アリア・ヴィア・1b
腰のベルトキットには、一つだけ警察の備品ではないものが付け加えられていた。マーガレットがそれを無断で着けていることを、他の隊員たちは誰も気づいていなかった。
その小さなポーチには、無骨なデザインのサングラスが収められていた。少しばかり端が吊り上がっているところが、彼女のお気に入りだった。これは二番目の姉のステファニーが着けているものと同じ仕掛けが施されていて、人間の視覚に直接の影響を与えることができる。
ステファニーの場合は、外から見た彼女を別の形に変えてしまうために使う。
今、マーガレットが使おうとしているサングラスは、それとは反対に、彼女から見た外の世界を別の形に変えることを目的としている。
つまりは、隊員すべての視覚が共有されている警察組織の目をごまかすために使用するのだ。
マーガレットはまず、ただのグラファイトの塊がぎっしりと詰め込まれている引き出しを開けた。その情報を、まずサングラスに読み込ませる。
次に彼女は、白い布に包まれた柔らかほっぺの赤ん坊が眠っている引き出しを開けた。そのとき、彼女の目に映っているものは、さっき読み込ませたグラファイトの情報を利用して作った、真っ黒な炭の映像だ。本来そこにいるはずの赤ん坊は、彼女のサングラスの向こうには確かに存在しているが、サングラスを通してみると、炭の塊にしか見えない。
マーガレットは、そこに本当に赤ん坊がいるのかわからないまま、手探りでそこを触ってみた。カチカチなグラファイトの代わりに指先に触れたのは、間違いなくふわふわの、指がどこまでも吸い込まれていきそうな赤ん坊の肌だった。
機械細胞の知性体ノヴァの感触が、ここまで本物の赤ん坊に近いものだとは、マーガレットは思ってもみなかった。人形のように硬い手触りの可能性のほうが高いような気がしていたのだ。だって、「機械」の「細胞」なのだ、機械というものは金属でできていて硬いものでなければならないはずだと、彼女はずっと思っていた。
マーガレットの両手は、今までの捜索の過程で真っ黒に汚れてしまっていた。そんなもので赤ん坊に触れていいのかと躊躇いを感じながらも、彼女は思い切ってそれを持ち上げてみた。
それはずっしりと重く、中にたっぷりの水分を含んでいる感じがした。布に包まれているおかげでぎゅっとまとまってはいるが、もしも裸のままだったら、ぷるぷると彼女の手の中で踊って取り落としてしまっていたかもしれない。
おお、よしよし、いい子でいてくださいね。
マーガレットは心の中で、必死にそう話しかけた。声を出すわけにはいかないし、連絡先を知らない相手ではネビュラのプライベート回線を使うこともできないからだ。
肉眼で直接確認することができないので、赤ん坊が今どんな顔をしているのかを確かめることができない。万が一泣き出した場合には、それに近いノイズを重ねればなんとかごまかすことはできる。ともかく今は我慢してもらって、早く安全で人目の届かないところまで脱出しなければならない。
マーガレットは小型超伝導・ボードを足元に置いた。こいつを使ってひとっ飛びで貨物船の外に出ようという算段だ。
小脇に抱えた赤ん坊を、大事に大事に胸に引き寄せた。その柔らかい感触が脇腹に染み入るような感じがした。見た目には真っ黒な炭の塊なのに、不思議な温かさと安らぎを与えてくれる。
そんな感触に彼女が溺れていたとき、ネビュラに上司からの無遠慮な声が割り込んできた。
「マーガレット、積み荷を持ち出したりして、いったいどうした? 何か見つけたのか?」
ハリー・グラハム警部補は、マーガレットが炭の塊を大事に抱えている様子にすぐ気づいたようだった。彼女が何度も何度も脇の下に視線を注ぐ姿が、あまりにも不自然だと彼は感じていた。
「隊長、何かがおかしいんです」
マーガレットは、とっさにそう答えた。ああ、もっと早く外に出ればよかったと後悔しながら。
「何がおかしいんだ?」
グラハム警部補はすでに動き出していた。六角形のスペースの上のほうから、人が速足で駆けてくる鋭い金属音が近づいてくる。彼がここに来てしまったら、白い布に包まれた赤ん坊をはっきり見られてしまう。
マーガレットは、大急ぎで引き出しの一つを開けると、そこに仕舞い込まれていた炭素の塊を引っ張り出した。そして、その空いたスペースに赤ん坊をそっと寝かせると、優しく引き出しを閉めた。
それとほとんど同時に、天井から下っている梯子に、グラハム警部補の足がにょっきりと現れた。彼の口髭がわさわさと動くと、早口で質問が飛んできた。
「まさか、ノヴァを見つけたのか?」
「わかりません」
マーガレットは首をぶんぶんと横に振った。彼女の短く刈り込まれた髪から、玉の汗が周囲に飛び散った。
グラハム警部補は、彼女が大事そうに抱えている炭の塊に目を向けた。
「そいつがノヴァか?」
誰も知性体の本当の姿を知らないので、彼が炭の塊をノヴァだと思ったとしても無理はなかった。マーガレットはその線に賭けてみることにした。
「声が聞こえたんです」
マーガレットは確信めいた口調で言った。「確かに私、それを聞きました」
「声だと?」
と、グラハム警部補は炭の塊に視線を向けた。「その炭が話しかけてきたのか?」
「はい」
「何と言っていた?」
「それは……」
突っ込んだ問いに、マーガレットは答えに迷った。何と答えれば嘘とバレない嘘がつけるだろうか。これまで(ギャングという職業に身を置きながら)素直に生きてきた彼女には難しい場面だ。
「なるほど、ちょっと待て、本部に訊いて、お前のネビュラの情報を遡って調べてもらうからな」
グラハム警部補はすかさずクロノ市警察の本部と連絡を取った。「こちら第二階層の緊急出動部隊、グラスヒュッテ南第七分署所属グラハム小隊、本部どうぞ……」
本部に問い合わせたところで、彼女のネビュラに炭の声など入っていないことは明らかだ。ここはあくまで「聞こえる」と言ってしらを切り通すか、それとも聞き間違いでしたと言って確認される前に否定するか、どちらかを選んでこの場を切り抜けなければならない。
そんなときに、姉のアレクサから切迫した声が届いた。当然ながら、これはプライベート回線なので、本部の記録には残らない。
「マーガレット、悪いけど、時間切れよ。すぐにあなただけ脱出するか、仲間たちと一緒に道連れになるか、今すぐ決めなさい」
「赤ん坊はどうなるの?」
「あと数秒で、そっちにステファニーが行くわ。あの子が船に乗り込んだら、どうなるかわかるでしょ」
「だめ、もうちょっと待って」
「待てない」
アレクサのふわりとした色気のある声が、あくまでも甘く、マーガレットの耳元に響いた。




