表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

幕が上がる時

 小気味良くヒールを鳴らしながら、有吉が劇場の廊下を進むと、観音開きの向こうに深紅の絨毯が海原の如く広がり、動きに静寂が絡まった。切符を財布から取り出し、歩きながら席番を確かめる。

「あった、あった。ここだ」

 緋色の、座り心地よさそうな椅子が端から端までズラリ並ぶが、場内は既にやや暗澹として、幾人いるかはよく見えない。席の隙間を抜け、指定の場所に腰を下ろすと、隣は一組の老夫婦で、彼らの方から微笑と会釈を頂戴したので、これは、どうも、と心中で挨拶しながら小さくお辞儀を返した。二人は気品ある服装に、艶やかな銀髪を躍らせていて、一目で貴やかな階級だと分かった。思いがけぬ人物に有吉が四顧すると、予想通り、誰もが端整な身なりと臈たき所作をしており、自分の場違いを痛感した彼女は、無料に釣られたさもしさが恥ずかしいようで、これなら友人の申し出を断るのが良計だったかもしれないと苦々しく考えたが、既に入ってしまった以上、そそくさと帰るのも妙だから、なるべく周囲に頓着しないことを決めると、スマートフォンを手に取り、電子の海に沈潜した。それから十五分くらい経ったろうか、鈍い開演ブザーに内耳が震え、有吉が顔を上げたところ、劇場は満員御礼で、開幕前にも拘らず拍手の大波が、荒海のように激しくうねり立った。注意事項のアナウンスを聞きつつ逆の隣席を眄めると、若い、育ちのよさそうな男女が酔心した風に呆然と手を打っている。

 ――そんなにいい劇なのかな。

 評価、評判などの下調べをしておらず、さほど期待はなかったが、それでも周囲の圧倒するような雰囲気に流され、気分は高揚し始めていた。直前だが、少しでも前情報を入れようと、配布のフライヤーを閲したが、載っているのは絵だけだった。画面中央に、若い女が桜の幹へ身を倚せて、足下に累々と斃れている多くの男たちの屍骸を見つめている。女の身辺を舞いつつ凱歌をうたう小鳥の群、女の瞳に溢れたる抑え難き誇りと歓びの色……。なんじゃこりゃ、と眉を顰めていると、金で飾られた深紅の垂れ幕がゆるゆる上がり、美しい脚が垣間見え始めたが、それと同時に、漆黒に照り輝く蝶が数匹、黒い鱗粉の尾を引きながら、悠然と漂うが如く眼前を横切って行った。

 ――チョウ?

 驚きが声となって漏れそうになるのを寸でのところで抑え、その霊妙不可思議な様を貫穿するほど凝視したが、他の人物が反応する気配を見せなかったために、織り込み済みのことかと思わざるをえない。

 ――これも演出かな。ズイブン凝ってる。

 蝶が横断を終えるや、幕はすっかり上がりきり、高く伸びる階段とその頂点に設えられた豪奢な椅子が現れた。清皇帝が用いたような装飾的造作の椅子で、その絢爛さに有吉は目が眩んだ。舞台は赤を基調にデザインされ、天井から支那風の提灯がいくつもぶら下がり、上手下手には、それぞれ朱殷色をした龍虎の彫刻が鎮座している。背景の上半分には中国格子が備えられ、精密な幾何模様が夢のような印象を醸し出し、放たれた眩い輝きは火樹銀花の光暉を凌ぎ、誘蛾灯が如く観客の視線を蝟集させている。

