表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/19

不調

 今年の夏は例年にない突き刺すような猛暑で、日射の激烈さは戸外で数分過ごすだけでも、神経を断裂させるに十分すぎる程であった。アスファルトには陽炎が立ち、その朧な熱気は、世界を溶け出したガラスのように曖昧に見せているが、眼球の方も沸騰間近の涙に害され、物を屈折させてしまうゆえ、凡ゆる物は二重に歪曲し、アリスも驚嘆のワンダーランドが現出していた。つまりは、空気全体がカンカンと燃焼しているのであり、拷問染みた暑気は壁を隔ててなお、猛然と内へと攻め入って来る。日本のどこにいようとも逃れられぬ、吐くほどの凄惨な熱波。そのストレスたるや如何ともしがたく、最近、室内に様々な毛の散乱することが増えたが、それというのも抜け毛が増えたからに相違ない。ただでさえ年のせいか毛根に元気がないというのに、全く困ったものだ。これほどの獰猛なる日々に対峙する内、昔、唐土にいたという魃なる、人面獣身、手足一つにして野分の如く疾駆する妖怪のことが自ずと想起され、どうやら往昔の物の怪ながら、二十一世紀でも絶滅していないのだなと変に納得してしまう。いや寧ろ、現代こそが最盛期と言えるだろうか。子供の折節に、これほどの焦熱はなく、少なくとも朝晩はまだ過ごしやすい気候であったが、当世となっては二十四時間、夏の猛将に休息の二字はない。夏は夜などと言えていた古の方が、天候の面で言えば、よっぽど暮らしやすかったろう。無論、だからと言って、科学未発達の蒙たる時代に今更、戻ってみたいとは思うまいが。

 何にせよ、炎暑烈日である。動かずとも息苦しく汗が湧出する季節であれば、文明の利器なくして一時間と生きることも難しい。そのため、ひねもすエアコンに勤労奉仕を強いているわけだが、やはり連日の出勤となれば機械にも疲労はたまるようで、何やら最近、エアコンの調子が悪い。冷風の効きが悪く、どれだけ動かしても涼しくならぬどころか、挙句には強制停止のストライキまで行う始末である。事前通知なしの罷業などあってよいものかと胸中で不満が鳴り止まぬが、体調不良であれば強くも出れない。とは言え、近来の気温を扇風機や団扇のみでやり過ごすのは、全く現実的ではないゆえ、業者に修理を依頼し、それでダメなら買い替えることに相決めた。

 しかし、どうやら病休に入っているエアコンは我が家一台に留まらぬようで、電話して相談しても、すぐには来られぬとのこと。予約日まで三日は今や全国の必需品となった唯一の3Cを欠いた状態で生活せねばならぬ。修理の手間も鑑みれば、最悪一週間は我慢のし通しが必要となるやもしれない。はてどうしたものか。日中は勤め先の大学にいるからいいものの、問題は就寝時で、流石に無策では熱中症とならざるを得ない。ううむ、と頭を捻りながら一先ずは涼みがてら本の崖に迫られる研究室へ出て行ったのだが、空調のスイッチを入れても悶絶する暑さは一向に消失することなく、どころか時を積層するごとに温度が増している。これは流石におかしいと事務に内線で尋ねたところ、設備の故障で全館、空調が止まっているとの回答。今朝、メールで連絡したと言われて確認すると、うむ、確かに通達がある。こちらの不手際に詫びを入れてから電話を切ると、どっと疲労、苦痛が押し寄せて来た。冷涼なる環境を期待していただけに失望も大きいのである。夏休みに入ったことであるし、部屋に散らばった論文やら資料やらを整理しようと思っていたのだが、エアコンが復旧するまではよした方がよさそうだ。とは言え、床に散らばる野獣じみた毛髪の数々は何やら恐怖映画染みておどろおどろしく、流石に堪忍ならぬため、汗をかきつつも、それらだけは掃除しておいた。

