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カニバリズム

第一幕


 Mアパート二階の薄暗い廊下をA某がゆっくりと歩いている。疲労困憊の体が左右に揺れ、レジ袋がガサガサと音を立てた。すっかり夜も更け、もう二十三時。重たい体からため息がこぼれた。独り身の彼は、それを理由に納期間近になると、いつも残業に駆り出されていた。いくら手当てが付くとはいえ、たまったものではない。一年間で何か月も続くとなればなおさらだ。Aは転職のこと考えながら、ガチャリと鍵を回した。その時、隣の部屋から大きな音が聞こえた。本棚やタンスが倒れたようだった。こんな遅くに掃除でもしているのだろうか? Aは少し不審に思ったが、隣人も自分と同じ境遇かもしれないと考えると、同情心が湧いてきた。お互い大変ですね、と顔も知らない相手に呟き、ギィと扉を閉めた。

 コンビニ弁当で夕食を済ませ、シャワーを浴びる。髪を乾かしてからベッドに転がり込む。全身がだるく、一ミリも動けそうにない。その一方、変に頭は冴えていて明日も仕事なのに、眠れそうになかった。部屋を暗くしても効果はない。暇潰しにSNSを眺める。今日も今日とて、殺人、ゴシップ、謝罪会見。実に捻りのないラインアップ。つまらない。気晴らしにスマホゲームを始めた。さして面白くないそれをポチポチ義務感でこなしていると、隣から鈍い音が聞こえた。ゴトン。Aは壁を注視した。ドンドンと床を殴っているようだった。どうやら喧嘩でもしているらしい。

(お隣さん、二人暮らしだったんだ)

 意外な事実に感心するA。不意に興味が湧いてくる。彼はスマートフォンを放り投げ、コップを持ち出した。壁に当て、耳を凝らす。仕切りの向こうでは人間のもみ合うドタバタ音やもごもごと言葉にならない声が反響している。ぐがあ、と時折、息の詰まる叫び。誰かが首を絞められているのが分かった。Aはぎょっとした。痴話喧嘩か何かだと思っていたら、予想外に深刻な、犯罪の雰囲気である。通報したほうがいいのだろうか。そう考えたが、余りに他の部屋から反応がないため、自分が知らないだけで日常茶飯事なのかもとも感じていた。もしそうなら通報した自分はとんだ恥晒しになる。隣人や警官に詰られるシーンを想像して鬱々とした。脂汗が滲むようだ。同時にそうでなかった場合も浮かぶ。隣室のあれこれが想像通りなら自分次第で死人が出るかもしれない。他の誰も気づいていない可能性は大いにあるのだ。自分の責任で人が死んでしまった場合を考えると、腹が軋んだ。Aは悶々と嫌悪感の中を泳いだ。大人しく寝てしまいたかった。何も知らなければ幼気な被害者で居られたのに、と苛立つ気持ちもある。だが、最終的には少年漫画的正義感が彼の心を占めた。感謝や賞賛への期待もないとは言えない。Aはスマートフォンを手に取り、ピッピッと110をタップした。僅かな呼び出し音が呼吸を荒っぽくした。「こちら110番通報です。事件でしょうか、事故でしょうか」と事務的な声が聞こえた。喉仏が上下した。Aは住所と今起きていることを説明したが、緊張から上手く話せず、何度も聞き返された。顔は真っ赤だった。更に悪いことに電波が不安定で、相手の声も自分の声もよく聞こえなかった。

「すみません」

「もしもし」

「いえ、そうではなくて」

 訂正の言葉を繰り返す度、段々と声が大きくなった。Aは遅々として進まない状況にイライラし、つい「だから、人が殺されてるかもしれないんですって!」と驚くような声を上げてしまった。それで話は済み、「では近くのパトカーを向かわせます」と電話は切れたが、同時に例の物音も止んでいた。Aは鳥肌が立つのを感じ取った。空気が消えたように静かで、心臓の音にも体が震えた。

(まさか、気付かれた……?)