 ――金のかかったセットだなあ……。

 開幕の景色に胸打たれた有吉が、無意識に目を見開いて次の展開を待ち侘びていると、背後から、威風堂々、沓の音が迫り来った。視線を後ろへ向ける。一人の高貴なる美女が高らかに舞台へ向かって有吉の傍を通り過ぎ、芳醇な香りを後ろ髪に残していった。彼女は、薄桃色の短衣に血のように赤い長裙、そして複雑な彩度の白い披帛という唐風の服を身に着けながら、黒髪は外巻きのダウンスタイルで、装いは些か不均衡であった。背筋は伸び、足音は力強い。女王のような、ゆったりとして威厳に満ちた足並み。舞台に上がった女性は立ち止まり、こちらを振り向き微笑んだ。年の頃は十八、十九で、顔色はクッキリと、白い中に桃の花のような紅味を帯び、眉は少し濃い方で、その間が狭ばまっていて、いかにも怜悧そうに見える。唇はキッと力みがあり、高い鼻に跨った睫毛の濃い大きな眼は、その中からいまにも黒い瞳が溢れだすかと思われるほど。面は都雅艶麗なうちに微妙な威容を含み、教養ある搢紳に比して少しも遜色がない一方、不思議にも長い月日を色里に暮らして、幾十人の男女の魂を弄んだ年増のように物凄く整っていた。主役の登場に観客の血流は湧涌し、神火に滾って発熱、彼らの手を打つ音は一層高く、やがては氾濫、洪水へと変わる。周囲のその反応に有吉は驚き、呑まれつ、なんてキレイなんだろう、と美術品のように女優を見つめた。

「果てない歴史の示すがごとく、美とは強さ、絶対不抜の至上価値。私はこの揺らぐことなき真実に、短くない人生の基盤を置き、今日、この時まで生きてきた。誰もを従え、圧倒し、骨の髄まで狂わせる、墜ちることなき美の絶対。それこそ私の全にして、私を女神たらしむもの。誰もが私に平伏し、身を震わせて頭を垂れた。この美しさに、煌めきに、額を擦り、地に座した。命じてくれ、奪ってくれ、この身をあなたの血肉としてくれ、滂沱と共に懇願し、私のために蟪蛄の命を散らしゆく。平俗なる魂の愚鈍な光ぞ、なんと見事なものだろう。ああ素晴らしき、げに素晴らしき。此岸を生きる人間の、一体幾許なる者が、己の生に、人生に、永久不変の確実を、見出すことが叶うだろう? 生きている価値があったなと、末期に思い死ねるだろう? そんな人を見つけるは、広い銀河を漂流し、硝子を一片、選び出し、そろり摘まむに等しき難渋。ゆえにこそ人々は、私に仕えし人々は、他の誰より幸せなのだ。究極深奥、神威を宿せる一との繋がり。神秘のみが持ちうる価値を、芥蔕とはいえ己が身にしかと刻んで死ねたのだから。私は人を、臣下を幸せにしたい。それは女神たる我が使命、ノブレス・オブリージュなればこそ。私に奉仕し、尽くすこと、それこそ下民の幸せならば、これに及ぶ事はなく、高尚なる死のギフトこそ、私の施すべき恩恵なのだ」

 そう語りながら女性は後ろ歩きで階段を上り、セリフの結びと共に赤き、雲霄の玉座へ腰を下ろして些か野卑に足を組んだため、長い裾がめくれ、肉感溢れる純白がはらりと姿を現した。女は狂おしくも美しい笑みを浮かべて緩やかに手を叩けば、その微かな音は劇場に反響して駆け回って、観客の昂った意識をモルヒネの如く鎮めたがため、オーディエンスより熱は抜け、息遣いに多少なりとも冷静さが戻った。静寂の蘇った客席を、女性は頬杖突きながら矯めつ眇めつ眺望し、蛾眉を歪めて口の端を上げると、唇の狭間より蟒蛇のような舌を爛々と踊らせて、空気を弾き、喉震わせ、迦陵頻伽と称すべき、澄明華麗な声を歌った。

