桃井翼、ジャーナリストになります!(前編)・1b
お茶をすすっているときに、翼のネビュラがピーピーと音を立てた。
人間の脳と電脳世界を直接に繋ぐ汎用ネットワークシステム「ネビュラ」は、現代社会を生きる人々にとって不可欠な基盤となっている。
法の定めに従い、十五歳を迎えた者はネビュラを使用することが許される。その小さな端末は耳の後ろを切開して埋め込まれる。端末から伸びる細いワイヤーが脳の各所に接続され、人間の感覚がそのまま電脳世界に反映される。視覚、聴覚などは他者と共有することも可能だ。
ネビュラの様々な、機能のうち、「現実拡張」は人間の内面にあるものを現実世界に拡張する。
翼の目の前に親友の白石智香が突如として現れた。黄色いTシャツと短パン姿の彼女は自転車に乗り、必死の形相で前を見つめてペダルを漕いでいる。自転車は畳からわずか数センチ上に浮かんでいて、車輪が勢いよく回っていた。
テレビに夢中になっているおばあちゃんと、新聞を真剣に読んでいるおじいちゃんには、自転車を漕いでいる智香の姿は見えない。二人は昔の人なので、ネビュラを使っていないのだ。
「智ちゃん、こっちに向かってるの?」
翼が話しかけると、前方を凝視していた智香が突然こちらに視線を切り替えた。
「あ、お師匠、やっぱりそちらにおいでなんですね」
翼は畳の上に胡坐をかいたまま、自転車を漕いでいる智香と向き合った。
「最近はずっとこっちにいるよ」
「ご両親が心配のご様子でしたよ」
「親がうるさいんだよね」
「そりゃあ、心配もなさいますよ」
孫が突然に空中に向かっておしゃべりを始めても、おばあちゃんたちは驚いたりしない。ネビュラを使った会話はどこにいても見かける、まったくありふれた光景だからだ。
最近はエチケットとして、他人がそばにいるときに不快な気持ちにさせないよう、ネビュラを使っていることを周りに知らせるため、「顔をやや斜めに傾けて、こめかみに手を添える」仕草をする人々が増えてきたりもしている。
汗だくでペダルを漕いでいる智香が、ぱっと明るい表情になったのは、ようやく向かう先に目的地が見えてきたからだろう。
「お師匠、そろそろそちらに到着しますよ」
「じゃあ、外に出て待ってるね」
「了解しました」
畳の上の自転車と智香が、ぱっとかき消えた。
「おばあちゃん、おじいちゃん、智ちゃんが来たから、ちょっと出てくるね」
「髪をちゃんとしなさい」
おばあちゃんは老眼鏡をちょっと下にずらして注意した。
翼は、畳の上に転がっていた髪をまとめるリングを拾い上げると、肩まで伸びたぼさぼさの髪をくるりとひとまとめにした。そのまとめた髪にリングを装着すると、知性を持った機械細胞が働いて、あっという間に髪をお団子にしてくれる。
ずぼらな翼は、このリングにだけは頭が上がらない。これを使うたびに感謝のお祈りを捧げることを欠かさないほどだ。元から茶色い智香の髪が、日に焼けてさらに色褪せてぐちゃぐちゃになっても、このリングを使えばそれなりに上品に見えるのだから素晴らしい。
「じゃあ、行ってくるね」
翼が玄関を出ると、智香はすでに正面の坂を上ってきているところだった。智香は自転車を手で押しながら汗をまき散らし、ふうふうと肩で喘いでいる。道路からおじいちゃんの家まではケヤキのたくさん生えた斜面になっていて、道はくねくねと曲がりくねっている。
翼は急いで駆け降りると、智香の自転車を代わりに押してあげた。
「ありがとうございます、お師匠」
汗びっしょりな智香の頬に、長い髪がへばりついている。昔は眼鏡に三つ編みという素朴な雰囲気だった智香も、いつしか背も髪も伸び、大人っぽく成長していた。もう十九歳なのだから、大人になるのは当然だった。
二人の師弟関係は出会ったころから何も変わらない。「哲学」というレアな趣味を共有する二人は、それによって深く結びついていた。
くねくね道を上りながら、智香はここまでの道すがらで一生懸命考えてきたらしき話題を投げかけてきた。
「お師匠、まだ進路はお決めにならないのですか?」
たちまち翼はむっとした。自転車が急に重くなったような気がした。
「智ちゃんもうちの親と同じこと言うの?」
「いえいえ、もうそろそろ決めないと」
「私は哲学者になるって言ったでしょ」
「それでは、大学に進学なさるのですか?」
翼たち一般の子女が通う高等教育学校は五年制で、入学時に将来就きたい職業を選択すると、それに応じたカリキュラムを組んでくれる。ただ、翼のなりたい哲学者は、学問の分野なので、さらに大学で学ばなければならない。
この夏休みが終わると、翼たちは五年生になる。五年生になると、志望する職業のインターンとして一年間働かなければならない決まりになっている。
就職するためにインターンになるか、進学するために勉強を続けるかを、このタイミングで決めなければならなかった。
「おじいちゃんが言うには、将来哲学者になりたいとしても、一度は社会に出ていろいろ経験したほうがいいんだって。それをしなくて、ただ机の上で勉強だけやってても、哲学に詳しい『哲学学者』になるだけで、本当の哲学者にはなれないんだって」
智香は目を大きく開いて感心した。
「なるほど、おじいさんは実に開明な方ですね」
「でも、インターンするにしても、何をやったらいいのかわからなくて……」
「そうですよね、お師匠は哲学一筋でいらっしゃいますもんね」
翼は、智香の顔をちらりと見た。
「智ちゃんは、もう将来をばっちり決めてるでしょ?」
「そりゃあ、もう」
智香は自信満々な笑顔になった。彼女が笑うと、目が糸のように細くなって、たちまち幼げになる。
「私も刑事になろうかしら」
と、翼はぼそりとつぶやいた。
それを聞いた智香は、ものすごく嬉しそうに、うんうんとうなずいた。
「それはいい考えかもしれませんよ。私とお師匠でコンビを組んで、世の悪を正していきましょうよ。なんちゃらペアとして、悪人どもを震えあがらせましょう。うん、それはいい考えだ」
翼はそこまで喜んでもらえたことにちょっと嬉しくなって、小さく微笑んだ。
「本当にどうしようもなくなったら、そうしようかな」




