桃井翼、ジャーナリストになります!(後編)・3a
この三十年ほどの間に、宇宙に対する人々の意識は大きく変化した。
宇宙エレベーターが世に現れたのは二〇四〇年代に入ってからだ。それ以前における宇宙というものへの人々の意識は、「一生縁のないもの」「はるか遠くにあって、永久に手が届かないもの」というものだった。それが、わずか数年で当たり前のように行き来できる場所に変わってしまった。
何もないと考えられていた宇宙が、豊富な資源と、広大な土地と、新しいチャンスを無限に与えてくれる新天地だということに、人々はやっと気づいた。
宇宙進出の黎明期を迎える以前、宇宙エレベーターが建造されるという話が巷に流れ始めたとき、誰もがそれを詐欺師が出資金をだまし取るための与太話だと考えた。大企業や先進国の政府が必死で広報活動を行っても、人々は誰もまともに受け取らなかった。あれは大金に群がる怪しげな連中が企てた壮大な嘘だと、人々は信じた。やがてお金が十分に集まったところで、計画そのものが消えてなくなるものと人々は信じた。
カーボンナノチューブの大量生産が可能になり、それがかつて考えられていたよりもはるかに強靭で安価な材料となったとき、宇宙エレベーターは与太話から現実となった。
宇宙エレベーターの建設予定地としてガラパゴス諸島の西方四百キロメートル地点が選ばれたとき、世界中を巻き込む大反対運動が巻き起こった。それはまるで熱病のようにあらゆる国々に広がった。何がそれほどまでに人々を駆り立てたのか、今から振り返ってみても、それを正確に説明できる者はいないだろう。宇宙開発への憎悪なのか、五百万年もの間独自の生態系を維持してきたガラパゴスへの愛着なのか、それとも、何らかの利害が絡んだ組織的な工作だったのか、今となっては永久に解かれ得ぬ謎だ。
ガラパゴスの生態系は守られた。そのための資金は宇宙エレベーター開発に注がれた資金の数十パーセントを占めるほどだった。ガラパゴス諸島への上陸はもちろん、その近海は船も航空機も近寄れない封鎖海域と定められた。国連の加盟国すべてが、ガラパゴス保護のための分担金を支払った。もしも宇宙エレベーターが建造されなかったなら、ガラパゴスを守るためにこれほどのお金と労力が投入されることはなかっただろう。
人々の日常に宇宙が溶け込むまでに、それほど時間はかからなかった。田舎に住む若者が都会を目指すように、新しい世代の若者たちは宇宙を目指した。
宇宙で仕事を見つけ、生活を成り立たせるためには専門の知識と技能が必要だ。そのための新しい教育制度が必要となった。そこで国連が主導して世界共通の教育組織「世界標準教育学校」が作られた。日本では、単に「高等教育学校」と呼ばれている。
それはかつての中等教育の後半(高等学校以上)と、高等教育(大学や専門学校)を組み合わせた五年制の学校であり、カリキュラムは世界共通で、どの国に住んでいても好きな国の授業を無料で受けることができる。
修士や博士などの学位を得るためには、さらに上の大学に行く必要があるが、そこでも学費はすべて無料となっている。
高等教育学校に入学するとき、まずは将来なりたい職業を尋ねられる。その職業に就くために必要な科目を網羅したカリキュラムが組み立てられると、生徒はそのすべての単位を取得しなければならない。四年生までに単位を取得できれば、五年目にはその職業のインターンとして実際の現場で働くことができる。
桃井翼はこの夏、その四年生と五年生の狭間にあった。哲学者になるために必要な単位はすでに取得しており、大学に進むための準備コースを五年目に充てることもできる。だが、翼は他の同世代の若者たちと同じように、現場での経験を積みたかった。本物の宇宙に出て、自分の目と耳と手足でそれを体験したかった。大学には後からでも入り直すことができるが、若いうちのインターン経験は一度きりだ。若さゆえのまっすぐでがむしゃらながんばりが許されるのは、この時期だけなのだ。
アメリカ自然史博物館の薄暗い大ホールの天井には、無限に広がるかのような星空が投影されている。紅炎を吹き上げる真っ赤な太陽がはるか彼方でぎらぎらと輝き、ホールの真ん中の空中には青い地球と、遠く離れた月とがペアになって回転している。宇宙エレベーターの全長は十万キロメートルにもおよび、地球と月との距離の四分の一にも達する。
宇宙都市クロノ・シティは、地球から三万六千キロメートル上空に浮かぶ四階層の丸い建造物だ。二重のリングがぐるぐると絡み合うように回転する中に、割れて大きく口を開けた球体が少しずつ小さくなりながら四つ重ねられている。それらが同時に回転する様子はとてつもなく複雑で、いつまでも眺めていたくなるような不思議な魅力を持っていた。地球から伸びた宇宙エレベーターはここでクロノ・シティを貫いてからも、そこからさらに十万キロメートル先まで続いている。それを昇り切った場所には、遠い惑星への出発点となる宇宙港がある。最初に静止軌道からカーボンナノチューブが垂らされた瞬間から、十万キロメートル上空の宇宙港が完成するまで、十年とかからなかったのは驚くべきことだ。
翼たちが乗るゴンドラは、人類が新たに宇宙に刻み始めた足跡をすぐ間近で見ることを可能にしてくれた。今では火星や木星を超えて、十三億キロメートル以上も離れた土星にまで人類の歩みは進んでいる。とても今日の数時間でそれらすべてを見て廻ることはできないほどだ。
「お師匠、クロノ・シティをもっと近くで見えるようにしてください」
「しょうがないなあ」
ゴンドラの操縦桿を握る翼は、智香の注文に嬉々として答えた。後ろの座席に乗っている幸子は、それとは別のことで興奮し、ひたすらそわそわしていた。
この大ホールを飛び交うたくさんのゴンドラのどれかに、待ち合わせを約束した人物が乗っているはずだ。幸子はその姿を懸命に探していた。