「私の美しさ、それが人類の幸いにして、一切衆生の至福なら、この身に背負いし務めと言うて、我が美の光輝の他になく、民草に果てなく永遠の幸い恵む、それこそ我が命、我が愉悦、それをなすには、まさしく美、この身の美こそ高めるべしと、そっと囁く熾天の調べ。ああ、そうだ。言うに及ばず、間違いない。遍く人の幸せが、救済が、我身の捧げるべきことなれば、天に降りし、この我は、民に屈従、奉仕の機会を潤沢豊富に授けねば。美は強く、美は高い。高貴の者には、下々へ、慈恵を与える使命ぞあり。それは私も例外でなく。さて、どうすべき、何すべき。人は望む、服従を。よいぞ、よい。好きに私へ従うがよい。とはいえど、好きに従えなど、撞着語法もいいとこよ。下さねば。私が命を下さねば。しかし、何を下せばよいというのか。従わせるためだけの命令はいと簡単なれども、いと空疎。それに意味やら意義やら豪もなく、それゆえ最早命令ならずば、決して、決して幸せを、齎すことはあるまいて。命令には、言葉には、地に足ついた意義が要る。それを布告する意味が要よう。手慰みにも及ばぬ虚無、それがために死んだとあれば、仮令私のためとても、愚者さえ納得できる者はない。どれほど足らぬ者とても、私に仕え、我が美に貢いだ、貢献したと、然様に自認したいもの。然るに、思い付きの、不毛な命を下すに能わず。それは幸い、幸でなく、虚無へと沈む愚行ゆえ、まさしく無意と言わざるを得ない。私の幸福、誰かを幸せにする幸いのため、何としてでも有意な指令を考え出そう。はてさて、如何にしたものか。どうするか。私は如何なる命を出す? 私と民の双方に、利する命とは一体何ぞ……」

 腕を大きく、優雅に動かしながら、白皙の、透き通った肌をライトに煌めかせる。巧みな感情演技で稚さや悩ましさを演出するや、閃いたように顔を上げ、獰猛なる微笑で空気を凍結、有吉は厳冬の夜天かと思う程の震えた寒気を味わった。

「そうだ、そう。あれがあった、あれぞあり。この美が世界の至宝なら、それを保ち、高めることは、まさしく世界に奉じることと問答無用に同義なり。美を煌めかせ、はためかせるは、世界にとっても、私にとっても何にも増して肝心肝要、決して避け得ぬ義務なれば、それにまつわる命令も、広大無辺の意味を持とう。よし、これだ。これがいい。汝らは、我が美麗のために死ね。その血、その肉、その骨までも一片残さず奉れ。これこそ何にも敵わぬ絶対至上の御勅命。決して揺らぐことのなき金の星の言の葉よ。ふふふふふ、ふふふふふふ、天の啓示、地祇の声、王の言葉はここに来たれり。幸いの我が下賜はこれにて万事達成されよう」

