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楽園実験(後編)・2a

 時は数時間前にさかのぼる――

 午前八時半までの勤務を終えた第十七小隊ブラボー・チームの面々は、とても三日間ぶっ続けで働いたとは思えないほどの元気いっぱいな状態で宿舎に帰ってきた。


 新しい機械細胞(マシン・セル)の知性体、アリア・ヴィアによる「楽園実験開始宣言」、あるいは俗に「シンギュラリティ宣言」とも呼ばれる一連の大騒ぎが起きたのは、前日の午前中のことだ。

 立て続けに打ち上げられた謎のプラズマ花火と電磁波の放出によって、二つのベゼル・リングおよびクロノ・シティの外殻の修復工事は一時中断させられた。


 あのアリア・ヴィアの発表直後、世間の反応は意外なほど静かだった。大気の不安定な状態が続いていたために外出が制限されていたことも影響しただろう。多くのマスコミが取材を敢行しようと様々な努力を重ねたが、多くの規制がそれを阻んでいた。宇宙船一つを飛ばすにもクロノ・シティ当局の許可を得る必要があり、住民との接触もほとんど行えない中で、十分な情報を収集することが難しかったのだ。


 多くの憶測とデマが、ネビュラ上のネットワークで泡のように現れては消えていった。ネビュラに標準装備されている機能の一つに、信憑性の低い情報を自動的にフィルターに掛けて、拡散を阻止するという機能がある。それを人々は日常的に利用しているために、あまりに常識からかけ離れた話題は意識してそれを見ようと思わない限り、ほとんどが人の目に触れる前にブロックされてしまうのだ。そのため、ニッチな話題や信憑性に乏しい憶測やデマの類はそれを熱心に支持する一部のグループ内のみで語られ、一般人の目には届かない。


 その情報のフィルターは便利である反面、少数の独創的なアイデアを表に出にくくさせるというデメリットもあった。


 ブラボー・チームの救命医、桜井美穂は、チームのみんなが元気でいられる理由を解明したかった。宇宙での勤務でアドレナリンが大量に分泌されたとか、カフェインのドリンクを摂取しまくったとか、いろいろ理由になりそうなものはあるが、それだけでは弱いと彼女は感じていた。


「ねえ、美穂、ひと眠りしたらお昼ご飯の買い物に行くから、十時になったらリビングに来てね」

 一緒に昼食当番をすることになっている暁しずくが、宿舎に帰ってくるなりそう言った。

 本当は誰も眠くなどなっていないのだが、通常二十四時間の勤務(今回は断続的な七十二時間勤務だったが)を終えたらとにかく一時間でも二時間でも眠っておくのが規則になっていたので、それに従うしかなかった。みんなの体調は消防本部でモニターされているので、違反するとすぐにバレてしまう。


 美穂は自分の個室に入ると、すぐに自分の細胞を採取した。口の中に綿棒を入れて、頬の内側をこすり取ったのだ。彼女の推測が正しければ、そこにも機械細胞(マシン・セル)が含まれているはずだった。


 クロノ・シティそのものがすでに機械細胞(マシン・セル)によって侵食されていることは誰でも知っている。三年前のプロメテウス号事件のときに、もっとも初期の機械細胞(マシン・セル)がこの都市全体に降り注ぎ、分離不可能なほどに浸透したことは記憶に新しい。あのとき、クロノ・シティの外側を覆っていたガラスのドームが取り払われ、現在のような大気が剥き出しの状態に変わったのだ。その奇蹟とも思える絶妙な大気のバランスを維持しているのは機械細胞(マシン・セル)の意志によるものであることは間違いない。その詳細は中央機関のトゥールビヨンに勤務する者だけが知るところのものだ。一般人でそれを知る者はほとんどいない。


「ねえ、ちょっと、そのカタカタいう音はなんなの?」

 リビングのほうから、リーダーの海野沙織のちょっときつめの声が聞こえてきた。彼女の声は鋭く壁を突き抜けてくる。「うるさくて寝られやしないじゃない」

「ごめん、原稿書いてたの」

 広報官の桃井翼が、申し訳なさそうに部屋から出てきたらしい。「特注のキーボードがうるさかったですかね?」


「ただでさえみんな興奮して寝られないんだから、なるべく邪魔しないでよね」と沙織の声。

「ごめん、すぐ終わるようにするから」と翼の声。

「廊下に出て突き当りの部屋に造形機があるから、そこで壁に貼る防音シートを作ってきなさいよ」

「わかった、そうする」


 沙織が言っている「造形機」とは、積層(アディティブ・マニ)造形(ュファクチャリング)マシンのことだ。その機械に図面を入力すると、必要な材料をみつくろって立体的な生成物を出力してくれる。単純な構造のものであれば、わざわざお店で買うよりも安くつく。最近は一般家庭にも当たり前のように普及している機械だ。