 最悪のイメージが脳裏をよぎり、Aは暫く動けなかった。すると、どちゃり、と何か、粘着質な音がした。あまり聞きなれないそれは生肉の落ちる音によく似ていた。

(何、してるんだ……)

 想像から逸脱する現象に一瞬、思考が固まり、そしてすぐにスプラッター映画を思い出した。もしかして死体を解体しているんだろうか? ありえない話ではなかった。戦慄のリアリティ。想像に全身が感電した。Aはすぐに立ち上がり、玄関へ走った。陸上選手よりも素早い反応だ。その瞬間、後方から窓ガラスの破砕音に襲われた。え? 振り返る。振り返りたくないが、振り返ってしまう。ベランダに一人の男が立っていた。その手にはハンマー。安全靴が透明を踏みしだいている。月光を背に表情はよく見えない。しかし、異様な瞳の輝きだけははっきりとしていた。不意のことに固まるA。男はゆったりと部屋に入った。ガラス片の弾ける音。吐息。ハンマーの赤。一歩進む度、嫌な臭いが近づいた。床には雫があり、ヘンゼルとグレーテルのようだった。見えないと分かっていながらAは男の顔を凝視した。息を呑む。皮膚が筋張り、毛が逆立った。見開かれた虹彩が一点へ集約され、Aに寒気を抱かせた。チラリ、口の端に朱が見えた。

「え、え、ええ……」

 言語は出ず、絞り出すような振動だけがした。男は不服そうにAを睨み、舌打ちした。

「もう満腹なんだが、仕方ないな……」

 憤懣やるかたなく呟くと、間髪入れずにハンマーを投げつけた。鈍器は回転しながら飛空し、Aの左目を破裂させた。衝撃と激痛にバランスを崩し、彼は後ろにひっくり返った。床でしたたか頭を打ち、意識に霞がかかり始める。視界が翳りゆく中、Aは真っ赤に染まった唇とサメのように尖った歯を呆然と眺めていた……。


第二幕


 バン、と空気の破れる音がした。

 目の前では二人の男がスチール机越しに向かい合っており、スーツ姿のいかめしい男が怒号を上げて机を叩きまくっている一方で、だらしのない相貌の男は涎と涙を垂らしながら、それに負けじと吠えたてていて、何やら混迷の最中といった風体なのだが、そうした新米の取り調べをマジックミラーから眺めていた刑事の甲は溜息をつきながら、上司の乙に話しかけた。

「乙さん、どう思います? 今回のヤマ」

 中年の甲が問いかけると、乙はお手上げ、といった具合に頭を振った。

「どうもこうもない。最近の若いもんはイカレてる、ただそれだけだ」

「イカレてるのは若者だけじゃないですよ。日本人全体です」

「それもそうかもな。にしてもなんだってこうボコスカと人食い野郎が出てきやがるんだ?」

 乙は定年間近なベテラン刑事でこれまでに何十件と殺人の捜査に携わっていたが、そんな彼でも今回の件には頭を抱えるほかなかった。

「そうですね。ここ一ヶ月、あちこちで食人殺人が起きてますしね」

「はあ、末世だな」

 乙は呆れたように眉を顰め、それに甲も同調した。

「変な宗教でも流行ってるのか?」

「違うんじゃないですかね。全員、空腹で人を食べたらしいので」

「空腹、ね……」

 初めて耳にした言葉のように乙は何度も、空腹、空腹、と繰り返し、この飽食大国日本において、飢餓ゆえの食人など果たして起こるのだろうか、そもそも腹が減ったならコンビニにでも行けばいい、なぜわざわざ人を食べるのか……と眉を顰めながら、取り調べを受ける被疑者を睨みながら悶々と思索に耽っていたが、この最初の食人犯も他のも留置所で出された食事を決して口にせず、絶食を貫いているらしく、どうにも悲痛な面持ちがあると噂だった。

(もしかして例えばインターネット限定の教団とか、そういうのもあんのか……?)

 ネット界隈にしか存在しない教派という宗教法人に登録されないグループもあるにはあるものの、そういった集団は大概戒律が緩く、信者にタブーを強制できる力があるとは思えないという結論に至った乙は再度ため息をついたが、それというのも事件の何もかもが曖昧模糊、犯行は杜撰で逮捕こそ容易なのに、動機も分からなければ、防止策も思いつかない有様だったからであり、数十人もの人間が共通の動機も持たずに人を食べ漁るという奇天烈な現象にパンクしそうな乙の頭には、何やらホラー映画の一コマみたいだと恐れる気持ちもあった。

(腹が減っていた、か……)

