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幹細胞・4a

 スペインの長い好景気は、安定した長期政権を生んだ。豊かな生活を約束してくれる政府を国民は歓迎し、フリオ・エステバンが首相を務める政権は高い支持率を十年近くも維持し続けていた。


 そうして長く続く政権が避けて通れないのは、腐敗と癒着だ。多くの民間企業が政府からの受注を取りつけようと激しい競争を繰り広げていた。ロビイ活動は活況を呈し、賄賂や密告が当たり前のように横行していた。大企業は自分たちに有利な法律を通してもらうために、影響力を持つ政治家に近づいた。そこに莫大な金が動いた。献金を多く受け取る政治家が権力を掌握することになると、その力を利用しようとする企業がますます多く群がった。


 理想よりも利権、国民の幸福よりも個人の損得が重視された。そうして富める者はますます富む体制が強化されていった。しかし、そうした醜い部分は高い支持率と好景気の陰に隠れ、エステバン政権はクリーンなイメージを保ち続けていた。


 その首相自らが、腐敗を一掃しようと、今まさに動き始めていた。その気配を国民たちはまだ知る由もなかった。


 ガレアーノ巡査は、奥の半個室でテーブルを挟んで向き合っている二人のことを両方とも男性だと思っていた。だが、それは違ったのだ。

 奥のほうで窓際のバラの花瓶の前に座っているのは確かに男性のフリオ・エステバン首相その人だった。彼の髭や皴のない清潔感に満ちた若々しい顔立ちは、この十年というもの、ほとんど変わっていない。


 その手前でこちらに背を向けている人物も、似たような姿かたちだった。しかし、その人物は、女性のセレナ・コロナード副首相だった。彼女は濃いブルネットの髪を極めて短く刈り込み、肩幅の広い背広を着て、男性のように見せかけていた。化粧もほとんどしておらず、目元も唇も自然のままの色をしていた。しかし、そのほっそりとした喉仏のない首元と、黄金比に忠実な美しい横顔を隠すことはできていなかった。


 副首相の横顔を見たガレアーノ巡査は、今すぐにここを立ち去らなければならないと思った。だが、彼の連れであるマルガリータ姫が二人の前で元気な挨拶をしてしまったので、まずはそれを無難に治める必要があった。


「申し訳ありません、大変失礼いたしました」

 ガレアーノ巡査はそそくさと前に出ると、まだスカートの両裾を持ち上げているマルガリータの顔の前に大きな手を差し出した。彼女の顔をお偉方から隠すのと同時に、マルガリータの好奇心をこれ以上刺激しないためだった。


 このとき彼は「閣下(エクセレンシア)」という言葉を出してしまわないように特に気を使った。あなたたちのことは私は何も知りませんよという態度を貫くことが、彼自身の立場を守るためにもっとも重要だと思ったからだ。


「なにするの、お巡りさん、あなたこそちゃんと作法をわきまえるべきじゃないの」

お嬢様(セニョリータ)、この方たちは大事なお話し合いの最中なのです。お邪魔してはいけません」

「私はきちんとご挨拶しなきゃいけないと思っただけよ」

「それはその通りなのでしょうが……」

 社交界のしきたりについて何も知らないガレアーノ巡査は言葉に詰まった。彼は自分のあまりに平凡な出自を恨んだ。「それはともかく、あちらへ参りましょう。さあさあ」


 巡査はそうして強引にマルガリータを向こうに押しやった。そうしながら、なんとなく背後からの視線が気になって、振り返らずにはいられなかった。彼のことを畏れ多い首相と副首相がどのような目で見ているのかが気になったのだ。それは彼の公務員としての今後の運命を左右することになるかもしれない、もっとも重要な確認だった。


 そうやって、そっと後ろを見てみると、二人のお偉方はとても穏やかな笑顔でこちらを見ていることがわかった。その表情は、まるで二匹の犬が戯れている様を道端で眺めている中年の夫婦のようだった。


 少し安心したガレアーノ巡査は、その気持ちが口から漏れだした。

「本当に申し訳ありません、うちの(プリンセサ)はじゃじゃ馬なもので……」


 微笑みを顔じゅうに湛えているセレナ・コロナード副首相は、横にいる首相に軽く目配せした。そして、すぐに椅子を立つと、少女の前で深くお辞儀をした。

「大変ご丁寧なご挨拶、痛み入ります。どうか今後ともご懇意に」

 さすがに自分の名は名乗らなかったが、国を統べる立場にある人間が一人の少女に対して取る態度としてはあまりに不釣り合いなものだった。それはまるで、相手は犬猫のようなものだから、わざと大げさな振る舞いをして遊んでやっているかのようにも見えなくはなかった。


 マルガリータは、それを敏感に感じ取っていた。

「私のことをバカにおしではなくて? こう見えてもインペトロス家の高貴な家名を背負う人間の一人なのよ」


「いえいえ、もちろん、存じ上げておりますよ」

 窓際で笑っていたエステバン首相も席を立つと、彼女の前で腰を曲げ、丁寧にお辞儀した。

「マルガリータ・ブルガリス・インペトロス殿、わたくしたちは親戚同士ではありませんか」

 首相は手を差し出すと、マルガリータの手を強く握った。

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