幹細胞・3b
ところが太った店主は、暑さで火照った顔をさらに赤くしながら、ぶるぶると首を横に振った。彼は、巡査の目から店の奥を隠そうとする素振りを見せた。
「すみませんが、今日はお帰りください」
「主人よ、何か都合の悪いことでもあるのか?」
ガレアーノ巡査が店の奥を覗き込もうとすると、店主はその動きに合わせて身体を横にずらした。彼は熱々の雑炊をお腹の前に抱えているので、その湯気をもろに顔面に浴びている。それすらも気にならないくらいに、店主は必死だった。
この食堂は奥でL字型に曲がっているので、店主が立ちはだかって見えなくなっている部分はさながら個室のような佇まいだった。そこには西日が差し込む大きな窓があって、真っ赤なバラをふんだんにあしらった花瓶が飾ってある。
その半個室では、テーブルを挟んで、背広を着た二人の紳士が何やら小声で話し合っている姿が、ガレアーノ巡査の目にちらりと映った。
「いけませんよ、巡査殿、これ以上は」
店主はさらに必死に押し返してきた。赤熱した鉄壺を巡査に押しつけかねないほどの気迫だ。そこまでして隠さなければならない客たちらしい。
さっき巡査に絡んできた老人と仲間たちは、いつの間にか素知らぬ顔でサイコロ賭博を再開していた。まるで自分たちは何も関係ないと言わんばかりのしらじらしさだ。
平の警察官に過ぎないガレアーノ巡査は、これ以上突っ込んだことをする度胸がなかった。おそらく奥で話し合っている二人の客はどこかのお偉いさんだろうから、関わり合いにならないほうが身のためだと感じた。
そのとき、そうした大人の都合をまったく意に介さないマルガリータが大きな声を出した。
「ねえ、お巡りさん、あなたも椅子にお座りなさい」
マルガリータは、小さなベンチをぱしぱしと叩いて、隣りに座るように促した。
「お嬢様、そんなところに座っても、落ち着いてご飯など召し上がれませんよ。どこか別のお店に参りましょう」
すると、幼い暴君は首をぶんぶんと横に振った。まるでさっき太った店主がそうしたように。
「いやよ、私、このお店が気に入ったの。ねえ、ご主人、その雑炊には何のお魚を使っているのかしら?」
お姫様のような少女に話しかけられて、店主も思わず顔をほころばせた。
「メルルーサ(白身の魚)とカラビネロス(エビの一種)とメヒジョネス(ムール貝)でございますよ、セニョリータ」
「おいしそう」マルガリータは顔を輝かせた。
「こちらのお客様にお出ししてから、あらためて席をご用意いたしますので、少々お待ちくださいませ」
あんなに難しい顔をして「お帰りください」などと言っていたくせに、店主はたちまち少女にめろめろになって、丁寧なお辞儀までしてみせた。
そうして店主は、抱えていた鉄壺を奥の半個室まで運んでいった。
ガレアーノ巡査は気を使って、奥の紳士たちが少女の目に入らないように自分の身体を盾にした。そうした配慮が必要な場面だという気がしたからだ。
「何をしているの? お巡りさん」
「わたくしたちのせいで、あちらのお客様方のお気が散ったりなさらないようにしているのでございますよ」
「どんな人たちがいるの?」
「きっと、お偉い方たちなのでしょう」
「だったら、私もご挨拶しなきゃ」
社交界ではそれが常識だと言わんばかりに、マルガリータは店の奥へと駆け込んでいった。その動きがあまりに素早かったので、巡査は彼女を捕まえることができなかった。
マルガリータは店主の大きなお尻をするりと回り込んで、テーブルを挟んでいる二人の紳士の前に堂々と割り込んだ。
「ご挨拶が遅れて大変失礼いたしました。マルガリータ・ブルガリス・インペトロスと申す者です。本日はご機嫌うるわしゅう」
テーブルを挟んでいた二人の紳士が同時に顔を少女のほうに向けた。そのとき初めて、巡査の目からも彼らの顔が見えた。
ガレアーノ巡査は思わず心臓がきゅっと締め付けられるようだった。そこにいたのは、スペインの首相と副首相だったからだ。