 女性は小さく笑って右腕を伸ばし、人差し指で一つの席を指し示した。坐っていた男は驚きながら自身を指差し、間違いでないと確かめると、照れた笑いを浮かべながら速足で舞台に上がって平伏したが、然様な姿を見遣る彼女の瞳には慈愛と激烈の入り混じる、複雑微妙な色が浮かんでいた。上手から、黒子が台車を押して現れ、男性の側に停まる。台上には鉄の鞭と槌、そして刀。階段を降りて地下に立った女性は、男を立ち上がらせると、顔から足までじっくりと観察した。男はやや整った顔をしていたが、美男子と言えるほどではない半端な造作で、筋骨隆々として、腕も足も服の上から分かるほど膨張していた。演者が観客席に控え、突如として舞台に上がるという趣向は珍しくはあれ、手垢のついた手法と言え、有吉も初めこそギクリとしたものの、演出プランと納得してからは、逆に奇を衒いすぎなのではと素人ながらに腕組み、評定していた。板の上の女性はやって来た男の周りを一巡りすると、黒子に向って手を突き出し、滑らかな肌で黒衣が掌の上に安置した凶暴な鞭を掴んだが、肌と鋼、柔らかさと凶暴さの取り合わせは、どこか奇妙な光景を作り出した。女性が指を鳴らすや否や、男は脱衣を始め、有吉が呆気に取られる間に全裸となり、屈んで女性に背を預けた。女性が鞭を高く掲げ、何ら躊躇もなく振り下ろすと、空気を破砕するしなりに続いて背中を抉る音、絶叫が轟き、腹の底から絞り出される苦悶の叫喚は有吉の意識を呪い、蛇の眼の如く石にした。鞭は何度も唸り、板に大小多彩な水玉を描く。女性が動きを止めた時、肉は痛々しく抉られ、所々で背骨が露出するほどであり、男性は激痛に啼泣し、体の損壊のせいでふらふらと左右に、無意識に揺れていた。女性が自身の柔肌にできた血赤色の斑点を拭い、鞭を放り投げると、すかさず黒子が近寄って黒鉄の槌を恭しく奉ったので、女帝の形のよい指が柄を掴み、爪が光を照り返した。槌は弧を描いて迷いなく男の首筋へ衝突して鈍い音を軋らせると、擦れた絶叫が劇場を震わすほど響き渡り、彼の体勢はぐらりと崩れたが、女性は猶予なく追撃を仕掛け、幾度も殴打を重ねた後、その背骨を力の限り蹴りつけ、血に塗れた痛々しき肉体を板の上へと転がした。ガッハ、と何かを吐き出すような声がしたかと思うと、男は亀のごとく緩慢に起き上がり、そして、女性の前へしゃがみこんだので、有吉は不審に思ったが、よくよく見ると、殴打しやすいように位置を調節したらしかった。女性はアルカイック・スマイルを浮かべて槌を振り上げ、振り下ろし、振り上げ、振り下ろし、振り上げ、振り下ろし、これを無限に等しき回数反復し、すっかり頸骨が折れたところで動きを止めた。彼は最早姿勢を保てぬらしく、風に煽られる枯葉のように蠕動しつつ、ドタリと前のめりに転倒した。美女の手より鉄塊が落下し、その鈍い音色に有吉は体を震わせ、目を閉じたが、何かの音に反応して再び見開いた時、女優の空いた掌には一本の刀が置かれていた。不夜城の様な輝きは照明に乱反射し、その刀紋は冴え冴えとして耀映。女性は指で鎬を軽く弾き、金属の硬さや鋭さを確認すると、辛うじて命脈を保つ男を見下ろし、菩薩のような表情を作りつ体を屈め、刃物を首筋にそっと当てる。冷ややかな死が男の肌に目の眩むような銀光の雫を垂らした。蘇芳色が滝のように流れる額。半開きの瞼。口からは粘ついた涎が垂れ、今にも今生との離別を果たしそうな、みすぼらしい死相を浮かべてはいるが、不思議と、苦悶なく恍惚しているようにしか見えなかった。女が刃を引いた。素早く、且つ典雅に。皮が、肉が、頸動脈が裂け、酸素を含んだ鮮明な赤が派手派手しく噴き出し、脊椎の削れる耳障りな不協和音を経て、ゴトン、首が落ちる。ボウリングの球でも落下したような、低く、籠った音調。首を失った断面から、深紅の液体が溢れだす。いつの間にやら黒子が男の脇におり、それが大きなガラス製容器で血を受けたが、赤の液面が上昇するに連れ噴水の勢いは衰え、やがて弱々しく枯れた。なみなみ注がれた新鮮な紅。女は捧げられた容器を両手で高く掲げ、頭からかぶって潔斎した。アッ、と有吉が驚いたのも束の間、全身を染めた深紅は萎み、縮退し、服も肌も元の色を取り戻した。

 ――吸収した……?

 目前の奇術に有吉は拳を固めた。これは一体、何なのか? あの男は、サクラなのか? 死に様は真に迫り、損壊、出血は本物と見紛う、否、リアルにしか見えない代物だ。その精巧さは卓抜して人を圧倒すると言わざるを得ぬが、それにしても筋は意味蒙昧、それだけならまだしもグロテスクにして悪趣味。有吉は周りの観客が不快そうにしていないのが不思議でならず、帰りたい心も湧いていたが、最後まで観れば何か掴めるやもしれぬと思えば、もう少し我慢することにしたのだった。下手から新しい黒子が台車を押して現れ、協業して死体を載せた。血の滴り。白濁とした角膜。弁明できぬ死に、有吉は顔を顰めた。

 この戯曲はどういうことを言いたいのかと有吉が作意をあれこれ思案していると、突如拍手が空間を包み込み、驚いて周りを見回せば、弛緩し、腑抜けた観客の面が、眼から放たれるくすんだ光が目に入った。皆、表情は一様で、とり憑かれたように空虚だったが、それでも力強く、威勢よく柏手を打っており、両者の対比は奇妙奇怪な風合いを帯びていた。有吉は首を左右に捻って静かな熱狂を眺め、この劇のどこに感興を催したのか、全く理解できないが、それは自身の無知のせいではないかとやや気恥ずかしく考えたのだった。彼女に公演チケットをくれた友人は文学・芸術に造詣が深く、卒業論文の題目は「日本近代文学における人体損壊のモチーフ――諷刺と自己解放の文芸哲学――」、修士論文の題目は「日本近代文学における人体の破壊――審美学から政治学への移行――」であり、難解奇天烈な前衛作品、例えばウラジーミル・ソローキンのような作家を好んでいた。そうした人物が観劇しようとしていた戯曲である以上、この作品が、グロテスクを前面に押し出し、スプラッタによって思想・哲学を展開するような非常に複雑なる難物たる可能性は事前に十分予測できた筈で、特に熟考も調査もせず、物珍しさと無料に惹かれて観覧しに来たのは、我ながら浅慮と言わざるを得なかった。