 甲の言葉を咀嚼し、案外、その単純さこそが真実に最も肉薄しているのかもしれないと思って、視線の先の被疑者に意識を向けると、頬は瘦せこけ、腹はぽっこりと膨らみ、肌色悪く、全体的に気怠い印象であるのに、瞳は奇妙にも爛々と煌めき、研磨されたように尖った歯は不気味という他ない男が警官に怒鳴られ、脅され、考え得る限りのモラハラを受けながらも呆然と唸り返している様が知覚されたが、その声は言葉というより、雄叫びに近く、獣のように叫び、時折、じゅるるる、と涎をすすっており、その動作は、あちらとこちら、両方の警官に悪寒を走らせる類の異様なもので、乙はやはり脳の影響なのかと考えたが、それをすぐに打ち消し、そんな障害が同時発生的に起こるものかと考え直したものの、一瞬よぎったコロナという単語に何やら引っかかりを覚えたのだった。

「ガガ、ガガガガガガアッガアアアガアグルアガギラララアアアウゲゲルゴゴガアルウガ!」

 突如、鏡の向こうで怒声が響き、それに驚いた乙が思索から現実へと浮き上がって取調室を見つめると、狂気の叫びを上げる被疑者が刑事に襲いかかる様子が目に入ったのだが、枝のような、明らかに貧弱な四肢を振り回すその男に、屈強な刑事は圧倒されており、顔を引きつらせながら何とか抑え込もうとしているが、相手の力は埒外らしく、見る見る押し負け、首筋を嚙みつかれてしまい、血液が吹雪のように散り、灰色にヴィヴィットを加えたのだった。

「……なんだあ」

 乙の呆けた言葉を合図に仲間たちはハッと正気を取り戻し、怒声を上げつつ取調室に雪崩れ込んで五人がかりで取り押さえるや、まずは手錠をかけた男を、続いて負傷者を運び出した。

「やばい、ですね、あの人……」

 呆気にとられていた甲はようやく言葉を発し、麻痺した表情で乙を向いてぎこちなく首を振った。

「そうだな。確かにイカれてやがる」

 転がった机や椅子を眺めながら乙は答えると、「全く、何が目的なんだよ」と不愉快にそう吐き捨てた。

「そうですね、意味わかんないですよね……」

 甲は、どこか楽しそうに虚ろな言葉を返し、それから二人で取り調べ室の調査を始めたが、暫くして甲が「アッ」と大声を上げたため、乙は耳を押さえて抗議の色を浮かべたが、甲はそれに気づかず、「そういえば面白い話を聞いたの忘れてました」と無邪気に話しかけた。

「面白い話?」

 乙の語尾が吊り上がり、まるでいちゃもんのようだった。

「そうです。面白い話です」

「事件に関係あるのか?」

「ええ、多少は」

 自信満々の顔つきであり、好奇心を刺激された乙は顎を動かし、話を催促した。

「えと、ですね、人喰った人達が留置所の食事を食べないって話があるじゃないですか?」

「ああ、そうだな」

「それなんですけどね、実は、何回か看守が食べさせようとはしたことがあるらしくって、でも、何とか飲み込ませても、すごい苦しそうな顔で吐くみたいで、どうやら水以外は食べられないっぽいんですよ」

「……食べたら吐く、ねえ」

 興味深そうに乙は頷き、生理的な問題なのか、教義的問題なのかを考え始めたが、それを見た甲は兄に褒められた子供のように愛くるしく笑った。

「もしかしたら、人の肉しか受け付けない体質、なのかもな」

「受け付けない、ですか?」

 乙の重々しい独語に、疑義と好奇心の混ざった瞳で甲が問い返した。

「ああ、そうだ。体質的な理由で人肉しか食えなくなっちまった、ってことだ」

「なるほど……。確かに、それなら説明がつきますね、でも、そんな体質ってありえます?」

「どうだろうな。だが、一番、尤もらしいだろ?」

「まあね……。にしても、人しか食べられないから人を食べた、ですか」

 甲は突拍子もない、けれど魅力的な甲の考えに胸が高鳴り、その虚構染みた推理を引き出した上司の横顔に尊敬と歓喜の眼差しを向けたが、一方で乙はオカルト染みた推理を開智新たことに些かの気恥ずかしさを感じながら、ふう、と息を吐き、目を閉じ、ホラー映画に影響され科、と笑いながら目頭を押さえたものの、何ぜだかうなじの辺りが重たかった。

