夢の中の夜
これは夢なのだと揺ぎなく確信できるのが不思議だった。
一帯が紺の薄絹に包まれた深更に、木々の囁きを聞きながら、月光を辿り歩いていた。星はなく、銀色の円だけが穴のように瞬いている。葉々に砕かれた輝きはダイヤに似て、行く先を淡く照らしている。
冷涼な風が時折吹き、汗を乾かしていった。その爽やかさに、秋の始まりと夏の去就を感じた。気持ちのいい気候だが、なぜか心苦しい。何かを置き忘れているような、痛い引っかかりを感じる。
私は帽子を取り、汗を拭った。かぶり直そうとして、帽子がいずこかに失せたと気付いた。先刻まで手に携えていたのに、おかしい。だが、何も奇妙でないのだ。ここは夢の内なのだから。
アリスと違い、自覚の中にいた。夢である以上、どのような怪異変事も驚くに値しない。木の葉が舞うと、月光に錆た影ができ、鉄釉の斑文と映った。夜の黒が対比されてくっきりとする。微かに青磁を帯びた、複雑な色味だった。蒼の鱗粉を振りまいて、数羽の蝶が横切った。何とも明瞭なサインで、夢の夢らしさを強めた。
ああ、どうにも、また寂しい……。
夜の紺が、多少、明るくなり始めていた。朝も近い。目前に線路が現れる。甲高い騒音と人工灯を撒き散らし、電車が通過した。遮断機が上がったのを見て、踏み切りを渡った。唐突に紛れ込んだ現実。また、体が倦怠する。生は人生を不幸にする。しかし、それから逃れることは結局できない。生首がバラストの代わりをしていた。
大きな鍵束を揺するような荒々しい音がした。けたたましい叫び声を上げ、半裸の浅黒い男が傍らを駆け抜けて行った。その手には鉄の環を束ねたようなものを持っていた。
闇の吐き出す霧が男を覆い隠した。その後をハイエナの群れが追いかける。首を刎ねろと、女王が吠えているようだった。
霧は薄衣に似ていた。その向こうに、幼き日が影絵となる。初恋の相手が林檎を齧り、それを男が見つめている。彼女は光を浴びて伸び縮みしたが、観察者は変わらないままだ。惑星のように、男は彼女を中心に公転した。仲は良かったようだ。男は猿の手を取り出し、大きく振った。しかし、初恋の相手は兄を選んだ。家族になるという願いは皮肉に叶った。
地面には生きた長さだけ、写真が並べられている。万能感に酔いしれた幼き日から、恋の虚しさや自身の凡庸さを知った大人へと。それら全てを踏みつけ、踏み越えた。今や、時の無常が諦観を与える。
よぎったセピアが世界をくすんだ色に変えた。霧はますます濃くなった。過去だけが豊かな色彩を伴い、漫画映画となった。歩幅のリズムに合わせ、映像は花火と弾けた。ブロッケンの妖怪のように、極彩色が眼前に広がる。
ロココ式に描かれる恋人。古典主義的キスの緊迫。印象派には体温のまぐわり。阿吽の呼吸が、落ち着いた表現主義を生み出し、凪と共に、どちらも野獣のような刺激を求め始める。そして、若さが離別を齎す。黒い正方形、スプレマティズム……。
デッサンが描かれては破られる。繰り返される駄作の山が、堆く、歩む先に現れた。何度とない試行錯誤が、諦念を育てた。どこからか紙切れが集まり、一人の女性となった。微かにだが、初恋の相手に似ていた。
時の空虚は懐古の内に胚胎する。人生のやりくりが赤字としか思えない時、人は時を残酷に感じる。鈍重な足取りで枝を折りつつ進んだ。レクイエムの香りがした。樒が光もなく燃えている。
生来の性か、忘れたくないことほど霞に紛れ、捨て去りたいものほど細胞に染みた。インクがスプラッタのように体へ降りかかった。それは頑迷な赤いシミとなって、決して取り除けない。
人生は幸福の影を味わうことである。そう知ってしまえば、なんとも徒労だ。だからこそ、人は影を本物にすり替えるのだ。
雲を掴むような思案が、つらつらと口から滑り落ちた。嫌な、鬱積した記憶が、寸刻前に味わったが如く立ち現れた。ぼんやりとしているのに、不快と分かる、不可解な感じだ。
厭だ、厭だ。夢の中でさえ苦行の戯れなんて。
頭を振り、くだらぬ想起をどこかへ放擲しようと試みた。忘れてしまいたかった。だが、どんな林檎にも芯はある。そして、愉楽よりは苦痛を記憶しやすいのだ。進化の帰結の一つだろう。
忘れたい。そう思った瞬間に、はたと体が重くなる。心に肉体は締め付けられる。夢の世界ならば、さもありなんか……。鉛の足を引きずりながら、変わってしまった感覚に溜息をこぼした。
