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楽園実験(前編)・4b

 広いキッチンの真ん中に置かれたテーブルは、作業が終わるときれいに取り片づけられた。そこに、ちゃんこの大鍋がどかんと載せられた様は、さすがに迫力があった。

 鍋の横の大皿には、大量の野菜とキノコと肉と魚、そして豆腐が山盛りになっている。巨大なボールの中には、一本まるごとを使った大根おろしが入っている。取り皿に使う小鉢が人数分、その隣りに積み上げてある。


 しずくが調味料を並べていく。

「味付けはポン酢、柚子醤油、七味……あとなんだっけ?」

「小ネギだよ」

 美穂が刻んだばかりのネギを溢れんばかりに小皿に盛ってやって来た。

「よし、これでとりあえず完成かな」と、しずく。

「そうだね」と、美穂。


 昼食当番のしずくと美穂は、テーブルを遠巻きに見ながら、腰に両手を当ててうなずいた。そのとき炊飯器のほうからチーンと音が鳴った。

「飯も炊けたみたいだぞ」

 そうつぶやいたしずくは、すぐに炊き立てのご飯をかき混ぜにかかった。もうもうと立ち昇る湯気の向こうで「あちち」と小さな声が聞こえる。六人がお腹いっぱい食べられるように、白米は余裕をもって一升炊いておいた。


「ほら、みんな、ご飯ができましたよ」

 沙織が手を叩いて、リビングでくつろいでいるメンバーを呼びに来た。

 翼とスバルと晴香は、手伝うことがなくなったので、待っている間テレビの前でダラダラしていたところだ。呼ばれた後も三人は、ダラダラした動きで立ち上がり、キッチンへ向かった。


「なんか眠くなっちゃった」

 スバルが大きく両手を上げてあくびした。

「がんばって食べてちょうだいね。お昼はたっぷり寝ていいからね」

 美穂は優しく声を掛け、みんなの椅子を引いて招き入れてくれた。


 それからはワイワイ騒がしい食事が始まった。みんなは相撲部屋の若手力士のようにモリモリ食べた。救命医の美穂は一貫して「よく食べ、よく遊び、よく寝ろ」という主義だったので、けっして食べ過ぎを咎めたりはしない。


 用意していた鶏肉とガラパゴス・グルーパーはあっという間になくなった。一つ残ったもも肉をめぐって晴香としずくの醜い争奪戦が繰り広げられそうになったので、仕方なくリーダーの沙織は食材の追加投入を許可した。

「本当は一週間持たせなきゃいけないんだけど、それを前倒しで消費することを許可します。いいですね? 晴香」

「御意」と、晴香は大きくうなずいた。食材の在庫管理は晴香の仕事だが、その義務感を食欲がねじ伏せた形だ。


「じゃあ、豚肉と鶏肉をもうちょっと入れようか」

 そう言って、しずくが冷蔵庫へと向かった。

 また鶏団子を作るかどうか一瞬だけ議論になったが、「いいよ、めんどくさいからぶつ切りで」という、誰かの一言ですぐに肉が皿に盛られてやって来た。


 追加の肉たちがどんどん鍋に投入され、ぐつぐつと煮立っていくのを、翼はニコニコして眺めていた。周りはワイワイキャーキャーと騒がしい。このときばかりは、さすがの翼もジャーナリストの仕事や宇宙消防士の仕事をすっかり忘れていた。なんて幸せな時間なんだろうという思いが、頭の中をいっぱいに満たしていた。


「ねえ、翼、飲み物欲しくない?」

 沙織が背後から声を掛けてきた。彼女は、全員にそうやって同じように訊いて回っているようだ。

 翼はご飯を食べるのに夢中で、水分を取ることまで意識が向いていなかった。訊かれてやっと、喉が渇いていることに気づいた。


「あったかいお茶がいいかも」

 翼が言うと、沙織は笑顔でうなずいた。「翼は静岡だもんね」と沙織は言った。その笑顔が、翼には眩しくてたまらなかった。沙織の波打つ黒髪が、不思議と美しく輝いて見えた。