 何にせよ、これではとても仕事にならぬからと場所を選ばぬ裁量労働のメリットを活かし、図書館で作業をしようと思ったが、大学図書館は折り悪く書庫整理の休館日に当たっており、自動扉は冷然と閉ざされていた。さればと府の図書館に行くこととしたが、たまさか乗ったバスも、犇めき合った人々で暑いことこの上なく、誰のものとも知れぬ毛や汗が口に入った時には不快の絶頂に達してしまった。しかし、それほどの労を割いて訪れた図書館もエアコンがきいてなく、こちらも調子が悪いとのこと。この段になってエアコンの付喪神なるものが、手を取り合って一斉にストを起したのではないか、人間に抗議をしているのではないかとあらぬ妄想が掻き立てられたが、それを創作に仕立てるには夏があまりに酷く、文章を練る活力は出ない。

 肩を落として図書館を出ると、突如スマホが振動を始めた。何かと思って見ればエアコン業者からの報で、予約のキャンセルが出たこと及び今近くにいることを知らせた上で、一時間後にはエアコンを見に来れるがどうかと相談をして来た。地獄に仏とはまさしくこのことで、一も二もなく諾と答えると、急いで小さき我がアパートへ駆け戻った。家は依然として暑かったが、これもあと僅かで終わると思えば、耐えられないこともなく、生温い風を扇風機でかき混ぜながら、サンタクロースを待つ幼児の心持ちで業者が到来するのを指折り数えて待っていた。それから二十数分ほど後、玄関の呼び鈴が福音のごとく響き渡ると、待ちに待った修理業者が二人組でやって来た。挨拶、愛想笑いもそこそこに、件のエアコンへ案内あないすると、彼らは脚立に乗って外観を少し見てから、中を確認したいと電源を落とし、エアコンの前面パネルを開陳した。

「うげっ」

「なんだ?」

 内部機構に目をやった二人がほぼ同時に怪訝な声を上げた。なんだ? 汚すぎて引いてしまったのだろうか? 百戦錬磨のプロが顔を顰める程の汚れとはどんなものかと、思わず赤面してしまったと同時に、仮令そうだとしても客の前で露骨に態度に出すのはいかがなものかと憤然とした気分にもなっていた。彼らはこちらをチラリと見ながら二人で何やら相談をしていたが、このまま見て見ぬ振りもできぬとなったのか、年上の方が申し訳なさそうに話しかけて来る。

「あの、すみません、お客様、このエアコンのことなのですが……」

「はい、何でしょうか?」

「ええと、ですね、えー、何て言ったらいいのかな……」

「何か、おかしなところでもありましたか?」

「……ええまあ、おかしいと言えばそうなんですが……そうですね、とりあえずこちらに来て見ていただいてもいいですか?」

 若い方が促されて脚立を降り、空いたスペースに足掛けてエアコンの中身へ目を配ると、

「うわっ」

と意図せざる蛙のような声が漏れた。何かの見間違いだろうかと目を擦り、改めて見直してみたが、残念なことに、それは確かな現実として歴然と鎮座していた。

「……多分ですが、これが不調の原因だと思うんです。なので、掃除すれば、エアコンも動くようになるとは思うんですけれど……」

 つっかえつっかえな物言いで年上の業者が言ったが、正直、それに答えていられるほどの心の余裕は持ち合わせておらず、ただ、この突拍子もない奇妙に目を剝くしかできずにいた。

 視界に収まる限り、エアコンにぎっしりと、髪の毛が絡みついていた。硬質で、野趣のあるその毛は、どこか獣らしい性質を備え、積年の宿敵を捉えたが如く、フィルターから何から、エアコンのあらゆるところにまとわりついていた。風に吹かれるか何かして、時折、よどよどと蠢くさまは酷く不気味で、まるでその毛自体が生きているかのように思えるのだった。

 想像だにしない光景に言葉を失い、唖然としてしまったが、それも過ぎると、今度はこんなものがここにあることへの嘔吐感がわらわらと腹中より湧きいだし、一刻も早く異物を排除したい気持ちで脳内は一杯になった。

「それで、どうなされますか? ……このまま、掃除、いたしましょうか?」

 穏やかな口ぶりだったが、厭悪の情を押し殺しているのは見え見えだった。若い方の反応はより淡白で、面白がっている風に見えたが、ぞれでも掃除するのはごめんだというのは窺えた。勿論、こちらとしても願い下げである。引き取ってもらい、新しいものを買うこととしよう、そう決意し、その旨を伝えようとした、丁度、その時、

「言っとくけど、それじゃ終わらないから」

と、どこからか、低い、吠えるような声が聞えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