女を背負っている。恐らくは三十四、五。確かに妻である。ただ変なことに、目が潰れて、血が滴っている。髪さえ紅い。いつ目が潰れたのか聞くと、あなたと会ってからねと白々しく答えた。若々しい声だが、老婆のように粘着質だった。
そうか、そうだったか……。
記憶の幕が少しずつ上がった。映写機の回る音。器量のあまりよくない、さりとて醜いとまでは言えない女の顔が映される。これが妻だった。
初恋の女とは、似ても似つかない見た目だったが、男勝りな所やその所作が少し似ていた。一瞬、彼女に過去の彩を見た。細い糸が木々から垂れ、命綱のようだった。交尾する蜘蛛がメスに頭から食われている。出会った時はもう三十であり、未来に期待などなかった。諦めの中、微かな希望に縋った。
結婚生活は、さして覚えていない。腹の辺りから本が崩れ落ちた。ページにはロールシャッハの模様。夫婦の美点をもう一つだけ思い出した。干渉しないことが、お互いの長所だった。
背中の重さが一段と増した。足が柔らかな地面に食い込み、漫画のようだなと思った。いつの間にか山に入っていた。樹木は一層、濃密になり、どこからか小川の歌が聞こえた。
瀬戸物の兵士が二人、刀を構えて戦っている。切り合うたび罅ができ、それが金で継がれた。だが、それも長くはできない。修復には高い労力が必要だからだ。
妻との関係は緩やかに崩れていった。初恋の想いを捨てられず、けれども、微かな痕跡を妻に見出すたび、想像と異なって愕然とした。
涸れた泉を探しても、どうにもならない。しかし、アヘンの粉が芬々と臭った。
瀬戸物の兵隊が粉微塵になる。
同時に、妻の手がそろりと首にかかった。爪は剥がれ、赤が滲んでいる。頸に血の流れを感じた。眼窩から未だに死が滴っている。
生温い重圧が段々と強まる。しかし、足は止まらなかった。一歩踏み出せば、靴が地面に沈む。それを苦労して引き上げる。その繰り返しで、森の奥へ歩んでいく。
どこからか海鳴りが聞えた。波の音は自らの声になり、ゆっくりと質問に答え始めた。
「そうなんです、もう、妻を見るのも嫌になっていたんです。ですから、離婚を申し込みました。でも、断られた。不思議でしょう。慰謝料は払う、不便を感じない額を払う、そう言っても頑として聞かないんですよ。大した男でもないのに、なぜ、こだわるのか。早く別れた方が、妻も幸せでしょうにね。別の人を見つけた方がいいに決まっている。まったく、彼女の真意は今もってよく分かりませんよ。ですがね、きっぱり断られて、水掛け論になって、それで、ハッキリと分かりましたね。殺す他には自由になれないと」
妻の手がこの首を絞め始めた。奇妙に息苦しい。夢の中では痛みを感じないのではなかったか。気道が詰まり、呼吸が荒くなる。それでも立ち止まらなかった。緩々とした歩みながら、前に進んでいた。
私を飲んでと書かれた酒瓶、あるいは、私を食べてと書かれた毒々しいケーキ。ガラスの上にはそれら二つが重なり合いながら置かれている。そのどちらが、殺意の紋章だったのか、もう、よく分からなくなっていた。ただ、並んで置かれた目玉と心臓は間違いなく妻のものだった。眼球を抉ったのはなぜだったのか。見られているのが怖かったからか。
死体は適当な山に埋めた。野犬が掘り起こすかもしれないが、どうでも良かった。自由になった喜びの前では、何もかも無価値である。
そうして、初恋と向き合う日々に戻ることができた。やはり、一時の感情で理想を捨てるべきではなかった。
足跡を残しながら、先へ先へ進んでいく。どこに着くかも分からない。もしかしたら、ゴールはないのかもしれない。
妻の首がゆっくりと迫り出してきた。後ろから突き出しているのだろう。首は伸びに伸び、やがて目の前に現れた。眼窩の穴と目があった。髪はボロボロで、肉は腐り、ところどころ削げている。その奥に乳白色の骸骨が見えた。
ああ、更に醜くなったものだ。そう思った時に、膝から崩れ落ちた。地面に転がり、動けなくなる。不審に思っていると、四肢が骨となって砕けていた。
髪が引っ張られる。頭がゆっくりと引き上げられる。妻の顔が再び視界に入った。今度は完全なしゃれこうべになっていた。彼女はカチカチと歯を鳴らしていた。交響曲のように激しく、長い叩打。カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ……やがて、リズムが止まる。声が絞られる。生前のままの危うい色。
……お前は、なぜ生きている?