 翼はすぐに廊下に出ていったらしい。しばらくリビングは静かになった。

 美穂は急いで細胞の分析に取り掛かった。小さな分析器は救命医のドクターバッグに備え付けてある。それを机の上に丁寧に並べてから、慎重に作業を進めていった。サンプルを入れるための小さなカプセルの中には液体が満たされており、そこに綿棒の先を突っ込んで、頬の細胞を溶かしこむ。


 そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。

「ねえ、美穂、あんたまだ起きてるの? 本部からあんたのことを確認しろって連絡が来たんだけど」

 沙織の声だ。リーダーの彼女はチームメイト全員の身体の状態をモニターできるのと同時に、それらを管理する役目を負っている。美穂がまだ眠らずに起きているという情報が、沙織と消防本部とに同時に伝わっているのだ。


 美穂は慌てて答えた。

「ごめん、まだちょっと起きてる」

「何やってんの? 早く寝なさい」

「ごめんごめん」

 美穂はドアをそっと開けて、隙間を通して沙織と向き合った。沙織はちっとも眠そうな顔をしていない。

「何やってんのよ?」と沙織。

「ちょっと細胞を調べてんの」

「細胞?」


「そうだ、ちょうどよかった」

 美穂はふいに思いつき、なぜか手に持っていた新品の綿棒を、いきなり沙織の口に突っ込んだ。

「はにほへ? ふひふふへんは?(なにこれ? ウイルス検査?)」

「まあ、そんなもん」

 ちゅぽん、と音を立てて沙織の口から綿棒を引き抜くと、美穂は愛想笑いしながらドアを閉めた。「それじゃあ、お休み。一時間後に、またね」

「お休み、ちゃんと寝るのよ」

 沙織の声が遠ざかっていく。


 美穂は、もう一つのカプセルに沙織から採取した細胞を溶かし込むと、それも一緒に分析機に掛けた。寝て起きた頃には、詳しいことがわかっているはずだ。

 興奮したままベッドに飛び込み、ぎんぎんに冴えた目を無理やり閉じた美穂は、これから自分たちを待ち受けている未来に思いを馳せた。そうしていつしか夢の中に入り込んでいった。三日間のうちに溜まっていた疲れが、ほどよい入眠剤として作用した。


 分析器の中では、二人分の細胞が細かく調べられていった。その情報はレポートにまとめられ、寝ている美穂のネビュラへと送り込まれていった。その情報が、美穂が見ている夢の中に混入してきた。


 彼女は、こんな夢を見ていた。

 空に浮かぶ大きなドーナツだ。なぜだか空は澄み切った青空で、無数の雲が浮かんでいる中に、そのドーナツが一緒に浮いている。そのドーナツに、渦を巻くコイルのようなものが巻きついている。そのコイルを通して、小さな光の粒が走っているのが見えた。最初は一つだった光の粒が、徐々に数を増やして、ついにはコイル全体を覆うほどになった。


「あれが負のミューオンなんだ」

 夢の中の美穂はつぶやいた。


 負のミューオンとは、原子核を構成する素粒子のことだ。この負のミューオンが水素の原子に接近すると、そこに核融合反応が起こる。その反応は負のミューオンが自然崩壊するまで連続的に進む。このミューオン触媒核融合は、一般的な核融合炉のような磁場閉じ込め装置のようなものを必要としない。すべての機械細胞(マシン・セル)は、その細胞の一つ一つにこの器官を持っている。


 光る巨大なドーナツに向かって、たくさんの水素分子が集まってきた。それは水素原子が二つないし三つ結合したもので、デューテリウムやトリチウムと呼ばれる、核融合の元となる元素だ。


 ドーナツを螺旋状に包んでいる光が、その水素原子たちを捕まえて、ドーナツの中へと吸い込んでいく。

 やがて、ドーナツの中で核融合が始まった。


 いつしかドーナツは、細胞を構成する一つの小器官となった。核、ミトコンドリア、ゴルジ体などの中に、ミューオン触媒核融合体がすっぽりと収まった。まるで最初からそこにあったかのように。


 それが自分の細胞の中で起きていることだと美穂が気づいたのは、一時間後に眠りから覚めた後だった。

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