 ――やっぱり、ちょっとくらい勉強してから来るんだったなあ。観た感じ、イロイロ知ってないと楽しめないっぽいし、せめて中身くらいは聞いときゃよかった。まさか、ここまでワケわからん系だったなんてさ……。

 有吉は映画や演劇にさほど関心があるわけではないが、友人の中には好事家が幾人かいてそれに付き合って何度か観に行ったことがあり、まるっきり無関心というわけでもなかった。とはいえ、進んで鑑賞に足を運ぶことはなく、それらに関する知的蓄積は貧弱だから、アヴァンギャルド的作品の批評など、とてもできたものではないどころか、それ以前の鑑賞という行為すら単独では怪しかった。だからこそ梗概くらいは事前に……と有吉が考えていると、突如、何かがぶつかり合う音が陰険に跳ね回り出し、思わず、オッ、と声を漏らしてしまった。しまった、と気まずい表情で、チラリと他の観客を見遣ったが、皆々、板に執心らしく、彼女の小さな呻き声など、一向意に介していないようだった。安堵して目の向きを舞台に戻すと、どうやら黒子が虎の置物にぶつかったらしく、先の男の首が舞台から落ち、絨毯を転がり、何の因果か、有吉の足元で止まった。げっ、と思ったのも束の間、死者の呆けた視線が彼女のと交わり、脊髄を引きずり出されるような寒気が襲来した。

 ――まるで本物みたい……。本当によくできてる……。

 気味悪く思いながらも、ついつい生首擬きを凝視してしまう。近くで見ても粗はなく、寧ろ本物特有の生っぽさが強く訴えかけてくる、模倣の極致と言うべき傑作で、あまりの精密さゆえ、検死でもしない限りは偽物だと分からないのではなかろうか。血の彩色、肌の質感、髪の光沢、どれをとっても死体そのものだ。首を一、二分眺め、誰も拾おうとしないのに気づいた有吉は、気味悪さと争いながら嫌々拾い上げ、こちらにお辞儀をする黒子の方へ押し付けるように投げつけた。黒子は最敬礼してから、慌てた風もなく舞台裏にはけていった。有吉は、腑に落ちないものを感じつつ、手に付いた血を、ポケットから取り出したティッシュで力強く拭った。胃に怖れのような感情が重く堆積する。再び女性の声が聞こえ始めた。顔を上げると、階段を上下する優美な舞姿が目に映った。

「喜ぶがいい。我が臣下、我が所有物よ。私の、この美の糧となりえた事、それはきっと何にも勝る幸福だろう。感謝せよ、心の底から感謝するがいい。私に選ばれたこと、その天文学的幸運を、うち震えつつ感謝せよ。鮮血を奉納した、愛しいおのこよ、その愛、その崇敬に私は愛を恵みましょう。私に、誰かを幸福にするという至福を与えしこと、この世界の宝、我が神なる美を保つ術を与えしこと、その献身に今報い、我が身の愛を授けましょう。見なさい、私の美しさを。この玄妙なる華麗さを。お前の生命が更に一層引き立てた、並ぶものなき絶対の美を……。これこそが、お前が世界に寄与した証。宇宙を愛した唯一の徴」

 女性が唐紅の光を身に纏い、クルクル回って服をはためかせ、ふふふふふ、と笑いとも歌とも知れない調べを奏でると、その美麗は耳を通じて客達に浸透し、神経を鎮めては昂らせ、非日常の、霊妙なる心地を齎した。有吉は、脳が揺さぶられるような気持ち悪さと緩い絶頂の連鎖を同時に味わいながらも、精神は地に根を生やしたまま冷静であり続けており、例外なく、千年の嘉悦を味わっている他の衆生と異なり、彼女への不鮮明なおぞましさを捨てきれずにいるのだった。帰ろうかと再び思い始めた一方で、劇には意識を惹き付ける言い知れぬ魔力があり、厭悪を抱いていながら鑑賞を止めることはできなかった。左胸に手を当て心音を確かめる。深呼吸。心を落ち着かせ、再び劇へ。

