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薬匙

 書斎で机に向かって居た。辺りは真っ暗で、手元から零れる僅かな光が部屋の片隅を黄色く染めて居る。薬匙を手に取ると、魚鱗の様な銀白色の金属粉を一掬い、薬瓶から天秤へ慎重に移した。皿は暫く上下に揺れてから静止、分銅と釣り合ったのを確認すると息を吐き、緊張を解いた。薬包紙に粉末を入れ、机へ放る。其れからノートを取り出すと、匙を回し乍らライトの下で捲り始めた。綿密に記された日付や人名、被験者の症状を読もうとしたが、上手く出来なかった。立ち現れる記憶の甘美さに興奮を抑えられないのだ。引き出しを開き、幾枚も写真を取り出す。嗚呼、と我知らず嘆息。

 半年前より、アンチモンの効用を調べる可く投薬実験を行って居る。動機は純粋な学問的興味だが、突き詰めれば、其れ丈が理由とは言えないかもしれない。非常に理性的だから、平時、感情なぞに煩わされる事は一切無いのだが、父の再婚相手には例外的に懊悩させられ、輓近は相当惨めな思いを抱いて居た。冷静沈着との自認も恥ずかしい限りで、ホモ・サピエンスで在る以上、脳内ホルモンからは逃れられないと言う事なのだろう。全く飛んだ厄災だ。とは言え、一摘みの善事が在ったのも事実では在る。所詮は人に過ぎず、限界を持って居る事。左様な当然至極を再認識させ、謙虚さを喚起して呉れた点、而して、美しい彼を家族にして呉れた点丈は、義母に感謝して遣っても良い。

 母が他界して三年の間の父は常に寂漠とし、ストレス性不眠症で死に体の有様だった。症状は段々と悪化し、他にも種々面倒な症状が見られる迄に成った。此のままでは仕事に支障を来すからと、骨折って学部の研究室から薬品を入手、調合し、処方して遣った。体調は漸次快方へ向かい、以前と遜色なく暮らせる様には成ったが、此の先も同じ事が在っては堪らないから、新しい相手を見つける様助言した。父は最初こそ躊躇って居たが、結局は結婚相手を探す事に決め、首尾良く成婚と成った。父に取っての婚姻とは詰まる所、寂寞を埋める契約に過ぎず、愛など二の次だった。其れを見抜いた先の忠言は、論理的且実効的行動と言えた。惜しむらくは父の迂闊さ、勘の鈍さを思案して居なかった事だろう。まさか、彼の様な狭隘愚昧な妻を選ぶとは、何と狂った鑑識眼だろう。本当に同じ遺伝子を分け合って居るのかと疑いたく成る。義母はFラン高校をお情けで卒業した低能な上、稼ぎも悪く、陰謀論やスピに嵌る無知蒙昧、理学博士で大企業の研究者たる父とは丸で見合っていなかった。其れにしても、実母は金融工学の博士で証券会社のエリートだったのに、何故、其の足元にも及ばない輩を後妻に選んで仕舞ったのか。確かに顔とスタイルは良く、唯一の取り柄ではあるが……。全く、陰茎で思考する男には困ったもので在る。結婚話を聞かされた時は、怒りを通り越して幻滅し、反対する気も起きなかった。阿呆な女は低学歴に良く在る通り、口五月蠅く、些事許りに目を張って居た。神経質で、些細な事に喚き立てる上、歪曲し、偏見に満ちた精神を映した様な底意地悪い人相をして居た。遺伝子が劣等なのか、環境要因が脳に機能不全を起こしているのか、はたまた両方なのか、原因は定かでない。生来知能の低い人間には無礼千万な塵屑しか居ないと、頭では分かって居たが、実際に接触すると、想像以上に付き合うのは難渋だった。女の振る舞いは万事野蛮で、神経を削り、精神を磨耗させる悪辣物だった。其れ故、実験動機に個人的憎悪が欠片許り含有されて居る事は如何に繕おうとも否定し難い。虫螻相手に熱り立つのも恥ずかしいが、真面な脳添え持って居ない糞尿滓女に崇高なる学究を貶され、迫害された以上、如何に温厚と言えども、沈黙は出来ない。愚者の愚行にも赦せる限度が在り、閾値を超えれば教育的措置が必要なのだ。第一、此の時代に在って清潔感だ何だと容姿を侮蔑する等信じられない暴挙だ。顔丈の能無しに何故左様な罵詈雑言を言われねばならないのか。何度考えても理解出来ず、理不尽に腸が煮えくり返る。

