マルシュアスの災難
盛期ルネサンスを代表するヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ。その最も有名な作品が「ウルビーノのヴィーナス」であることは言を俟たない。フィレンツェ、ウフィツィ美術館所蔵の金星の女神はエドゥアール・マネに「オランピア」を描かせた西洋絵画史の重要作だが、私が複製画を買い求めるほど好んだのは、寧ろ「マルシュアスの皮剥ぎ」の方で、その野趣、色彩の奔放、冷涼たる瞳、心酔せざるを得ないアウラに圧倒されてしまったのである。
晩年のティツィアーノはオウィディウス『変身物語』を素材に連作「ポエジア」を制作したが、典拠を同じくする本作はシリーズに含まれない。この絵では太陽神アポロンが逆さ吊りになったマルシュアスから皮を剥いでいるものの、『変身物語』ではひとりでに剥げたように書かれている。恐らく、アポロンの神通力が皮を奪い去ったのだろう。しかし、絵にするとなれば、そうした神秘より拷問の方がショッキングで見目を惹く。ティツィアーノの改変は絵画と文学のメディア的差異を反映した結果と言えよう。
サテュロスとはギリシャ神話に登場する、下半身が山羊の男の精霊で、酒宴神・デュオニソスや牧羊神・パーンに近しく、二柱同様、狂乱と性欲を司る。サテュロスのマルシュアスはアウロス――ダブルリードの木管楽器――の名手として知られたものの、それが仇となってアポロンの嫉妬あるいは憤怒を買ってしまう。楽器制作者をマルシュアス自身とする説もあれば、アテーナーとする説もある。『変身物語』は「ミネルウァ女神があみ出した葦笛」として後者を採り、吹いている間、顔が醜くなるから、と神が捨てた笛を、彼が拾ったことになっている。
マルシュアスはアポロンの竪琴と演奏を競って敗れ、皮を剥がれるが、そうなった経緯には種々ヴァリエーションがある。主なものは、アウロスの腕が長じたマルシュアスが慢心し、アポロンに自ら競争を申し込んだバージョンと、マルシュアスの高名が風聞としてアポロンの耳に入り、激昂した神が闘いを挑んだバージョンだろう。いずれにしても結果はアポロンの勝利で揺るがないが、その過程にもまたいくつか異説がある。芸術の神アポロンがその演奏技術でマルシュアスを圧倒したパターン、マルシュアスの方が優れていたが、審査員たる音楽の神ムーサを買収していたために太陽神が勝ち星をあげたパターン、そして、マルシュアスの演奏を前に敗北を悟ったアポロンが歌を付け、楽器の技巧ではなく、歌唱の秀抜によって勝利を得たパターンがある。
しかし、『変身物語』に先の演奏比べはなく、皮の剥がれるシーンだけが克明に描かれている。以下に引用しよう。
「どうしてわたしを、わたし自身から引き剥がすのです?」とマルシュアスは泣きわめいた。「ああ、早まったことをしたものだ! たかが笛ひとつで、こんな目にあうなんて!」だが、そう叫んでいるうちにも、からだの表面から皮が剥がれて、全身がひとつの傷となった。血がいたるところから流れ出る。筋肉が露出し、皮膚がはぎ取られた血管は、ぴくぴくふるえている。痙攣する臓腑や、胸のあたりに透けて見える筋を、数えあげることもできるほどだ。
(オウィディウス著・中村善也訳『変身物語 上』岩波文庫、一九八一年九月、二四〇頁)
劇的かつ神秘的なシーンで、オウィディウスの技量が光る。彼が演奏比べのどの話型に知悉していたかは詳らかでない。しかし、『変身物語』のアポロンがしばし傍若無人なこと、並びにマルシュアスの皮剥ぎに続く以下の描写から、神が横暴を働いたと推測できる。
百姓たちや森の神々、牧神や兄弟の獣神たちが、彼[マルシュアスを指す]を嘆き悲しんだ。瀕死の彼が、なおかつ愛を寄せていた少年オリュムポスも、さまざまな妖精たちも、あたりの山で羊や牛を飼っているすべての牧人も、彼を悼んで泣いた。(オウィディウス著・中村善也訳『変身物語 上』岩波文庫、一九八一年九月、二四〇頁)