「えーと、それで、確認なんですけれど、そういう夢を見たので、こちらに出頭されたと、そういうこと、でしたよね?」
「はい、そうです」
何度目か分からない確認に、いつも通りの答えを返した。
殺風景な、取調室と言われるところにいた。目の前には背広の刑事が一人と、紺色の制服を着た書記が一人いる。二人共健康的な、浅黒い肌をしていた。刑事はどこか呆れたような、微妙な笑みを浮かべ、書記は手を止めていた。殺人という、とんでもない罪業を聞いたにしては反応が鈍かった。弛緩した空気が流れていた。事件に慣れてしまうと、人はこうなってしまうのだろうか。
「それで、奥様の死体は、えーと、K山の山道から、少し離れた、獣道みたいなところに埋めたと、そうでしたね?」
「ええ、その通りです。動物が掘り出して、食い荒らしてなければ、腐った妻が見つかるはずです」
陰鬱にそう言うと、多少ながら体が軽くなった。夢で感じていたのは良心の呵責の重さだった。錨のように体に吸い付く亡骸。あれは、妻の怨念ではなかった。殺人者の罪だった。
懺悔を終えたとは言え、なお、激しく心臓は暴れた。胸に手を当て、深呼吸する。ああ、心が苦しい。早く、裁判になって欲しい。裁いてくれ、裁いてくれ! 夢を見たあの日から、地底からの苦悶が止まらなかった。
二人の警察官は「いかさま師」のように思わせぶりに目配せし合っている。眉を顰めつつも、微かに笑みを溢している。何か、困ったような表情だ。まるで、クレーマーの相手でもしているといった……。どうしたというのだろう? 人が一人死んでいるんだぞ。心が歯ぎしりを始める。暗澹が跳ね回った。陶製の湯飲みを手に取り、荒くれ者のように茶を干した。
「あの、すみません」
「はい? なんでしょうか?」
「差し出がましいようですが、人が一人死んでいるわけなんです。殺したのはこの私。この私が殺したんですよ? 目の前には殺人犯がいるんです。それなのに、なんというか……いえ、構いません、とにかく、妻の死体を早く掘り出してくれませんか? 夢の中で恨み言を言われるのはもううんざりなんです」
今や眠る度にあの夢を見ていた。妻の暴力は、回を重ねる毎にひどくなった。苦しかった。頭上に剣がぶら下がっているようだ。細い、細い糸で。早く、悪夢から解放されたい。そのためには、裁きを受けるしかないのだ。だというのに、警察は、田舎の鉄道旅のように暢気だった。人を殺すことの重要さが分かっていないのか。面には出さなかったが、内では不平不満が森のように繁茂していた。
話を聞いていた方が、やりきれない表情をしながら、溜息をついた。これ見よがしといった態度で、いたくイライラさせられた。碌に捜査もせずに、なぜ、そんな態度が取れる?