 然し、彼女の連れ子は、斯様な度し難い狂女とは似ても似つかない気質の持ち主だった。無愛想だが賢い高校生の姉と純粋で愛らしい中学生の弟の二人で、共に年少。双方共彼の女と類似箇所を見つける方が難儀で、殊に弟は優しく、知的好奇心に溢れた、端正な顔立ちの美少年で在った。艶やかな黒髪は櫛が引っかからない程しなやか。肌は白磁の様に滑らかで触り心地良く、頬は子供らしく穏やかに紅い。やや垂れ勝ちだが、吸い込まれる様に魅力的な眼。鼻は筋が通り、唇は健康的な桃色で稍厚い。背は同年代に比して低く、母親を見るに然程高くはならないか。第二次性徴期に入った許りと言うのを加味しても体毛は薄く、手足は華奢。しかし、筋肉は程良く付いて居り、骨格も男性的で在るから全般に中性的な印象を受ける。足は長く、バランスの取れたプロポーションで在ろう。将来は薬学の道へ進み度いらしく、屡々生物化学に関する質問をしに来ては熱心に講釈を傾聴して居た。其の時の真剣な表情、尊敬の眼差し、歳不相応な知的態度、其れ等と対比的な、幼い相槌、無垢の顔、小動物の様に潤む瞳。彼の持つ全てに自然の神秘が感じられ、其の煌きには心動かさずに居られない。彼は何時も柔和な笑顔を浮かべ、子供らしい明るさと無遠慮さで親しげに話し掛けて来たから、まま二人切りで談話した。肌理細かい白肌、大きな瞳、甘い吐息。零れた美の欠片と戯れる度、拍動は速まり、全身は感興した。彼は実験器具に並々ならぬ関心を寄せて居たから度々見せて遣った。殊に薬匙がお気に入りで、鏡の様に輝く匙を幾本も掴んでは、宝石が如く恍惚と眺めて居た。其の表情は何度目にしても飽きる事が無い。斯様に書くと、恰も器具の端正さに惚れ込んだだけに聞こえるが、然うではなく、当然、実践面にも関心が在り、いざ、実験、調合の段と成れば、薬匙を目にした時の何倍も欣喜雀躍した事は言を俟たない。天使の如き笑顔を見度い許りに、差し当たって意味が無かったり、厭に簡単だったりする実験を何度も行った。然し、此の薬学的営為は蒙昧な女に取って理解能わぬ難事だったらしい。二人で居るのを良しとせず、見つけるや否や、迂遠な言い訳をしつつ彼を引き離すので在る。加之、見えない所では姦しく、粘着質に彼を注意していた様だ。内容は容易に想像出来る。実に不愉快な女だ。心身の腐乱した低能屑には不気味な遊びにしか見えないのだろう。若しかしたら、単に嫌がらせかもしれない。何れにせよ、浅学非才な猿には参って仕舞う。学究を気味悪がり、拒絶するしか能が無いのだ。現代日本の縮図と言う可き汚濁物で、即刻世界から排除す可きだ。

 姉も彼同様に美麗な顔立ちだったが、愛嬌は皆無で無口だった。義兄には勿論だが、弟や母に添え笑い掛けた事が無く、抑会話して居る所すら余り見なかった。体が弱く、部屋に籠って居る事が多いのも会話の少ない一因で、一人、自室にて食事を摂る事も屡々だった。弟に比べ、交流時間は圧倒的に少なかったにも拘らず、彼女は強烈な印象と存在感を持って居た。彼との関係は師と弟子の其れで、薫陶を授ける心地良さこそ在れ、知的好奇心が満たされる事は無かった。半面、妹は優れた学徒で在り、彼に足りない知的刺激を大いに齎して呉れた。彼女は、高校生乍ら薬品に就いて洽覧深識で、常に舌を巻く様な鋭い指摘を行った。其の天稟は本物で、初めて出会った同レベルの人間に、彼とは別種の興奮を覚え、打ち震えた。時折、彼女も実験に参加したが、準備から片付け迄、実に手慣れて居た。弟に拠れば自前の天秤や薬匙を持って居るらしく、一人で何か実験して居るのだろう。妹とは実験中位しか喋る機会は無く、其の際に話す事は薬に関する事許りだったが、最近は打ち解けて来たのか、僅少乍ら、天気や体調等、日常的会話もする様に成って来て居た。若しかしたら彼女も薬学に就いて語らえる仲間を求めて居たのかもしれない。

