楽園実験・2a
時計を見れば午前十一時。昼食の材料を買い出しに出ている桜井美穂と暁しずくが帰って来るまでのたっぷり一時間、翼は空腹のまま待たなければならないことになる。
「冷蔵庫の開けっ放しはやめなさい」
「はい、ごめんなさい」
沙織のきつい一言で、翼は慌てて冷蔵庫の扉を閉めた。母や姉からもよく似たようなお小言を言われていたので、まるで条件反射のように身体が動いた。
テレビの前を横切って、とぼとぼと部屋に戻ろうとする翼に、沙織が声を掛けた。
「あんた、今やることないの?」
翼はびくりとして立ち止まった。
「ないけど……」
何もやることがないから、ベッドで横になって空腹をごまかそうとしていたところだ。執筆や調べ物など、やらなければならないことは一応あるのだが、あまりにお腹が空きすぎて何も集中できないから、実質何もやることがないのだ。
「じゃあ、ちょっとお話ししない?」
沙織は、ソファーの自分の隣りを手のひらでバンバン叩いた。つい先日、翼との間で繰り広げられた、森崎和馬争奪戦で勝利したせいか、沙織の全身からは気高い勝者の芳香が芬々と漂っている。
「はあ……」
と、翼は返事に困った。ただでさえお腹が空いて正気を保つことさえ困難なのに、チームの中でも一番苦手とする海野沙織の機嫌を損ねないような無難な会話をやりこなす気力など、今の自分にはまるでないのだ。さっきまで考察と執筆で頭を使い過ぎて、今は疲労のピークにあった。正直、しばらく寝ていたい。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
沙織は長い黒髪を後ろへ掻き撫でた。彼女はフリルの付いたブラウスを上品に着こなし、ゆったりとしたスカートを穿いて、まるで両家のお嬢様のようだ。整った顔立ちではあるのだが、少々きつめの雰囲気が玉に瑕ではあった。
「具合が悪いってわけじゃないんだけど……」
それ以上グズグズ言っても始まらないと思った翼は、彼女らしい思い切りのよさで開き直った。これまで私は愛嬌でなんでも乗り切ってきたんだ。今度だってなんとかなるはずだ。なんとかするしかないじゃないか。これからずっと何年も同じチームでやっていくかもしれないのだから。
翼は、沙織の隣りに思い切って座った。そのとき、そこに隠してあったスナック菓子の袋がバリっと潰れた。
「あら」
沙織はまた顔を赤らめると、お菓子の袋を何事もなかったかのように自分の後ろに隠した。とっさに「これでもいいなら食べる?」と差し出しそうな素振りは見せたものの、中身が見事に粉々に潰れてしまったので、そうするわけにもいかなかった。
二人の目の前の大型テレビでは、クロノス・フットボールの試合が賑やかに進行している。応援席からは太鼓やトランペットの演奏に乗せた応援歌が途切れることなく流れ続けている。泥にまみれた選手たちがバットを振り、ボールを抱えて走り、タックルし、倒れ、また走る。どこか古臭くて泥臭い雰囲気だが、なんだか懐かしい。
「うちのお父さんがね、いつも仕事から帰ってくるとこうやってクロフトの試合を観ながらビールを飲むのが日課だったの」
沙織は画面を観ながら、そんなことを急につぶやいた。それがあまりにも唐突だったせいで、翼は驚きのあまり、ろくに返事もできなかった。
沙織は振り返って翼の顔を見た。
「私はお酒は飲めないから、炭酸飲料でお相伴してたの。あんたも何か飲む?」
彼女の足元の床には上下に開く蓋があって、そこが小型の冷蔵庫になっていた。たっぷりと詰め込まれている炭酸飲料の瓶を二本取り出すと、沙織はその一本を翼に渡した。
それはキンキンに冷えていた。結露した水滴のせいで危うく滑り落としそうになるほどだった。翼が蓋を開けて飲んでみると、味わったことのない不思議な味がした。でも、甘かったので少し元気が回復した。
「海野さんのお父さんは、どんな仕事をされていたの?」
翼はそっと訊いた。
「沙織、でいいよ」
「じゃあ、沙織」
苦手な人への初めての呼び捨ては口にうまく馴染まない。
「私のお父さんはね……」
沙織は再び画面に見入ると、まるで一番の自慢のように、こう言った。「地元で一番信頼されている消防士だったの」
「へえ」
翼は素直に驚いた。沙織のことを、てっきりどこかの名家の出だとばかり思っていたからだ。彼女みたいな気品のある人の父親ならば、いくつもの会社を所有する経営者だとしてもおかしくはない。
「東京は昔に比べて、すっかり寂れちゃったけど、おかげで人間らしい活気が戻ったって、お父さんは言っていたな」
沙織がどこか遠くを見るような目で、懐かしむようにそう言うので、もしかしたら父親はもう存命ではないのではないかと、翼には思えてきた。
「それじゃあ、沙織さんは……」
「沙織、ね」
「沙織は……、お父さんに憧れて、自分も消防士になろうと思ったの?」
沙織はくすりと笑うと、炭酸飲料を瓶からぐいと一口飲んだ。
「いろいろ紆余曲折あったけどね」
「危険だから……、とか?」
「そう」
「お父さんは、最後まで反対したの?」
翼は、その「最後」という言葉を慎重に扱った。それに対する答えで、父親が存命かどうかを測ろうと思った。
沙織は肩をすくめた。
「結局、諦めたみたい。ガラパゴスに出発するときは、見送りには来てくれたんだけどね」
どうやら、まだ存命のようだ。翼はこっそり安堵のため息をついた。他人と個人的な話をするときにはいちいち気を使ってしまう。
「翼は親から反対されなかったの?」
「めちゃくちゃ反対されたよ」
翼はあっけらかんと答えた。「お姉ちゃんが先に宇宙消防士になっちゃったから、まさか私まで同じ道を行くとは思ってなかったみたい。ずっと地元で大学に行くって親には言ってたから。両親とも、なんだかんだで私に後を継がせたかったのかも」
「両親は何をされている方なの?」
「二人とも大工だよ」
「へえ」
「地元の静岡で、何百年も住める木造の家を建てるプロジェクトの親方をやってるんだ。コンクリートの建物は何十年かで取り壊さなきゃいけないけど、木造は手入れさえしっかりしていればいつまでも住めるものなんだって」
翼は一息でそこまで言うと、ちょっと照れくさそうにはにかんだ。
沙織は、急に翼に対して親近感を覚えたようだった。翼が沙織に対してどこかの御令嬢だと思っていたのと同様、沙織も翼のことをどこかの良いところの出だと思っていた。なぜなら、あの天野幸子と親しくしていたからだ。
「ねえ、もうちょっとお話ししようよ」
沙織は横ににじり寄り、ぐっと距離を詰めてきた。