「それは、ええ、実に大変だと、お気持ちを理解いたしますが、しますがねえ……」
「何ですか? 歯切れの悪い」
「いえ、あの……」
刑事は言葉を切った。明後日の方向をしばらく見つめ、それで決意が固まったのか、気怠そうに口を開いた。
「あの、ですね、えーと、あなたの仰った通りに、我々も捜査をしたのですがね、あの、そのお、言いにくいのですが、死体なんて見つからなかったんですよ」
「はい?」
「ですから、死体は発見されなかったんです」
「嘘だ!」
思わず、絶叫を放った。立ち上がり、その勢いで椅子が倒れた。耳を殴りつける、海鳴りのような轟き。
「そんなはずはありません! 確かに、確かに、妻を埋めたんです! もっと、よく探してください。もっと、よく……あっ、もしかしたら、記憶違いをしていたのかもしれません。もしかしたら、言っていたのと違う場所に……それなら、それなら、私をK山に連れて行ってください。現場を見れば、正しい場所が分かるかも……」
「落ち着いて! 落ち着いてください!」
警官は宥めながら立ち上がった。椅子に座るよう、冷静に促す。氷をかけられたように興奮が引き、怜悧となった。何か話があるのだろう。そう思って座り直す。椅子のキャスターが金属の擦れる音を出した。警察官は疲れの見える瞳で続けた。
「いいですか? 以前も申し上げましたけれど、あなたの仰る通りにK山は探索しました。勿論、念のため、言われた箇所以外も、広く捜索したんです。ですが、何かを埋めた跡は全く見つかりませんでした。いいですか? 見つからなかったんです」
「そんな、馬鹿な」
「いいえ、事実です。更に言えば、あなたの奥さんですがね、その方というのは、実在していませんでしたよ」
「……はあ?」
あまりの理不尽に、素っ頓狂な声が出てしまった。突如としてケイオスが全てをひっくり返す。妻が、いない? 記憶の写真が一斉に色を失った。ガラスのように透明だった。
「お気持ちは分かります。分かりますが、事実なんです。そもそも、あなたに婚姻歴はありません。誰かと戸籍を作ったことはないんです。あなたの部屋も捜査しましたが、女ものの服やら、化粧品やらは出てきませんでしたよ? 率直に言って、女性が一緒に住んでいるとは思えませんでした」
警官は種々の報告をまくしたてた。怪物を説き伏せる、オルフェウスのような言いぶりだった。
脳の上に大きな梵鐘が落ちる。青銅の鳴り響く音、その重力、衝撃が意識を、知覚を揺さぶった。世界が波打ち、渦を巻き始める。
妻のいた形跡がない。
冗談としか思えない情報だった。子供だってもっとましな嘘をつく。しかし、洒落を言っている調子ではなかった。寧ろ、隠し事を開陳した時の、重荷を下ろした安堵感が見出された。
「……それ、って、どういう」
予想だにしない言葉に、意識は前後不覚の状態にとなっていた。霧の粒子がどこからか立ち昇り、全身を隠そうとした。手を握り直す。現実を、事実を知らなければならない。その一心で、脆いかすれ声を絞り出した。
警察官は渋面になった。それから、躊躇いつつも、答えを返した。
「申し上げにくいんですが、恐らくは、夢を見られていたのではないかと。現実と見まがうような、ほら、疑似体験という奴ですよ……」
最後の方は小さすぎて聞き取れなかった。蝸牛が聞くことを拒んだのだった。
衝撃は散弾のように腹を射抜いた。死の痛みがはらわたで行進した。自我がふらふらする。幻、幻、幻だって? 蛤の口から漏れ出す霞の城。砂抜きまでしたというのに、いざ開いてみると中身が入っていない。そういった貝を思い出した。何個開けても、洞のままだ。
混迷していた。そもそも警官の言葉が信じられなかった。
妻がいない。
何とも曖昧な回答だった。きっと、死体が見つからなくて嘘をついているのだろう。戸籍というのも、誤魔化しに過ぎないはずだ。
そう頭の中で反論したが、心の隅では、妻の不在を受け入れている自分がいる。そう仮定すれば、何もかもに筋が通る気がするのだ。無味乾燥ゆえに結婚生活を覚えていなかったのではない、そもそも存在しなかったのである。結婚という一大行事について、何も覚えていないなど、そちらの方が不自然だ……。