『変身物語』における皮剥ぎはやや超常的だが、ティツィアーノではアポロン手ずからマルシュアスの皮を剥いでおり、全体に鬱々とした色調が場面の陰惨さを引き立てている。周囲にいる人々はアポロンの拷問を手伝っており、特に画面右のサテュロスは同胞ながら厭らしく、薄気味悪い色を浮かべる。精霊の苦しむ様を冷静に見ているのはミダス王だが、彼が関わったのアポロンとパーンの演奏比べであり、マルシュアスのものではない。パーンとサテュロスは縁深い上、両方の競演が同じプリュギア(現アナトリア中部)で行われたため、混同されたのだろう。ただし、ティツィアーノの絵では、パーンを擁護したミダス王がマルシュアスの味方をしていないように見える。まるでアポロンの加虐的煌めきに取り込まれてしまったようだ。皮剥ぎを淡々とした面持ちで眺める人々や鑑賞者に背を向けるアポロンと対比的に、マルシュアスの表情は恐怖と痛苦に歪み、その瞳、あまりに印象的な黒曜の眼は切実に我々を凝視する。致し方ないとは言え、神と争ってしまった後悔。いつ終わるとも知れない生皮の切除。宙吊りにされた彼の頭からは血が滴り、真っ赤な沼となっている。鮮烈な色彩イメージは脳裡に神の悍ましさと権力の破壊的狂気を印象付ける。このマルシュアスの面持ちこそ異論の余地なき本作の白眉と言ってよいだろう。
区切りのいいところまで書き終えた私は万年筆を脇に置き、思い切り伸びをした。筋肉の強張りが緩やかに解けていった。目を瞑り、深呼吸すると、疲労の塊が気泡のように割れ、散った。瞼がゆるゆると上がる。闇を抜けるとマルシュアスの顔があった。以前に購入した精密な複製画である。新聞社に依頼されたイタリア絵画評論も既に七回目を迎えていた。ジョット、ウッチェロ、フランチェスカといった初期ルネサンスの大家から、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの三巨匠までを大まかに紹介し終え、次はヴェネツィア派に進む予定となっていた。「マルシュアスの皮剥ぎ」評はその嚆矢で、ヴェネツィア派最大の巨匠ティツィアーノの事跡を辿る枕である。エッセイは「マルシュアスの皮剥ぎ」に始まり、「ポエジア」、「聖愛と俗愛」、「聖母被昇天」といった代表作を順不同に巡った後、「ウルビーノ」を経て「マルシュアス」に還る予定であった。しかし、書いている内に、冒頭が想像以上の膨らみを見せ、計算は大きく狂ってしまった。「マルシュアス」評論は個人的にはお気に入りで、このまま残したいところだが、そうすると、紙幅の都合上、他に言及できるのは一、二作が限度となる。「ウルビーノ」は外せないとして、もう一作をどうするか。著名な「聖母被昇天」にするか、多少マイナーだが、ローマ神話繋がりで「ヴィーナスへの奉献」にするか。腕を組んだ私は、窓に切り取られた街並みを眺めつつ唸るように思案した。
表通りから離れた閑静な街路では、自転車や車がゆるゆると走り回っている。ゴムの石畳を滑る音がし、子供特有のファルセットが野性的な音楽を奏でる。雲を寄せ付けない、乾いた白い日差し。私は夏と秋の合間の、豊かで心地の良い気候に感じ入っていた。カップを掴み、口腔へコーヒーを招き入れる。黒い苦味が喉を潜り、苦悶する脳の気付となった。そうだ、と私は呟いた。カフェインのおかげで脳が覚醒したのだろうか、エッセイの構成案が静かに降下したのを感じる。私は、ムーサの微笑みに感謝しながら万年筆を握ると、再び原稿へと向かった。これは名エッセイになりそうだと、はにかんだように口を歪めながら。……しかし、意気揚々と振り上げたペン先は、紙に触れることなく凍り付いてしまった。不意に、眉間へ皺が寄った。私は唇を噛むと、原稿用紙を持ち上げ、疑弐とした瞳で観察を始めた。視線は繊維とインクの上を滑り、何度も、何度も往復した。私は口を手で覆った。意図せず、映画的な仕草になった。そこには一連なりの文章があった。無論、目の前にあるのが原稿用紙である以上、それは何もおかしくはない。手も文体の癖も私のものである。だが、困ったことに、私にはその文章を書いた覚えが全くなかった。
