桃井翼、ジャーナリストになります!(後編)・2b
「とりあえず、ここに車を停めると駐車違反になりますので、他の場所へ移動していただけませんか」
痩せたほうの警備員が遠くのほうへと手を伸ばして促した。表向きの所作は丁寧だが、その奥には強く強制する意志が感じられた。太ったほうの警備員はこめかみに手を添えて横を向き、ネビュラを通してものものしい連絡を取り合っている。
「ぐずぐずしていると警察が来ますよ」
翼はそう言って後ろの座席から両手を伸ばすと、幸子のサングラスをきちんと掛け直させた。「早く車を出しましょう」
幸子は不満そうだ。彼女は後ろを振り返りもせず、リップマンのアパートメントを見つめたまま、後ろの二人に言った。
「ねえ、これから、あなたたち二人だけでリップマンさんにお土産を渡しに行ってきなさいよ」
幸子が空中でぱちんと指を鳴らすと、極彩色の花束と、おなじみの赤い封蝋で綴じた金色の封筒とが出現した。花束のほうはマンハッタンの露店で売られているオーソドックスなもので、バラやキクやガーベラやダリア、そしてヒマワリなどを赤・黄・青・紫・オレンジに色分けしてある。
智香は笑顔になって、身を乗り出した。
「やっぱりお手紙を渡すのが一番良いですよね。お花も素敵です」
しかし、翼はうまくいくはずがないと思った。
「手紙なんか受け取ってくれるのかなあ……」
「あなたたち二人が、真剣な態度でリップマンさんに会いたいという気持ちを示せば、きっと警備員さんたちも道を開けてくれるよ。若い女の子二人だよ? おじさんたちだってきっと喜んで話を聞いてくれるよ」
その会話を、すぐ間近で二人の警備員も聞いていた。幸子が車を動かすまで、彼らもそこを動くつもりはなかったからだ。
「ねえ、あなたたちもそう思うでしょ?」
と、幸子は二人の警備員に物怖じもせず訊いた。
痩せた警備員と太った警備員は同時に首を横に振った。二人とも無表情だ。痩せたほうがこう答えた。
「手紙もプレゼントも受け付けておりません」
「そんなことないでしょ。それじゃ、電気代とか水道代の請求書はどうやって届けているんですか? 請求書が届かなかったら支払えなくて止められちゃうでしょ」
「いつの時代だよ……」翼は小声でつぶやいた。
「今はネビュラですべてを処理する時代ですよ」
痩せた警備員は一蹴した。「それに、そもそもここにリップマン氏がお住まいかどうかという質問にもお答えできませんので、あらかじめご了承願います。ともかくわれわれが望むのは、あなたがたが速やかにここをお引き取りいただくことだけですので」
「じゃあ、あなたが手紙を受け取って」
「取次はできませんよ」
「いいの、もったいないから、あなたが受け取って」
幸子は、痩せた警備員の胸に手紙と花束を押しつけると、車のハンドルに手を掛けた。
「それじゃ、お邪魔しました! お花はすぐにお水に漬けてあげてくださいね」
幸子が車を動かすと、二人の警備員は敬礼してそれを見送った。思いのほか幸子が素直に従ったので、警備員たちは拍子抜けしているようにも見える。
痩せたほうの警備員の胸に抱かれた極彩色の花束が、遠ざかって小さくなりながらも、いつまでも鮮やかに目立っていた。
幸子のピンクのオープンカーは、セントラルパークウエストの通りを北に向かった。すぐに古代ローマの宮殿のような大きな建物が左手に見えてきた。
翼と智香のネビュラには、ここがアメリカ自然史博物館であるという案内が表示された。開館時間や入場料、駐車場へのアクセス方法などが、たくさんの写真と共に、格調高いレイアウトで紹介されている。
幸子は突然、こう言った。
「ちょっとここで時間をつぶしていこうよ」