 此の様に、二人の連れ子とは関係良好で、正直、投薬実験に利用するのは気が引けたが、未成年のデータが是非欲しい所だったから、無意味な感慨は捨て、毅然と投薬を行った。実験前にモニタリング用監視カメラを家中の至る所へ設置した。昨今は小型の物が安価で手に入り、グレアム・ヤングの時代に比べれば格段に経過観察が為易くて助かる。無事設置を終えると、愈々実験を開始した。使用する薬品は粉末状アンチンモンで、此れを適量、ピッチャーや食事に溶かし、家族四人に摂取させた。ピッチャーの方は冷蔵庫に入って居る為簡単に仕込めたが、料理の方は女の隙を窺わなくてはならず、骨が折れた。朝は時間が無く、女も台所から離れない為投薬は行わず、昼食も各人別個に摂る為除外した。その為、毒は夕食に已忍ばせた。

最初に症状が現れたのは父だった。日毎に髪が抜け、短期間で禿が目立つ様に成った。頻繁な嘔吐にも襲われ、何度もトイレで戻して居た。此の様に滑り出しは好調だったが、一定レベル迄悪化して以降は進行が鈍くなり、意外と高い耐毒性が確認出来た。然うは言っても半年の投薬を経た後はすっかり老け込み、多少の運動で息絶え絶えになる程体力は低下した。毛髪の方は意外な粘りを見せ、頭頂部こそ禿げ上がったが、他は存外無事で、波平の上位互換と言った風合いに落ち着いた。

 寧ろ、後から症状の出た女の方が深刻な状態に陥った。父同様に脱毛から始まったが、父に比べ変化は急激で、十円禿げが日々増えて行った。傲岸不遜な義母が徐々に禿げて行くのは実に滑稽で、歩く度にヘンゼルとグレーテルの様に汚い髪が落ちた。女の反応も見物で、彼奴は地肌の見える頭を隠す為、部屋でも帽子を被る様に成ったが、そのタイミングで、何故、家の中でそんな物を被っているかと揶揄すると、恥辱と不快の為筆舌に尽くし難い、珍妙な表情を浮かべた。又、深夜の内に、帽子を全部捨て、後生大事に隠匿して居た頭部を家族の前に晒して遣った事も在った。其の時に撮った記録写真を、物は試しと近隣の家々に配って回ると、女の外出が有意に減少した。丑三つ時には時折啜り泣きが聞え、子供らしく純粋な弟が幽霊を怖れる事も在ったが、其れを聞いた時の女は何を思って居たのだろう。症状が進行すると、今度は嘔吐や激しい疝痛を訴え始め、立ち座り丈で苦悶を表す様に成った。殿様蛙に似た其の醜い声と言ったらお笑い種で、一度など、席の後ろを女が通るのを見計らい、偶然を装って立ち上がった事も在った。計算通り椅子は女へ衝突、世界の終わりの様な絶叫を上げた。此の日は流石に病院へ運ばれたが、今日日アンチンモン中毒を特定出来る内科医も居ないらしく、ストレスから来る神経症と生理痛と言う事にされた様だ。藪医者を引いて運が無いと、同情笑いが止まらなかった。更に、顔面を中心に魚鱗状皮膚が見られる様になり、唯一の取り柄だった美貌も日夜衰え、軈てフランケンシュタインの怪物の様に成って仕舞った。今でも鏡を見て叫んだ時の姿を良く覚えて居る。日頃、人を嘲り、気持ち悪がっているDQN滓が理由も分からないまま、苦しみ、呻き声を上げるのは非常な愉悦で、心の汚泥は完璧に除かれ、気持ちは晴れ晴れとした。義母の無様な姿は、受けた屈辱を払拭し、傷付けられた誇りを回復するに十分だった。

