楽園実験・1b
桃井翼は、宿舎の中の自分にあてがわれた個室で原稿を書いていた。
「『今度の実験体は、人間だ。』と……」
最後の一行を書いたところで、翼は椅子の背もたれにのけぞり、原稿がびっしりと書かれた画面の全体を見渡した。机の上には古風なキーボードと、同じく古風な薄型のディスプレイが載っている。今どきネビュラを使わないで、自分の手でキーを叩くやり方をする者は少ない。
翼はこれが気に入っていた。手を動かすことで考えがまとまりやすいし、何よりキーを叩く音が心地よいのだ。わざわざ高い金を払って、地球から一番打ちごたえのある硬めのキーボードを取り寄せたくらいに、彼女には道具へのこだわりがあった。
ただ、同居人たちはうるさく感じるらしい。壁を突き抜けて伝わる打鍵音が耳障りだからと、翼の部屋には後付けで防音壁を貼り付けなければならなかった。
翼は今、クロノ・シティの住宅街のど真ん中にある、第一階層東区第七十六分署の女子寮にいる。彼女は第十八小隊所属だが、新人の女子は彼女一人しかいないので、仲間外れはかわいそうだからと第十七小隊ブラボー・チームの新人五人と同じ部屋を使っている。
この六人部屋は、上から見ると八角形になっている。真ん中にキッチンを備えた大きなリビングがあり、それを囲む形で六人分の個室とバスルームがある。広々とした玄関スペースは個室一人分の面積があって、そこには隊員たちがすぐに現場に出られるように防護服や生命維持パックなどが棚にきっちり並べられている。
中央のリビングの天井には、大きな丸い明り取りの窓があった。太陽の光を鏡に反射させてここまで運び、レンズでいくらか増幅させて明るさと温かさを確保している。
今日は非番で、女の子たちはそれぞれ好きなことをして過ごしている。外に出掛けたり、部屋で勉強したり、リビングでダラダラ過ごしたりと、みんな気ままにやっていた。
翼は、とりあえず書き上げた原稿を地球に送信した。送り先はもちろん、ニューヨークに本部を持つピッコロ・モンド・カフェだ。彼女の師匠であるディビッド・リップマン(今は変名のダビデを名乗っている)が、原稿に目を通してくれる約束だ。彼が気に入ってくれれば、翼の記事はさっそく全太陽系に公開される。その返事は数分後には来るだろう。
返事を待つまでの間、翼はお腹が空いたので、何か食べ物を探すことにした。Tシャツとショートパンツというラフすぎるスタイルだが、それをうるさく注意する者はいないだろう。
リビングに出てみると、そこのソファーでくつろいでいたのはチームリーダーの海野沙織だった。彼女はソファーの上に斜めに寝そべって、袋に入ったスナック菓子を頬張りながら、テレビでクロノス・フットボールの試合を観ているところだった。
「あら」
と顔を赤らめた沙織は、開いていた両足をさっとそろえて、行儀よくソファーに座り直した。
「お仕事は終わったの?」沙織はにっこり笑顔を作った。
「そのままごゆっくりお過ごしなさいましな」
翼は愛想よく微笑むと、裸足のままぺたぺたとキッチンの冷蔵庫のほうへ向かった。
「沙織ちゃん、何か食べ物あるかな?」
「お昼ご飯なら、今ちょうど美穂としずくが材料を買いに行ってるから、それまで待ったらいいんじゃない?」
沙織は貪り食っていたスナック菓子の袋をきっちり閉じると、何食わぬ顔で背中の後ろにそっと隠した。「あと一時間くらい待てばいいから」
「微妙だなあ……」
冷蔵庫の中には食材がいろいろ入ってはいるものの、肉や野菜や乳製品やフルーツの類にはことごとく、これは朝・昼・晩のそれぞれに使う材料だから食べないようにという、食料当番浅倉晴香自作の付箋が貼られている。
元々のチームメイトだった五人には、消防学校で半年間一緒に過ごしてきたという歴史があるのだが、まったくズブの新入りの翼には、なかなかこのノリについて行くのが難しかった。
「あーん、困ったなあ……」
翼がつぶやくと同時に、お腹がグーっとなった。
そんな当たり前の休日を、彼女たちは過ごしていた。楽園実験はすでに始まっている。