「……乙さん」

「なんだ?」

「仮に乙さんの言っていることが本当だとしたら、彼らは精神喪失状態で人を殺したってことになるんでしょうか?」

「……どうだろうな。ならないんじゃねえか」

 素っ気ない物言いに甲は突き放されたような感じを覚えて多少の不服を抱き、何だか食ってかかりたい気分になった。

「でも、飢えに苦しんで前後不覚だったなら、そういう判断もあり得るんじゃないですか?」

 僅かに熱を帯びた口調で甲が返すと、「仮定の話だろ?」と乙はなだめるように呟いた。

「そりゃ、そうですけど。でも、現状だと……」

「まあ、何にしてもだ」

 甲の台詞の尾っぽへ被せるように乙は声を張った。

「仮にそういう体質だったとしても検察も裁判所も、まあ間違いなく有罪にするだろうな」

「何でですか?」

 意外な答えに、今度は純粋な興味から甲は被せ気味で問いかけた。

「なんでって、そりゃそうだろ。人喰わなきゃ生きてけない奴なんて、どう考えても殺したほうがいいだろうが……」


第三幕


 レストランにて。

「それで? 調査の結果はどうだったんだよ」

「(水を飲んでいる途中で)いきなり、その話ですかあ?」

「(したり顔)そりゃ、これが本題で来てるからねえ。仕方がないさ。確か、三ヶ月くらい前だろ? あの、例のカニバリズム事件の犯人が死んだのって」

「(水を飲み直しつつ)正確には、最初の事件の犯人、ですけどね」

「(ニヤニヤして)揚げ足とるなよ。あの死体、遺族に引き渡したって、発表してたけど、実際は解剖してから色々と調査に回したんだろ? 記者仲間でも噂になってるんだぜ?」

「(嫌味な、それでいて面白がる笑顔)ほう、相変わらず、君達は耳が早いんですねえ」

「まあな。つっても元々、くそほど怪しげな事件だったろ? 犯人たちはみんな人の肉以外食わずに餓死したわけだし、警察の方も動機だとかなんだとかは全然、見当がついてないって話だしな。ネットじゃ怪しげな教団だとか、改造人間だとかで大盛り上がりだぜ。それもあっていろんな奴らが聞き耳立ててんだよ」

「(メニューを開く)なるほど。まあ、あれだけ話題になった事件ですし。そりゃ、知らないままにしとくほうが無理がありますよね」

「だろ? それでさ、実際のところ何だったんだよ(前に乗り出す)」

「(眉を顰めながら口角を上げる)何って、なんですか?」

「解剖してどうだったのか、って話だよ」

「(得心したように。あまり驚いていない)ああ、その話ですか」

「それしかねえだろ。普通は司法解剖なんてしねえんだから。犯人たちにおかしなところがあったっんだろ? (唇を舐める)なあ、何があったんだ? やっぱり遺伝子の突然変異とかなのか?」

「(手を上げ給仕を呼ぶ)悪いけど、守秘義務ですよ」

「守秘義務?」

「ええ、こっちも公務員みたいなものですから。守秘義務があるんですよ」

「……ほう」

 給仕、やってくる。

「ステーキ定食で。(メニュー広げる)あなたは?」

「(チラリと見て)俺はイチゴパフェで」

 給仕、お辞儀をして去る。

「(視線をわざとらしく泳がせる)ところで、悪いのですが、考えごとがありましてね、少し静かにしていてもらってもいいですか?」

「(悟ったようにニヤリとする)……ああ。わかったよ、じゃあ、もう聞かねえ。俺はただここにいるだけにするよ」

「……そうしてもらえると助かります。ああ、あと、ご存じの通り、考えごとしてると独り言が出てしまう癖があるので気にしないでください」

「……(頷き、手帳とペンを取り出す。こっそりスマホで録音を始める)」

「(少し不自然な声量で)あーあ、それにしても実に変な死体でした。解剖しても異常はないのですが、資料によれば、人肉以外を口にすると、必ず嘔吐して栄養摂取できなかったそうです。それで私も気になって普段より細かく調べたのですが、いや、まさか、あんな結果になるとは……」