 回転を止めた女性は天を仰いで瞼を閉じた。腕を広げ、口を開いた。

「ああ、幸いなるかな。これが私の幸い。この美しさは目だけでなく、耳も鼻も口も皮膚も侵し、意識にさえ食い込む代物。人間ならば賛美し、凝視せざるをえない、生命の芸術。だが、勘違いしてはならぬ。美とは永遠ではない。否、正しく言おう。永遠に固定されるものではない。美とは運動であり、常に発展し続ける。それが美であり、我の体現するもの。今の美も決して完成でもなければ、終焉でもない。無限という真なる美への道すがらである。この美は常に途上にして始まりであり、それゆえ常に絶対である。さあ、臣下らよ。汝らに拝謁の誉れを許す。とく味わい、浸るがいい。霊長の夢、その極地たる我が美麗を」

 口上を終えると、女優は赤い空気を漂わせ、玉座へ戻り、足を組んだ。驕慢な王の笑みに有吉の瞳孔が広がる。肉体、顔つき、組んだ脚、その全てがさっきよりも明瞭に美しくなっている。驚天動地の変貌に、先の彼女の美しさは最早思い出せぬほどで、美神の言葉も傲慢とは言えない。有吉は、一体どんな理由で斯くなったのかと、霞のかかる意識で考察してみたが、その要因たるや、たった一つ、先の血浴みしか思い当たらなかった。

 血の伯爵夫人の異名を取った十六世紀のハンガリー貴族、バートリ・エルジェーベトは居城チェイテ城内に領地の娘達を呼び込んでは惨殺し、五十人に及ぶ犠牲者を出した。彼女は咽喉を食い破って生血を飲み、果ては生体から迸る血のシャワーを浴びたとされるが、それは若さと美を得るための凶行だったと伝えられる。

 有吉は嘗て友人に教わったグロテスクな逸話を思い出し、劇の典拠はバートリだろうかと考えたが、それが知れたところで主題の何たるかは判然としなかった。

 ――それにしても、突然、キレイになるなんて、どうやったんだろう? メイク、とか? でも、そんなの直してる暇なんてあった? というか、メイクでどうにかなるレベルじゃ……。

 謎多きトリックを熟思黙想していると、周囲から再び歓声が上がったので、それに吊られて舞台を見遣ったところ新しい役者が現れているのが目に入った。四十代くらいの女性で、艶の衰えた黒髪をショートに切り揃え、皺かくしのメイクで若作りし、体型は肥満気味で、全体にあまり褒められた容姿ではないが、若かりし頃の美貌が僅かに残影を醸していた。気づけば有吉の近くに空席が一つできており、先の動向を鑑みるに、どうやら彼女も元は観客らしかった。中年女性は恐悦至極な面持ちで女性を見上げ、指を組み、祈りを捧げていたが、その有様は命乞いではなく、神の慈恵を謝する、神妙なるものであった。皇帝の如き風体で椅子に腰掛ける女性が、雅な顔つきで指を鳴らすと、それを呼水に黒子が大きな甕を運んできたが、何やら液体で満ち満ちているらしく、運搬途中に波が立ち、馥郁たる香りが溢れた。

 ――お酒?