警官たちが何かしゃべりかけている。だが、口が動くだけで、音は聞こえない。全てが無音の、静謐な世界がここにはあった。白熱電球に頭が痛い。今までの記憶も人生も、全てが零と知り、果てなく落下し続けている気分だった。無は、徒事よりずっと質が悪い。
「ですから、ひとまず、病院にいかれた方がいいのではないかと……」
アンテナ不良のラジオがたまたま電波を拾ったように、警官の親身な言葉が脳へ届いた。病院、か。薬瓶に封じられた液体。確かにそうすべきかもしれない。警官の口ぶりから、きっと何度も彼らに面倒をかけたのだろう。これ以上はあまりに恥だ。
辛苦に苛まされながらも、これが和らぐならと、先の道筋を決めた。体は気怠いが、それも含めて診てもらうほかないだろう。そのように考えた、丁度その時、ドンドンドンドンドンドンドンドン! と入り口をドラムのようにノックする音が聞こえた。激しさに体ががたつき、警官達が呆けた表情を浮かべる。なんだ? なんだ! そう叫び出す前に、耳馴染んだ声が閃いた。
「あなた、開けて! お願いだから、開けてちょうだい!」
「え?」
「あなた、どうか、開けて! 開けて!」
驚きが喉を潰す。沈黙の中、懇願するような声が、部屋中で反響していた。開けて、くれ? いや、肝心なのはそちらではない。声の方だ。あの、上滑った、ハイエナに似た声。あれは、間違いなく妻の声だった。
馬鹿な、妻は存在しない、存在しないはずだ。ならば、あれはなんだ? あの声、「開けて!」と繰り返すあの声は。
慌てて警官の方を見た。彼らは何の反応も示していなかった。先と同じ態度で帰宅するよう促している。どうやら、聞こえていないようだった。
「あなた! 聞こえてる? お願い、開けて、開けて!」
再び、妻の絞ったような声がする。ノックは激しさを増し、魂を震わすほど荒々しくなった。扉が軋んだ。室内には静寂が吹き荒れている。蝶が一羽、ジグザグに飛んだ。
妻はいない。結婚などしていない。だが、それを認めたくない心が、こんなものを見せている。絶叫と金属扉。サイレンの音が不意に聞こえ、赤い光が連想される。妙に実感と質量がある声ではあった。そう考えて頭を振った。いや、何を考えている。その時、妻の記憶が滲み出してきた。誕生石のエメラルドをあしらった結婚指輪。新婚旅行では赤目四十八滝を見た。妻は車谷長吉が好きなのだと楽しそうだったが、滝を巡って歩くのは随分と疲れたものだった。初恋の女の幻影。過去への浮気は妻をより女にして……山の音。
うんざりした気分で、スチール机に視線を落とした。赤錆のような汚れがあった。見れば、深く氷裂紋の刻まれた淡い青の広がりが、机を呑んで広がった。飛青磁の荒く、優しい映像。どこからか手錠の雨が降り、窓の外でキンキンと鳴る。騒々しい。騒々しい、その音色の間隙に、警官の、理知的で明晰な言葉が鼓膜に届く。乱麻断つ刀の鋭さが、心に絡む蔦を切り裂いた。ああ、と嘆息。重みに体が沈み込むようだ。青磁は海原のように、今度は安寧の重力が、体を、体を……。よかった、これで何もかも……。一筋、雷電が鼓膜を走る。心臓が不穏な予感を告げた。
「それでですね、これ以上、我々としましても、捜ジジ査を続けるのは難しいわけでして、さっきもお話ジジししましたが、ジやはり、一度、病院にいかれた方がよジろしいかと思います。ジジジジ何も、追い返そうというのではなくてですね、事実として、ジジ奥様はいジジらっしゃらなジジいわけですし……」
申し訳なさそうな声音だが、厄介者を追い返したい欲望は隠せていなかった。その証拠に、声にはところどころノイズが走っている。電線の切れ端から、ジジと火花が散るような、耳障りな音。しかし、まあ、仕方ない。自分でも分かっているのだ、明らかに邪魔になっていると。病院に行くのもやぶさかではない。だから、ここで失敬しよう。言うべき内容をまとめると、沼に落ち込んでいた手を引き抜き、ゆるり顔を上げた。上へ向かっていく視線の時々に、レーズンのついた小さなケーキが見えた。そうだ、そろそろ食べ頃だ。
「分かりました。助言のとお……」
台本は最後まで辿られなかった。ノックの音、妻の叫び声、これらは依然、五月蠅いまま。恰も現実のよう、確かな世界のようだ。それと対立するは、整然とした警官の視線。目玉は消えて穴となり、髪は長く手入れをしなかったが如く傷んでいた。全身は腐乱し、ところどころ削げ落ちる。抉れた肉の奥から乳白色の暗い骨が見えた。