 料理、運ばれてくる。二人、会釈して受け取る。

「(水を飲む)何と脳髄から未知の細菌が見つかったんですよ。(ナイフとフォークを手に取る)調べたところ、その細菌はどうやら人類にしか感染しないらしいんですよ。色々な動物で試したんですが、人間以外の体内では生存しなかったのです。それから全被疑者をチェックしたんですが、例外なくさっきの細菌が検出されまして。(ステーキを切り始める)ですから、恐らくはこいつが人肉食を引き起こしていると考えられるわけなのです」

「(コロナのことを思い返して嫌な気持ちになりつつも、興奮の面持ち)カニバリズムは新種の病気、なのか」

「(咳払い)しかしね、この細菌がある特殊な性質を持っていたんです」

「(呟くように問いかける)……特殊?」

「(呟きを無視しして)なぜか人体の中でしか生きられないのです。大気中でも真水の中でも、他のどんな環境でも数分もせずに全滅してしまう。ですが、当然の帰結ではあるんですが、血液では生きられるのです。要するに血中内でしか生存できない細菌なのですよ」

「(蟀谷をペンで搔きながら)……それって」

「となると、一体、どうやって広まったのかって話になります。感染するには感染者の血を直接注射するしかないのですから。(一息つく)ですが、今回の事件、被疑者だけでも数十人にいますけれど、全員に共通した接点は一つしか見つけられませんでした。輸血記録もない。つまり経路が不明なんですよ。これだけ大規模に広がった病の経路が不明。(ちょっと興奮しながら)実に悩ましいものです」

「……(眉をひそめながら手帳に書きつける。時折、相手の顔を見る)」

「(咳払い)これについて、私は一つ仮説を持っているんです。血液駐車でしか拡散しないのなら考えられる可能性は二つ。一つはテロですが、これは捜査資料を見るに考えにくいですね。犯行声明もないですし。となると、二つ目の可能性、人体内での突然変異というのに行き着くわけです。つまり、血中内の雑菌か何かが何らかの理由で突然変異したと。癌に似てますが、こう考えれば、発症はするが感染しない病気の説明がつきます。そして、可能性としては血中内の雑菌が原因な可能性が高い。推測ですが、人間なら誰であっても持っているような、ありふれた菌が引き金なのではないかと思うんですよ」

「(メモを取る手を止める)人間なら、誰でも? おいおい、それって……」

「言い換えれば、誰にでも人肉食病の発症するリスクがあるのです。しかも今のところ、度の雑菌が原因で、どういう人間に発症リスクが高いのかは全く不明です。今、遺伝子情報を調べていますが、上手く系統づけられるか、かなり微妙ですね」

「(やや血の気の引いた顔で)ワクチンは、ワクチンはどうなる?」

「(やはり無視したまま)RNAワクチンを作っている最中ですが、これも滅菌する薬ではないので、結局、抗生物質を作らないと完治は恐らく難しい。仮にワクチンができたとしても、どれだけ薬効があるかはまだ未知数ですし」

「(瞳孔が見開く)」

「要するに、暫くは我々としても静観するほかないのです。勿論、事件が起きれば警察には逮捕してもらいますが、何にしても感染を抑制する手段はありません。そして、これは最近気づいた事ですが、この病気、警察の統計なんかを見ると、年々増えているようで、まあ、つまりは大変だということですよ」

「……大変だ、って他人事みたいに(なじるような声)」

「まあ、それは仕方ないです。(わざとらしく肩をすくめる)今できることと言えば、感染者の隔離くらいですし。まあ、隔離したとしても人肉を食わせるわけにもいかないから、患者は間違いなく死にますがね。といっても法律さえ変われば何とでもなりますが。(遠い目)それがいつになるかは、皆目分かりませんがね……」

「だけどさ、もしもそれが正確だとして(顔が曇る。言ってる内容が失礼なのに気づき、一瞬、慌てた表情)、いや、正確に決まってるんだけどさ、その病気が広まったりしたらさ、この世界は一体……」

「(キョトンとした顔で)そりゃあ、簡単なことですよ」

「簡単?」

「ええ。あの病がしているのは人が本来持っている食欲と凶暴性を引き出しているだけですから、パンデミックが起きたとしても人類が滅びるわけではありません、簡単に言えば、皆狼になる。(複雑な表情。楽しむような、悲しむような)こう言いましょうか? ホッブズの世界に還るんですよ。我々全員がこんな風にね(喉を鳴らす。フォークを握る)」



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