 鼻腔を刺激するアルコールに、有吉は眉を顰めた。続いて五人ほど黒子がズラズラと現れ、中年女性を屏風のように囲んで服を脱がせたが、彼女は恪遵とするだけで、何らの抵抗も示さず、瞬く間に肌色で覆われた。脱衣が終わるや、女優は顎で合図をし、それを受けた忠義篤き黒子たちはいつの間にやら手にしていた杖で以って、中年女性を勢いよく殴りつけ始めた。鈍い、骨の折れた音が聞こえ、血飛沫が舞って、紅娘のように空気を飾った。杖は幾度も幾度も勇躍し、中年女の肥えた体に熾烈な印を彫りつけ、照明に切り抜かれた杖の赤い先端が有吉の意識に、おぞましく暴力の印象を刻み込んだ。くぐもった声と濁った音。雫の乱舞。十数分が経ち、女性の指示で黒子は動きを止めて囲みを解き、階段近くに整列したため、舞台中央には転がされた哀れなる中年の姿が露になったが、その手も足もあらぬ方へと曲がり、肌の色が分からぬ程、青痣が威勢よく繁茂していた。女は弱々しく呻いていたが、その痛苦、苦渋とは裏腹に、面は愉悦に塗れ、ある種のカルト的悦楽を表出していたが、その様に有吉の体は強張り、手汗が滾々と湧出して止まることを知らない。不意に、劇場の入り口へと意識が向き、その向うから脳裏に風が吹き込んだように感じた。

 軽快で律動的な音がする。思考の焦点を再び舞台に合わせると、あの女性が最下段に降りて来ており、黒子が恭しく捧げた大振りの太刀を手に取っている最中であった。妖艶な眼差しで波打つ刃紋を賞翫し、控えめに笑うと、手で指示して黒子達に女を持ち上げさせ、それから芋虫のように静止する中年女性へ近寄り、その有様をしげしげ観察するや否や、滑らかに右腕を切断した。直線を描いた鮮血は、板上どころか観客席まで朱に濡らした。有吉の頬へ散った赤雪は溶けて水泡へと変わった。指で拭うと、言い知れぬ独特の匂いがして、果たして血糊かどうか、イマイチ判断できない。女性は大仰に沓音を鳴らして被害者役の周りを巡り、左腕、左脚、右脚と順に切り落としていったが、その度に血は吹雪となり、雪崩となり、観客席へドッと吹き込んだ。四肢を切除し終わった女優は、倦怠とした様子で刀を放り、そのまま階段を上りながら、小さく手を上げ、黒子達へ次なる命を下した。その間に、日本刀は地面を跳ね、取って付けたような甲高い音を響かせていた。暫時を経て、鬼哭啾啾たる音と共に、弁柄で塗られた、巨大な木製オブジェが運ばれて来る。

 ――何、あれ?

 見慣れぬ形状に有吉は不審感を催したが、よくよく観察すれば、どうやら手動の捲揚機らしく、底辺のない長方形をして、その上辺の中点には尖ったフックと滑車が二つずつ付けてある。黒子は右辺下部のハンドルを回してフックを下ろすと、死に体の女の両肩口へ突き刺し、粛々とその身を巻き上げた。牡丹雪のように肉片が舞い、見苦しい音を立て滴り落ちる。眩い光に肉の切断面、赤と白の二重楕円が生々しく映し出され、有吉は思わず目を閉じ、顔を背けた。台車と滑車の音、それに続き、何かの水没する音がした。まさか、と目を開くと、酒甕に浸された中年女性が、黒子達によって底へ底へと力づくで押し込まれている惨たらしい光景が網膜を刺激した。酒は甕から溢れ、中年女性の口へと流れ、それだけでなく顔が半分以上酒甕につかっていたため鼻からも浸水しており、彼女は否応なく飲まされた多量の銘酒によって、顔を赤く赤く火照てらせていた。目線が泳ぎ、まるで焦点が合っていない。意識の散逸は刻一刻と進み、酔いに呑まれて自我のすっかり散り散りになった頃合いに、捲揚機が軋み、女を甕から引き上げたが、中空にゆらゆら吊るされたその肉体は、恰も鮮やかな赤を誇る琉金のように見えたのだった。美しき女優はいつの間にやら階段を下り終わり、またもや刀を握っていた。混濁状態の中年女性へ一瞥をくれ、躊躇なく首を刎ね落とすと、女性の頭は何らかの法則に従って宙を舞い、吸い込まれるように有吉の膝上に着地、彼女は蛙を思わせる叫び声を上げ、招かれざる腥臊な客を凝視した。作り物とは思えぬ迫真の出来。いや、これは本当に、本当に人形なのだろうか? 有吉の胸に暗い疑弐の念が湧き起こる。呆然としている間に黒子がやって来て、丁重に礼をしてから首を回収したが、それでハッと我に返るや、改めて死体を確認しようとしたものの、舞台上はすっかり片づけられ、惨劇は泡沫と消えていた。満足気なあの天子は、一段と麗しく、美しくなっており、その背より後光が射さんばかりに妖艶で、口元に浮かんだ笑みは絵画のような完全性を湛えていた。彼女は、先程同様に悠然と客席を見回しており、その眼、面持ちには欠片も悪意が感じられず、寧ろ懿徳を為したとでも言いたげな雰囲気であったため、有吉の心音は速まり、呼吸は夢路を迷うように荒々しく歪んだ。武と暴を操り、魂魄を掘削するは、強烈なる美を纒いし貴女の微笑み。それを後生大事に有難がたがり、高く高く讃頌するは我先に群がる衆愚の抃悦。有吉は意識を埋める美に思わずギョッとしたが、まさしくその瞬間に、彼女の瞳がこちらをじっと見つめているのに気がついた。二人の視線は重なり、跌宕と女優の右手が動いた。突き出された指が、しかと有吉を指名した。