プリュギアの楽器比べにはもう一つ面白い話型が存在する。マルシュアスの笛の腕前を聞きつけたアポロンは彼に競演を申し込み、ムーサの協力を得て勝利する。アポロンは勝者の特権としてマルシュアスの皮剥ぎを望み、逃げようとしたサテュロスを魔法で拘束すると、医薬の神らしく特殊な薬をサテュロスに投与する。それは身体器官の感度を引き上げるもので、アポロンは敏感になった皮を愉しそうに剥がし始める。手際の悪い、もたもたしたやり方。不器用を演じているのは明白だった。皮はゆっくりとマルシュアスから離れ、赤い肉、白い筋が姿を見せる。筋繊維が糸を引き、尋常でない激痛が精霊を襲う。マルシュアスの絶叫。皮を剥ぎ続ること、おおよそ交響曲四楽章分。悲鳴を浴びる太陽神は満足そうに恍惚と、不穏で美しい笑みを浮かべ続けていた。観客達は神の所業に恐怖するが、段々と感化され、悲鳴に陶酔し始める。こうしてプリュギアの戦士達はどの地域よりも猛々しくなった。
見たことも聞いたこともない神話だった。手元の辞典や神話集成には載っていない。現代ホラーのような惨たらしい内容に私は驚き、唇を曲げた。なんだ、これは? 悪戯か? でも誰の? 私は独身者だというのに。ふと、頭のつむじに視線を感じ、顔を上げた。そこにはティツィアーノの複製画が掛かっている。マルシュアスの悲惨な顔、無関心な大衆の顔、視力を失うくらいに美しい太陽神の顔……。私は目を擦った。首を亀のように突き出し、注意深く観察し直す。マルシュアスの陰惨な色合い、無情なる大衆、そして、煌めく焔、アポロンの瞳。立ち上がり、後退りする。
おかしい、おかしい。おかしい!
信じ難く、受け入れられないという思いが神経を駆けた。書斎から逃げるように抜け出す。頭蓋の裏で螺子がガチャガチャぶつかり合う。アポロンはこちらに背を向けているはずである。それなのに、なぜ、彼の美しい顔を私は見ることができるのだろう? とにかく落ち着こう。冷静になるべきだ。そう思ってキッチンへ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。透明が腸を通って浸透する。暴れる心音を宥めようと何度も深呼吸した。
丁度、その時だった。どこからか甘美な曲が聞こえてきたのは。テルプシコラーの歌声に勝るとも劣らない魅惑の調べは、私の意識を一瞬で酩酊させる。得も言われぬ美しさ。音のせせらぎを遡ると、窓辺に辿り着いた。路上で子供が泣いている。周りには誰もいない。実に孤独な泣き声だ。自転車に乗っていて転んだらしく、手の皮がべっくり剥がれている。痛々しい姿に思わず自らの腕を摩った。澄明な奏楽が空に、部屋にこだました。心の奥底が溶け出すように麗しい。急に現れた旋律は金色の眩しさを持っていた。これはどこから聞こえるのだろう。音の源を求めて私は耳をすまし、あっ、と驚嘆の声を挙げた。天上の音楽は、なんと少年の口から出ていたのである。陽射しを乱反射する金髪と大理石のような肌、開かれた朱はいたく鮮明。音楽も相まって映画の一場面のようだった。
