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幹細胞・4c

「わたくしたちは親戚同士ではありませんか」

 そう言って手を差し出してきたエステバン首相に対し、物怖じすることを知らないマルガリータ姫は堂々とした態度でその手を握り返した。


 ところがまだ六歳の子供の知識の中には、フリオ・エステバン首相とセレナ・コロナード副首相という人物がその顔と名と地位を一致させた形で記憶されてはいなかった。ただただ身分の高い親戚の一人として、マルガリータの中で認識されていただけだった。


「あなたたちもお父様のお料理会にお越しくださったの?」

 彼女の無邪気な問いに、エステバン首相は優しい微笑みで答えた。

「ええ、そうですよ。お父様に招待状をいただいて、わたくしどもは参上(つかまつ)ったのです。こちらが――」

 エステバン首相は、テーブルを挟んだコロナード副首相に広げた手を向けた。「わたくしの職務のパートナーであり、親友でもあるセレナ・コロナード副首相です」


「はじめまして、その髪、よくお似合いよ」

 マルガリータは黒曜石のような瞳をきらきらさせて言った。「私も、そのくらい短くしようかしら」

 このときマルガリータは、長い髪をジャスミンの冠の下にたくし込むようにしてまとめていた。首をかしげてその髪を手でつまむ仕草は、本人も自覚がないらしい幼さで溢れていた。


 エステバン首相とコロナード副首相はどちらからともなく顔を見合わせた。その穏やかな表情には、ここにこそ自分たちが求めていた幸せがあるのだと確信を得たようなきらめきがあった。

 すでにすべてを捨てて新しい道を進もうとしていた二人にとっては、何も怖いものはなかった。


 エステバン首相は、さっきから少女の横でしゃちこばって冷や汗をかいているガレアーノ巡査に目を向けた。その若い警察官は、涼しげであっさりした顔に似合わず、燃えるような赤い瞳を持っていた。そんな力強い目を持つ彼なら、将来はきっと正義の執行者として、さらにたくましく成長するだろう。エステバン首相は、そんな巡査に向かって、こちらに耳を貸すよう、そっと手招きした。


「わ、わたくしに何かおっしゃりたいのでございますか?」

 恐縮したガレアーノ巡査が身体を前に倒すと、首相はその耳に向かってこうささやいた。

「これから僕らに何が起きても、君はけっして目を逸らさずにそれを見届けなきゃならない。そこにいるお嬢さんも一緒に、ここで起きた出来事の証人になるんだ。瞬き一つせずに、しっかり記憶しなくちゃいけないよ。いいかい?」


 エステバン首相が念を押すと、ガレアーノ巡査は何度も頭を上下に振ってうなずいた。

 マーガレットはきょとんとしてそれを見ていたが、大人たちが何やらこそこそ相談事をしていることに対しては好奇心いっぱいの目を向けていた。もちろん、後から巡査を問い詰めて、何をしゃべっていたのかはしっかりと聞き出すつもりだ。


 首相と副首相は、満足したように目配せし合うと、その場に立ち上がった。そして、ついに何かの堰を切ったように、二人は溢れる情熱のままに口づけを交わした。子供が見ていることに配慮する余裕さえ、今の二人にはなかった。


 エステバン首相は、まるで国民に向かって演説するときのように、背筋を伸ばしてまっすぐに前を向いた。そこにはガレアーノ巡査とマーガレットの他、なんだかよくわからないが集まってきた店主や賭博好きの老人たちやただ昼飯を食いに来た客たちがいた。彼らはみな一様に、驚きと興奮で正気を失っていた。


「それでは、さようなら、国民の諸君。後のことは、大臣たちに残しておいた手紙に書いてあるから、それを参考にして決めてくれたまえ」

 首相のその言葉の後に、副首相が付け加えたのは、

「ごめんなさいね」という一言だけだった。


 そのとき、食堂(バル)の天井が突然吹き飛んだ。元々そこは板が一枚はめ込んであるだけの塞がれた窓だった場所だった。天井だったところに青空が広がり、日差しがさっと差し込んだかと思うと、そこにばらりと縄梯子が垂れ下がってきた。同時にすさまじい風が店内に吹き込んだ。


 すでにそのときには、辺りは激しいヘリの騒音で何も聞こえない状態だった。店主や老人たちが何やら叫んでいるが、何もわからない。店の外にいる人たちは、一斉に空を見上げて何か喚いている。


 ガレアーノ巡査は言われた通り、まばたき一つせずにその様子を見守っていた。

 首相と副首相が縄梯子につかまると、それがするすると上昇し始めた。余った梯子の先が踊るように床を転がっていた。


 そこにマーガレットはなぜか手を伸ばしたのだった。巡査がそれを止めようとしたときには、もう間に合わなかった。マーガレットは縄梯子によじ登って、ヘリと一緒に空に持ち上げられていった。


 だんだんと小さくなっていく彼女は、巡査に向かって何か叫んでいた。

 それが「さよなら」だったのか「ありがとう」だったのか「ごめんね」だったのか、当時から十四年経った現在でも、彼はわからないままだ。あのときは平の巡査だったクラウディオ・ガレアーノは、今、クロノ・シティ市警察で警察署長を務めている。

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