 ――え、嘘……

 爪先が意識の内に入った刹那、有吉は反射的に立ち上がっていた。客席の隙間を強引に抜けると、絨毯を踏みつけ出口へ走った。極寒が体中を蚕食する。背後から拍手の音がし、重い痛みの塊が腹部で俄に凝固した。全速で走り、扉にぶつかると、大童に取っ手を握り、力任せに引っ張ったが、しかし、それは微動だにしなかった。

「ウソでしょ! 開けろ、開けろよ!」

 体重をかけて揺すったものの、まるで馬耳東風で僅かに動く気配もなく、混乱した有吉は獣のように猛々しく吠え、全身を使って暴れたが、ただ只管に虚しいだけだった。

「クソ、クソ! 開けろ! 開けろ!」

 喉が痛む。涙が熱い。壁のようになった扉を睨み、引っ張り、殴りつけ、蹴りさえするも、どれもこれもが無意味に終わり、仕方ない、と他の出口も見遣ってみるや、観客達が全員こちらを冷たく、されども朗らかに見つめている様よ、舞台を降りた黒子達が緩々こちらへ向かっている様とが目に入った。鳥肌。暗い煢独に全身が打ちひしがれ、嫌悪感がとめどなくあふれ、精神の混迷に嘔吐しそうになりながらも、有吉は左右を見渡し出口を探したが、他に扉はなく、窓さえ一つも見当たらない。女優の哄笑する声が鼓膜を震わし、不快さに顔を歪めるや否や、場内が一層鮮やかな赤に煌めいた。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 言い知れぬ恐怖と憤怒に身を任せ、力の限り咆哮し、がなり、雄叫びを上げたが、それらは空気にでも吸収された如くであれば、依然、場内は狂ったように静寂を保っていた。朧げな黒子達は陽炎のように揺れ、脚は全く動いておらぬのに、距離はどんどん縮まり、迫る面は、酷薄とした官吏が如きで悍ましかった。

「ああ、ああああ、ウソ、なに? ドッキリ? これってドッキリなの? ねえ、あれもトリックなんでしょ? ねえ、そういう劇なんでしょ! そうなんでしょ!」

 大声で唾をまき散らす有吉は、怵惕に眼球が飛び出しそうだった。突然、黒い、夜色の蝶がどこからともなく羽ばたいた。何万とも数え切れぬ大小さまざまの黒蝶が微かな羽音を立てながら暗い劇場のしじまを舞い上がり、舞い下がり、チラチラと飛び違い、もつれあうのは、夢で見る宇宙の景色に似ていて、何か儚い、夢幻のとりとめない様相を呈して、有吉は場違いにもうっとりと見入った。あてどなく動き回る蝶の群れは深更の水流に似て、捉えどころなく、一つの巨大な幕のようにこちらへ流れてきて、顔と言わず、首と言わず、ハタハタと微かな羽音を立てながら所構わず貼りつく。ゾッとする程嫌味だが、夢見の快さも感じられ、有吉は力を失い、その場に座り込んでしまう。蝶の網目の向こうには、最早霧のようになった黒子の群れと、拍手だけになった観客が犇き、なぜだか女王の赤い睛眸だけが、遠くからでも爝火のように明るく見えるのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