 やがて、キッチンでお湯が沸き、淹れたてのお茶の香りがふわりと漂ってきた。翼はたまらずその香りに誘われて、お茶を注いでいる沙織のそばに立った。

「あら翼、お茶を持っていってくれるの?」

「うん」

「それじゃあ、お願いね、私は他の飲み物を持っていくから、翼はしずくと美穂とスバルに持ってって」


 翼は湯呑の載ったお盆を受け取ると、お茶を所望した三人の席に配って回った。それぞれに「ありがとう」や「サンキュー」を言われた翼は、「いえいえ、どういたしまして」や「どうぞ、ごゆっくり」と答えていった。そのひとときも尊い瞬間だった。


 ついにみんなの食欲は満たされた。多めに用意されていたにも関わらず、半日分の食材が余分に消費された。在庫係の晴香はすぐさまネビュラで追加注文を行なった。


「うどんと雑炊があるけど、どっちが食べたい?」

「うどん!」

「うどん!」

「雑炊!」

 美穂の問いかけに元気に答えたのは沙織としずくと晴香だった。翼とスバルはすでにお腹いっぱいで戦線離脱し、リビングのソファーに倒れ込んでいた。


「じゃあ、晴香と私が雑炊ね。先にうどんを入れるから待っていて」と美穂。

 台所で働いている美穂は、あれだけ食べた後でも元気いっぱいだ。ぐつぐつと沸騰する鍋の中では、太いうどんが大量に踊っている。

 うどんを茹でる湯気がリビングまで届くと、翼はその匂いのせいで顔を青ざめさせた。喉元まで食べたものが込み上げてくる。


「大丈夫? 翼」

 スバルが心配そうに訊いてきた。彼女自身も辛そうなのに、その優しさが翼にはありがたかった。

「窓開けてもいいかな?」と翼。

「いいんじゃない?」とスバル。


 このキッチン兼リビングは周りを個室とバスルームと玄関ホールに囲まれているので、壁には窓がない。その代わり、天井にはたくさんの丸窓がぐるりと輪を描いて設置してある。丸窓一つが人の顔くらいの大きさだ。その丸窓が囲う中心には、特別大きな丸窓が一つある。

 それら丸窓は明かりを取り入れるのと同時に、外気の入れ替え口でもある。


 翼はネビュラを操作して、宿舎の設備のコントロールパネルを開いた。つい昨日まではクロノ・シティ全体の大気が不安定だったので窓を開ける操作ができなくなっていた。それが今日は、何事もなかったように窓を開閉させることが可能になっていた。


「ごめん、ちょっと窓開けるね」

 翼が声を掛けると、沙織が代表して「はーい」と答えてくれた。

 輪を描く小さな丸窓の一群と、中心の大きな丸窓にはめ込まれているガラスが同時に横にスライドした。そこからスーッと冷たい風が吹き込んできた。まさに身も心も清められるような爽快な風だった。


「あー、涼し」と翼が言うと、横にいるスバルも「あー、涼しーね」と呼応した。辺りを満たしていた「うっ」と込み上げるような濃密な熱気はたちまち振り払われた。

 キッチンでうどんと雑炊をすすっているみんなからも、「涼しーね」という声が聞こえてくる。


 思えば、この部屋に外気が取り込まれたのは、ここにみんなが配属されて以来初めてのことだった。

「不思議だね、つい昨日までは、窓を開けるのは絶対ダメだって言われてたのに」

 スバルは感慨深げに遠い目をしてテレビを見つめている。その青い目にはクロノス・フットボールの試合風景が映っているが、彼女の意識はもっと別の方向に向いているようだ。

「本当だね」

 と、翼も同じく感慨深げに言った。


 玄関ホールの棚の中には、オレンジ色の防護服とヘルメット、そして四角い生命維持パックがいつでも取り出せるように並んでいる。生命維持パックの中には多孔性配位高分子に染み込ませた液体酸素が入っていて、それこそが宇宙で暮らす者たちの命綱だ。

 つい昨日まで、外に出るにはそれらの装備が欠かせなかった。玄関から一歩外に出るためだけに、防護服とヘルメットを身に着け、生命維持パックから酸素を与えてもらう必要があったのだ。


 翼は、ふと思いついた。

 思いついた瞬間に、彼女はそれを言葉に出していた。

「ねえ、みんな」

 目の前にいるスバルと、キッチンにいるみんなが一斉にこちらを向いた。


 翼は一瞬怯んだが、ここまで来たら言うも言わぬも同じだと思い、開き直ってこう言った。

「これからみんなで散歩に行かない? 街をみんなで歩いてみようよ」

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