 此の様にして復讐と実験データ収集は果たされ、目的の一つは達成された。残るは未成年者の中毒データで、此方も万事大過なく進んだのだが、他方で予期せぬ至高の副産物が得られたのは望外の僥倖だった。投薬実験により彼の、愛しい弟の新たな美を此の目に映し、記録する事が出来たので在る。此の時許りは神恩と言う非科学物を信じそうに成って仕舞った。症状は義母と同時期に現れ、主として嘔吐、疝痛、魚鱗状の皮膚が見られて緩慢に悪化した。皮膚症状に就いては、流石に仕舞ったと思ったが、幸い、顔には出ず、二の腕や太腿等、目立ちにくい所だけだった為安堵した。斯様な所も余りに出来過ぎで、よもや、と一瞬思ったりしたものだ。何の事は無い、只の偶然なのに。然し乍ら、中毒症状が彼の顔を汚さなかった御蔭で、俗世の物とは思えない、卓越した天上の美術を鑑賞する事が出来た。弟が痛みに顔を歪ませる様は何とも美しく、愛おしく、絶対美の閃きを特等席にて観覧する様な充足感を与えて呉れた。完璧に近い、彫刻の如き歓喜の美麗が、薬匙の企み一つで容易に壊される事。白い肌が、血流悪化の為一層白く染まる様は咲き乱れる花に似て、春と冬を混合した様な神妙霊威の美貌と成った。苦悶の顔が醜く崩れる事は無く、如何なる時もヴィーナスを凌駕する其の美、其の儚さには、パリスも林檎を渡さざるを得まい。アドニスも、ヒュアキントスも、彼の足下に跪こう。金星だけでなく、痛みや不幸、森羅万象の全ては彼を輝かせる為に存在し、宇宙の舞台には、唯一人、彼だけが役者として立って居るのだ。見苦しい様態でも尚崩れぬ麗しさは心を際限なく昂らせる。取分け、痛みに苦しみ乍らも心配を掛けまいと無理して作った健気な笑顔が、心身の奥底を深々と、深々と突き刺した。斯様な美の化身を指先一つで制御出来る快感。此れこそ人間丈に許された、支配の愉悦と言うものだ。嗚呼、何と幸福なのだろう……とは言え、此の喜びも後暫くで沙汰止みと成る。此れ以上は彼の命が危ういからだ。沈着な学究者で在っても、其れ許りは流石に悔やまれた。此の美の消滅は宇宙の損失、如何ともし難い苦しみなのだ。

 其れにしても、他の三人と異なり、妹にはアンチモンの影響が殆ど見られなかった。如何やら元から耐性が在る様だ。毒物を扱った経験があるからだろうか。否、若しかしたら摂取量が足りていないのかもしれない。実際、彼女は食が細く、出された物を残し勝ちだから、十分量投与出来て居ない事は確かに在り得る。其れに、今の今まで失念して仕舞って居たが、彼女が自室で食事をする時の状態をきちんと確認して居なかった。いやはや、信じられない失態だ。彼の観察に集中し過ぎて仕舞ったか。と成れば、当面は、彼女と女に対する投薬量を増やし、更なる経過観察をすると言う方針を取らねば成るまい。彼に就いては、名残惜しいが投薬中止。大黒柱の父も多少量を減らそう。何にせよ、彼の女が死ぬ迄、然う長くはない筈で、実験もそろそろ終わりが見えつつ在る。此れが終われば漸く一息付けるだろう。精緻な調合は神経を擦り減らし、観察にも多くの時間と労力が必要なのだ。実験の疲れか、最近明らかに体調が悪い。驚く程体重が落ちて仕舞ったし、胃の灼熱感も日に日に酷くなって居る。全く、観察側が病に成って如何する。健康第一。此れ以上悪化する前に実験を終わらせて仕舞おう。然う改めて決意すると、薬匙と写真を仕舞って明かりを消した。

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