夢見心地の内に幾許かの時が過ぎた。気づけば優婉な愉悦は消え去っている。私は頭を振った。時の狭間を跳躍した感覚だった。僅かとはいえ記憶がない。いや、正確には音楽の記憶しかなかった。あれはなんだったのか。疑問が去来する。アポロンの笑顔。自分の頬が微かに痙攣しているのが分かった。そう、分かってはいたのだ。思案など所詮ポーズに過ぎない。あの音楽の正体など考えるまでもなく明らかなのである。ただ、その答えを認めたくなかっただけなのだ。肋骨の辺りが締め付けられる。先の一節が脳裏に蘇る。思わず複製画を見つめた。アポロンは元通り背を向けていた。マルシュアスの瞳が潤み、燃え盛っている気がした。
何にせよ、試さなくては、実験しなくては。不安に歯噛みしながら居間へ移ると、テレビをつけ、ホラー映画を再生した。真実への恐怖に脈が激しく乱れた。その一方、脳の片隅には雲から差し込む光明のイメージが励起していた。まず「悪魔のいけにえ」を観た。次いで「血を吸うカメラ」「血塗られた墓標」「オーディション」「ヴィデオ・ドローム」「ホステル」「エイリアン」を観た。いずれも素晴らしい音楽に満ちていた。一番良かったのは「マーターズ」で、拷問に遭った少女が悶える度、極上の美が耳を楽しませた。私は繰り返し映画を観た。その鑑賞体験は言葉にできず、どれだけ観ても余韻は去らず、寧ろ欲望が高まる一方だった。
悲鳴が音楽に聞こえる。
その事実は最早不動のものである。異様な事実を確信した私は最初こそ動揺した。ホラー映画を流しながら、勘違いであってくれと願ったほどだった。中国の妖婦・妲己は、焼けた銅柱の上を死ぬまで歩かせる炮烙の刑を楽しんだという。悲鳴のことを確信した時、私は自身がその残虐なる人物と同類であるかのように思え、肩を落としたのだった。まさか、自分に、こんな……。だが、その考えも悲鳴を聞き続ける内に、少しずつ、あるべき形へ改められていった。悲鳴を賞玩し、その素晴らしさを味わった私は、自身の趣向は抑圧する程のものなのかと寧ろ通念の権威性にこそ目を向けるようになったのである。私の行為など、所詮は趣味、単なる間に合わせの代替行為に過ぎない。妲己は本物だが、私はあくまで模造品、贋作なのである。ホラーやグロテスクを愛するからと言って、果たして性格破綻者と言えるだろうか。無論、答えは否だ。そもそも私は妲己と違って、市井の小市民に過ぎないのである。それと権力者が同質など、勘違いも甚だしいではないか。ホラーを楽しむ自身に恥ずかしさを感じること。そこには社会からの威圧、圧迫がある。どうやら私は、悍ましき全体主義を知らず知らずに内面化してしまっていたらしい。それに引き換え、あの音楽の何にも替え難き素晴らしさ。あれほどの音楽が悪しきもの、恥ずべきものなはずがないではないか。恥辱を感じていたことこそ恥じるべしである。美とは正義、美とは絶対。秀逸なる芸術は常に善に立つものなのである。となれば、悲鳴という名の音楽も、それを聞くこともまた、同様に正しきことと言わざるを得ないだろう。
それからというもの、私はホラー映画を流しっぱなしにするようになった。正確に言えば、編集して作ったスクリーム・シーンの詰め合わせを、である。原稿を書く時も、食事をする時も、横臥する時も、いついかなる時も私は悲鳴を聞き、その度に驚嘆し、陶酔した。正しき美のあり方に魂が洗われるようだった。心底から賛美すべき日々である。しかしながら、そうした中にも困難はあり、その最大のものは、シャワーの水音であった。流れ落ちる水の轟きが叫び声をかき消し、美の湧出を断ち切ってしまうのだ。とは言え、入浴というものをそう簡単には切り捨てることもできない。初めの内こそ悲鳴なき不快を我慢し、私は何とか体を洗っていたが、段々と耐えられなくなり、やがて、欲望が衛生観念を乗り越えた。以前は毎日行っていた浴室詣でも、今やお蔭参りの如き稀少な参拝へ変わり、体を清める暇があったら、一秒でも長く悲鳴に浴することが私の至上命題となっていた。
