せた。
「隊長、こちらへいらしてください」
「どうした? 何か聞こえるのか?」
うまい具合に警部補が近づいてきたので、マーガレットは虚像の立ち姿をそこに残したまま、そっと実体を動かした。
さっき赤ん坊を隠した引き出しを、彼女は誰にも気づかれないように静かに開けた。中に手を伸ばすと、あの癒しの感触がまた手の平に触れた。かちかちの炭の塊という見た目からは想像もつかない柔らかさだ。
何度もごめんね、とマーガレットは心の中で謝りつつ、その炭の塊に見せかけた赤ん坊を抱きあげた。
「何も聞こえないようだが?」と警部補。
「そんなことはないはずです」
マーガレットはささやき声で答えた。
今このときも、知性体ノヴァの捜索のために大勢の隊員たちが格納庫中をうろつきまわっていた。彼らが動くたびに、金属でできた床や天井が鋭い音を立て、彼らが引き出しを開けて中を調べるたびに、ガサゴソという物音が辺り一帯を満たした。
警部補とマーガレット(の虚像)は、顔を向き合い、懸命に集中して耳を澄ませた。
その隙に、マーガレットの実体は赤ん坊を小型超伝導・ボードの上に乗せた。それはちょうど彼女の胸の高さに浮かんでいた。そして、腰のベルトキットから包帯を一巻き取り出すと、それで赤ん坊の身体とボードをぐるぐると一つにまとめてしまった。
「三十秒経ったわよ、マーガレット」
「お待たせ、姉さん、もう大丈夫だよ」
マーガレットはマグレブ・ボードを力いっぱい外に向けて放り投げた。それは途中まで放物線を描いて飛んだが、六角形の天井にぶつかりそうになった寸前でみずからの推進力に切り替わった。ボードは音も立てず、赤ん坊を乗せたまま、狭い出入り口を抜けて外に向かって飛んでいった。
それより三分ほど前から、貨物船の外にステファニーが待ち構えていた。目立つ金髪の髪を迷彩柄のスカーフで覆い、折り重なった倒木の陰に身を隠して、船のほうを注意深く覗いている。
エディ・マーカス警部率いる十二人の緊急出動部隊本隊の目を引きつけるために、囮となるドローンをあちこちに飛ばしておいた。おかげで今いる場所には誰も近づいてこない。
さっき腐葉土に足を突っ込んでしまった教訓から、今度のステファニーは沼地でも足が沈まないマッダー・ブーツを装着していた。それは足の裏の面積を二倍以上に拡大してくれる優れものだ。
「だけど歩きにくんだな、これが」ステファニーはじっとりとした目つきで足元を見つめながら、そうつぶやいた。真っ黒なレンガみたいな見た目で、デザインも最悪だ。
「自分の足に自分でつまづかないように気をつけるんだよ」
「お前に言われなくてもそうするよ、バカ」
ステファニーは、隣りでしゃがみ込んでいる小柄な男の頭を拳固で殴った。ぽかりと音がして、男はたまらず頭を両手で押さえた。
「あんまり叩くとバカになっちゃうよう」
「お前がバカになったら遠慮なく置いていくから覚悟しておけ」
「君が優しい奴だってことはわかってるから、そんな意地悪を言ったって僕には通じないよ」
そんな軽口を叩いているのは、さっきステファニーから銃口を向けられ、口封じのために射殺されるはずだったマルコ・アントニオ・アルベルティーニその人だった。彼の命はまだかろうじて首の皮一枚で繋がっていた。
ステファニーは顔を真っ赤にして、腰のホルスターから巨大な拳銃を取り出した。それはゾウでも一撃で撃ち殺せる一万ジュールの威力を持つエネルギー弾を発射することができる。
「お前を血の霧に変えてやろうか?」
マルコは大慌てで両手を上げた。
「すいませんでした。もう二度と調子には乗りません」
「当たり前だ、次は本当に殺すぞ。お前にはまだ使い道があるから、とりあえず生かしておいてやっているだけだってことを理解しろよ」
そのとき、長女のアレクサの柔らかな声が、二人のネビュラに届いた。
「二人とも、いちゃついてないで集中しなさい」
「心外だな、ちゃんと集中してるよ、姉さん」
「それならいいけど、もうすぐ例のものが船から出てくるわよ」
まさにそのとき、マーガレットが投げた小型超伝導・ボードが、眩しい日の光の下に飛び出してきた。