「え……」
と翼は戸惑ったが、智香のほうは「いいですねえ」とはしゃいだ。
「そんなことしている暇、あるんですか? 朝御飯までには帰らなくちゃいけないんですよ」
「大丈夫大丈夫、なんとかなるって」
幸子があまりにも自信たっぷりにそう言うので、翼はその勢いに吞まれてしまった。
「私が全部驕っちゃるから、あなたたちはただ楽しめばいいのだよ」
幸子は北側にある駐車場の入り口に車を向けた。今日は人も少なく、出入りがスムーズだ。
「幸子さん、もう一枚上着を着ないと、そんな格好じゃ追い出されますよ」
翼は心配して声を掛けた。
ピンクのチューブトップと赤いショートパンツという服装は、いかにもこの場にふさわしくない。肩もお腹も太ももも丸出しな幸子は、いかに個性を尊重するニューヨークといえども眉をひそめられることは避けられないと思われた。あまつさえ、ここは博物館なのだ。
「君も妙子みたいなことを言うじゃないか」
幸子はなぜか嬉しそうだ。「大丈夫だよ、私だって、ちゃんと場所に応じた服装くらいできるもん」
駐車場に車を入れると、昔ながらの有人の受付があった。中年の係員の目が幸子の顔と全身に注がれたが、見られた本人は平気なものだ。幸子は相手が自分の美貌の虜になっているとお気楽に考えているのだが、実際は違っていた。係員のネビュラには、数か月前に七十五番通りで騒ぎを起こした天野幸子を警戒するアラートが鳴り響いていたのだった。
駐車場に止めた車から降りるとき、幸子は服装を切り替えた。まるでシンデレラの魔法使いのような手つきで腕を振ると、彼女はたちまち知的な白いパンツスーツに変わった。髪もきっちりアップに整え、最初に登場したときの女神のように美しく仕上がった。
「いいなあ、私たちもそんな格好がしたいです」
羨ましそうにしている智香に、幸子は言った。
「何をおっしゃいますか。あなたたちはその格好が一番若さを引き立てるんだよ」
確かに、翼は白、智香は黄色というシンプルなシャツにジーンズを合わせた姿は、博物館に足しげく通う勉強熱心な学生のようだ。
翼は頭の上のお団子を整え(軽く揉むと勝手に整う)、智香はヤンキースの野球帽をまっすぐにかぶり直した。
アーチの入り口をくぐると、天井の高い大ホールでまず迎えてくれたのは、巨大な恐竜の骨格標本だった。肉食恐竜アロサウルスと、その敵から我が子を守ろうとするバロサウルスの親子が向き合う、緊張に満ちた場面だ。
「すごいなあ、すごいなあ」
翼は大口を開けて上を見ていた。前足を振り上げて敵を踏みつぶそうとしているバロサウルスの母親の姿は圧巻だ。その首はとてつもない高さのアーチの天井まで伸びており、窓からの明るい光に照らされて神々しく立ち上がっている。
「お師匠、あっちはプラネタリウムと宇宙開発エリアらしいですよ」
上を向きっぱなしの翼の腕を、智香がぐいぐいと引っ張った。「リアルな宇宙体験を再現できるそうです。行ってみましょうよ」
再来月にはガラパゴス上空三万六千キロメートルのクロノ・シティでインターンとして働くことになっている智香は、今が一番宇宙に興味をそそられている時期だった。
幸子はまるで保護者のように、にこにこして二人につき合ってくれていた。
そうして宇宙体験コーナーへと向かう三人の背後に、静かに近づく人物が一人いた。彼は赤いハイビスカス柄のアロハシャツにベージュのバミューダパンツ、そしてテンガロンハットというラフないでたちで、どこか胡散臭い田舎者を思わせた。
サンダル履きのその男は、玄関ホールの恐竜の標本を見上げて、眩しそうに目を細めた。こうして娑婆に出るのはいつぶりだろうか。




