楽園実験・2b
沙織の手が、翼の太ももに触れた。肩同士がぴったりとくっつき、沙織のつけている控えめな香水が甘く鼻を刺激してくる。
翼は、「近い!」と思いながらも、身体を離したりすれば沙織の機嫌を損ねてしまうのではないかと恐れ、されるがままになった。
翼が見下ろす先に、沙織の長い睫毛がある。彼女がぱちぱちと瞬きするたびに、実際に「ぱちぱち」と音が聞こえそうなほどに、その睫毛は長かった。
沙織がふいに顔を上げた。二人の鼻は五センチほどの距離しかない。翼は「近い、近い!」と思いながらも、やはり身体を離す勇気が持てなかった。
「ねえ」
沙織はささやくように言った。「ずっと、あんたに訊いておきたいことがあったの。今ちょうど、三人は出掛けてるし、スバルは部屋にこもってるから、すごく絶好のチャンスだと思うんだ」
そう言って、沙織は上目遣いで見つめてくる。翼はこれまで女の子にここまで攻められたことはないから、どのように反応したらよいかわからなかった。とはいえ、男の子から攻められる経験も未だ縁がないわけなのだが。
「いったい、どのようなお話でしょうか?」
翼はカチカチに固まった姿勢で尋ねた。口の中はカラカラだ。
「遠慮しないで飲んでいいのよ。飲みながらでいいから、私の話を聞いて」
沙織のささやきが、翼の耳をくすぐった。翼は「あい」と答えると、手に持っている水滴だらけの瓶から、冷えた炭酸飲料を一口飲んだ。乾ききった喉に鋭く染み入って、痛みすら感じるほどだ。
「翼、あんたならきっと詳しいだろうと思うから訊くけど、あの新しい機械細胞の知性体が言っていた『楽園実験』って、どんなことなんだと思う?」
翼は、意外過ぎるほどまともな質問だったので、急に拍子抜けしてしまった。もっと込み入ったチーム内の人間関係や、男女にまつわる話かと思っていたからだ。
「アリア・ヴィアのことですね?」と翼。
「そう」沙織は真顔でうなずいた。
こういう話なら、翼がもっとも得意とする分野だ。変に気を使わずに、思ったことを素直に言葉にできる。
「沙織さんは、二十世紀にアメリカで行われたカルフーンの『楽園実験』については調べてみましたか?」
沙織はうなずいた。
「二年で絶滅したマウスの実験でしょ」
「そうです」
「いつの間にか敬語になってるよ」
「う……、ごめんなさい」
緊張してかしこまっている翼の手を、沙織は優しく包むように握った。
「いいんだよ、緊張しなくて」
沙織の声が、やけに甘ったるく耳に流れ込んでくる。これは女同士の親しさなのか、それともそれ以上の愛情表現なのか、翼には測りかねた。
翼は気を取り直して、こう言った。
「アリア・ヴィアはこう言っていたでしょ。『機械細胞と、人類とが、共にその中に太陽を燃やす』って」
「それがどういう意味なのかわからんのですよ」
沙織は、変に砕けた調子で言った。「その中で太陽を燃やすって、どういう意味なの? それは、もう私たちの中で始まっているの?」
沙織は畳みかけるようにそう言うと、翼と繋いでいる手をぎゅっと握りしめた。その感触から、彼女が強い不安を抱いているらしいことを、翼は感じ取った。
「私、前にユズさんからこう言われたの」
翼は、あの花火の閃光と爆発音の中で聞かされた、あの印象的なユズの言葉を思い出していた。
「かつて海から陸に上がった生き物たちは、身体の中に海を携えてきたんだって。だから私たちの汗や涙や血はしょっぱいんだって」
沙織は目をぱちくりさせた。
「それで?」
「これから遠い宇宙へ旅立とうとしている人類は、きっと自分の中に太陽を携えていくんだって、ユズさんは言ってた」
「その太陽って、いったい何?」沙織は急かすようににじり寄った。ますます顔が近くなる。
翼は言った。
「きっと、それは、私たちの心がもっと強くなるっていうことなんだと思う。沙織さん、思い出してよ、二年前、スターチャイルドたちが火星でやっていたこと」
沙織はがんばって記憶をたぐり寄せた。
「通過儀礼のことね?」
翼はうなずいた。
「そう、きっと、それと同じことを、私たちがやるんだと思うの」
そこまで言ったとき、玄関がわいわいがやがやと騒がしくなった。仲間たちが買い物から帰ってきたのだ。
「ありがとう」
沙織は、翼の頬にこっそりキスすると、にっこり微笑んだ。「また、お話ししましょうね」
玄関に走っていく沙織の背中を見つめながら、翼は思わず瓶を取り落としそうになった。