だが、虚しいかな、どんなものにも飽きは来てしまうのだ。舌のとろける料理も、端正な美男子も日日となれば、価値が低減する。三ヶ月程で、私と悲鳴の関係に倦怠期がやって来た。この間、私は信じ難い数のホラー作品を鑑賞したが、何事もやり過ぎは良くないのだろう。いつしか、作り物の悲鳴では満足できなくなっていた。ホラー映画を観る度、あの少年の姿がぼんやり浮かび、その叫びが鼓膜に逆巻いた。その卓抜さたるや演技のそれを遥かに凌ぐ。やはり、養殖物ではだめなのだ。しかし、誰かを甚振り、殺そうなど今の私にできるはずもなかった。私の倫理観はそこまで壊れていなかった。だが、禁じられれば禁じられるほど、欲望はより強く、激しく反発する。禁酒法に明らかな、人の本性である。本物を聴きたいという欲求は弱まるどころか益々亢進し、輓近では抑えるのが最早、困難になっていた。
欲望が限界まで膨らんだある朝、私は、不意に自分の皮を剥げばいいと気が付いた。天啓だった。単純で、見落としがちだが、シンプルゆえに優れた解決策だった。私は興奮し、昂った。快楽への予感が水素のように燃え立ち、爆ぜた。自分の皮を剥ぐ。その素晴らしいアイディアを早速実行しようと、キッチンへ駆け込んだ。ナイフを取り出し、右手で握る。太い銀の重みが寸刻先の愉悦を想起させた。思わず、涎が垂れた。逸る気持ちを抑え、小走りに洗面台へ向かう。蛇口を捻った。左腕を伸ばし、静かに刃を当てた。飛沫と金属が冷たかった。息が荒い。頭が熱い。口の中が妙に乾いていた。私はナイフをゆっくりと動かし、少しずつ、生ハムを切るように皮を剥いだ。洗面台の陶器が赤に染まり、ゴム風船を潰したような呻きが報酬系を刺激する。皮は少しずつ肉から離れ、過大な痛みと苦しみが脳髄をいたく揺らした。爪先が痙攣し、上手く力が入らなくなる。虚ろな体に、痛みが津波となって押し寄せ、肉どころか神経までも削り取った。鋭く毒々しい痛み。だが、快楽はその苦悶を飲み込むほど大きく、クラクラとドーパミンがのたうち回った。決して、我が手も意識も血の滴り、止められようと言うべき? 興奮慨と悦楽天、横溢せる神経系には波浪のアヘンにセレスよ、ああ、麻薬ぞ、欠片も痛みの感じるさえなく、ずる。がう、ぐう、なに醜い音色でさしすせそと心ゆ踊り、射精もする。っと股間に濡れぬると曰く感覚がしたり、そうでなかったりする流水や流血も湿っているが。上腕骨の骨と幽冥に痛みより混沌が跳躍して。悲痛、悲鳴、悲嘆ぞよ、ああ、何と甲斐なし言われない悦びからから、愉悦なにも、満足かだろうかろうと。今まで、今までにぞ、こりゃほどの美がさ、快楽がよお、そうなのだ、であるらしいと、美は快楽、快楽は善、愉悦およびてポルノクラシー世の中の世に太陽の煌めき、暴虐的な秀抜、忘却的なる疾風怒濤、なぜ何いずこ、この世にあったか、なかったかだろうかしまし? 美し、日差しとプロミネンス、黒点美しい、フレアフレア、ああ、ああ、あああ、トトメスと悶えるしかできないというのも、一興、故郷霞がかり、頭に朧はかかって悲鳴の音楽の楽譜の通り。浪漫主義。ああ、素晴らしく! ミゼラブル、夢よ、夢、枕の獏獏、覚醒するなり、覚めるなり、好き勝手に覚めてくれるな! 素晴らしい! ワンダー素晴らし、いとどトド! この美にこそ独りの念、アル・ムターシム、モナドの原初、一者の麗し、ついについに、世界の果てさ、目も耳も一つと唯一の感覚へ統合、分離派、表現主義と来たから共感覚は、夢幻の圧倒な耽美、悠々と、空に星が奏でているなあ、竪琴と葦笛は思える正念、可燃、マルシュアス、これなんだ、これなんだよってこれが美と、美なんだと泰然自若、ながらもしかし、その美しさ、天使の梯子か、黄金の光の柔らかさ、陽光が一等強く、オリュンポス、エリュシオン、ああ、投げかけている。それでも、このために生きとし生ける者は、生の一瞬に……。
快楽が閃き、私は天界を幻視した、その間はほんの僅かしなく、すぐにも皮はプツンと切れた。大した長さでもなく、端の辺りは形が悪かった。試みに広げてみるが、ハンカチよりまだ小さかった。いきなりうまくいくわけなかったか。仕方ない、私は精肉業者ではないのだ。やはり練習が必要である。とりあえずは、ウサギの皮剥ぎから練習しようか。今後のプランをぼんやり思い描きながら、私は露出した肉を一瞥した。皮剥ぎが上手くなれば、いずれ左腕全てを紅に変えられるだろう。それどころか、半身、全身だって赤くできる。もしも人体模型のようになることができたとしたら、一体、私はどのような悲鳴を上げるのだろう。想像しただけで心がゾワゾワした。
私は剥いだ皮を丸め、洗面台の片隅に置いた。体中に音楽の余韻が残っていた。足が微かに震えている。先刻感じた、自我を圧し潰すような欲望も、ひとまずは沈静化していた。恐らく、しばらくはこの方法で満足できるのだろう。一先ず安泰だ。しかし、逃れられない不安も依然として胸に残っている。それは以前に比べれば各段に弱々しいもので、最早、私を縛り付けるに能わない。モラルへの恐怖も遠い昔。いつのまにか美のためなら何をしても仕方ないと感じるようになっていた。美こそ全て。仮令、制作過程に残虐的何かがあったとしても、完成したものが美しければ何もかもがチャラになる。いや、チャラになるべきなのである。どんな被害も芸術のためならば必要な犠牲なのだ。この確信は以前の私の信念とは似ても似つかないものだった。そのために、当然だが、「マルシュアスの皮剥ぎ」に関するエッセイは大幅な変更が必要となった。しかし、その代償を支払ったことで私は自由になった。この世界は重荷でもなければ、鎖でもない。重力を感じるのは自我が囚われているからに過ぎないのだ。権力者が作ったルールは所詮、権力者を守るためのものである。そんなものを内面化し、超自我に従うなどうつけの極みだ。何に従うかは、自分で決めればいい。与えられたものではなく、自分で作り上げたものに。そう、この美しさに……。
計り知れない快楽、美に陶然としていた私は不意に覚醒し、軽く頭を振った。若干麻痺しているとはいえ、十分に激しい痛みがシナプスを犯した。真っ赤な、痛々しい筋肉を見つめ、悲鳴のことは後でいい、今はとりあえず手当てをしければ、と考えた。不思議と、全てが静謐だった。私はナイフについた血と皮を綺麗に洗い、水を切った。それから手に水を溜め、顔を洗った。傍にあったタオルで拭う。ふう、と息を吐いた。その時、視界に鏡が入り込んだ。何気なくその姿を見た私は、思わず絶句した。そこには他の誰でもない私が映っていた。しかし、その顔は羊と山羊と人を組み合わせたキメラのようだった。これが私? 俄かには信じられなかった。まさか、夢でも見ているのだろうか? 私は、混乱しながらも状況を把握しようと更に注意深く鏡を見つめた。細部を丹念に観察し、そして、あることに気が付いた。口だけが辛うじて人間の部分で、残りは山羊と羊で綺麗に等分されていた。だが、山羊の部分は所々ひび割れ、剥げ落ちていた。パラパラと素肌に張り付いた砂が落ちるように、山羊の毛が、肌が舞い落ちている。剥がれた山羊の下には人肌ではなく、柔らかな羊毛があった。羊。私の心臓は早鐘を打っていた。視線は羊の部分へ移動した。とても穏やかな表情だった。その瞳からは何の考えも汲み取れなかった。羊毛は少しずつ、山羊を押しのけ押しのけしており、下から突き上げるように、自らの領土を広げていた。山羊が剥がれているのも、羊に押し出されているためだった。その勢いは緩やかだが、余裕綽々でいられるほど遅々とはしていない。このままいけば、いずれ全てが羊と変わるだろう。それは間違いない。もしも、そうなった時、私はどうすべきなのだろうか? いや、どうなってしまうのだろうか? このままでいられるのか? 今と変わらず自分の皮を剥がし続けるだけで満足していられるのだろうか?




