龍を見た男
李文礼は長江南部にて名を知られし地主の長子だった。李家は数町に渡る田畑を擁し、進士を何人も輩出した形勢戸だった。父は厳格にして家名と体面を重んじ、慈悲深き母は息子達の天稟を信じて疑わない。文礼には弟が一人おり、名を文靖と言った。利発な弟は、知恵者の兄に敬意を抱いていたが、同時に将来を不安にも思っていた。父母は親の贔屓目故、気付かずにいたが、文礼には彼岸と此岸をさ迷い歩いているような、精神胡乱なところがあったのである。
幼き日の文礼は、病熱に浮かされし折、暗闇の淵で龍を夢に見た。灼熱の霧に包まれた世界で硝子色に煌めく川に沿って歩いていた。どこかを目指し、彷徨していると、突如、朧の幕に巨大な陰が映った。起きていてれば顔面蒼白となり、一目散に逃げ去ること必定であった。されど、夢中なれば不思議と恐怖の湧出なく、文礼は確かな足取りで陰へと向かった。どれだけ歩いても大きさは変わらなかった。永遠に事の本源を見定められぬと感じられた。文礼は疲労に諦めかけた。その時、ふと、そろそろ正体が分かる頃だろうと思った。忽然、霧が晴れ、龍が姿を現した。影がそのまま光に変わった印象だった。眼は琥珀、鱗は蒼玉、爪は金剛。類稀なる壮麗さは天の王に相応しく威風堂々とせる。そは紛れもない幻であった。龍を前にした文礼は自らが夢中にあると知っていた。所謂明晰夢であった。しかれど、太陽のように疑弐し得ぬ実態を持っていることも確かであった。文礼は己が身が蝶と変わっていることに気付いた。そして、この時空の意味を頓悟した。龍の瞳が文礼を見据えた、と彼は感じた。その燦然たる居姿は胸に深く刻まれ、忘れられぬ何ぞの証となった。恍惚とした涙が視界を塞いだ。感銘の内に文礼は目を覚ました。あれは夢だった。何度確かめてもそれは揺るがない。けれど、文礼はあの龍が実在すると確信していた。以後、龍の影は離れることなく付き纏うようになった。
文礼は書を愛し、学に耽るようになった。齢にして五歳に満たなかった。龍と再会すべく、数え切れぬ書物を閲読し、若くして県下随一の賢者となった。人は神童と誉めそやした。久方ぶりに進士が出ると期待が高まった。二代に渡って科挙に落ち続けていたのである。父は自らが叶わなかった夢を息子に託し、熱心に勉学を手助けした。母も格別の配慮を注いだ。兄が書物にのめり込めばのめり込むほど、文靖は頻繁に兄へかかずらうようになった。兄への憧れと愛情は確かにあったが、それだけではなかった。文字が兄の体を這い回り、いずれ魂を飲み込みそうに感じたのである。しかし、文礼は何事にも関心を向けなかった。父母は勉学に集中していると、特に気に留めなかった。文靖は寂寞と不安を覚える。彼もまた兄のように読書に没頭するようになった。彼を理解し、その隣に立ちたいと願ったのだ。兄の足跡を追う内、彼の奮励が、立身出世や親孝行のためでないことは判明した。だが、志怪小説や伝説伝承に興味があるとは分かっても、本当の目的は分からなかった。李家では、兄弟揃っての合格が熱望されるようになった。
適齢期を迎えた文礼は州試を受験し、第一席で通過した。省試・殿試も難なく合格した。席次は探花。順風満帆だった。官吏に登用された文礼は、熱烈な歓迎を以って郷里に迎えられ、祝いの宴は、五日間、休みなく続けられた。収穫の祭りをも凌ぐ程だった。ある時、文靖は兄の部屋を訪ねた。兄程ではないが十分に秀才だった文靖は、二度目の受験で州試に合格していた。弟は兄をまじまじと見つめて驚愕した。文礼の影が希薄になっていたのである。薄墨よりもなお淡い。しかし、気力は今までになく満ち溢れていた。弟は慄然とし、同時に言い知れぬ嫉妬を抱いた。何があったか尋ねたが、芳しい答えは得られなかった。兄は誰と話しているのかあまり分かっていないらしかった。暫くして、「おお、文靖。久しいなあ、お前は昔と変わらず愛らしいままだなあ」と文靖の頭を童のように撫でた。文靖は、不審に思いながらも、今後の方途を問うた。文礼は酩酊したように幻覚染みた事柄を語り始めた。独白のようだった。前後不覚な物言いに詰問したい気持ちが沸き上がった。しかし、努めて抑制的に文靖は傾聴した。文礼は赴任先が望み通りになったことを喜んでいた。探花なれば、合格後の進路は相当に融通がきく。にも拘らず、彼はとある僻地を希望した。他の官吏は眉を顰めた。文礼は言う、そこには天地の王が真と共に座している、と。文靖は兄の望みを察し、冥府へ自ら転げ落ちるようなものだと悲痛に述べた。赴任先を変えるよう忠言した。しかし、無駄だった。文礼は、光だけが灯る瞳で弟を見据え、静かに首を振った。
「この世は夢幻、いや、それよりももっと酷い。いいか、文靖。この世は嘘偽りであり、全ては影に過ぎない。世界は天上、洞穴、夢想の三つから出来上がっている。それらは天地が一連なりであるように繋がっている。天上は光であり、その光が作り出す影こそが洞穴、我等の此岸だ。しかれども魂は此岸と天上の狭間にある。胡蝶の虚、夢幻の世界である。夢幻を漂う魂は、洞穴に吸い込まれて地上に、体に落ちて、人となる。死して器が消えれば縛るのものがなくなり、夢幻へ還ることができるのだ。皆、本当は天上を目指している。しかし、空は高く、遠いのだ。だから地上で空を舞う術と力を手に入れる。これが輪廻転生である。だが、夢の世界は天上と繋がっている。ゆえに、時折、天と相通じることがある。私は幼少の頃にそれを味わった。そうだ、龍を知ったのだ。この世は影。本物の幸いは別にある。龍を見た以上、虚像で満足することはできない。真の幸いを求めざるを得ないのだ」
文礼の言葉は非常に滑らかだった。軽佻とし、冗談のように聞こえるが、その奥底には動かし難い確信が潜んでいた。文靖は圧倒された。兄の言葉が鉛のように骨肉を縛り付けた。しかれども、文靖にとって彼の言葉は信じるに能わなかった。龍を見る事、一度とてなかったからだ。文靖は再び兄を引き留めた。天に昇るには早過ぎる、と。文礼は寂しそうに頭を振った。やはり、分かってもらえなかったか。そう呟いた。文靖は唇を嚙み締めた。
文礼は、翌日、任地へ発った。三年の間、便りはなかった。その間に文靖は省試に落ちた。帝都より文礼が行方不明になったと報が来た。長江を渡る中途、船が嵐に襲われたのだという。残骸死骸は数多打ち上げられたが、文礼は見出されなかった。官吏に登用されたばかりであり、一族の者は驚愕した。父母は号泣したが、文礼は必ず見つかると信じていた。文靖は省試に合格し、残すところ殿試だけとなった。彼は兄が戻ってこないと分かっていた。龍の夢を見なかったことを幸いと思っていた。おかげで出世を果たし、親に報いることができる。恐らく子も孫も見られるだろう。将来は、眩い期待に、光輝に満ちていた。龍など見るものではない。そう思いつつ、兄の言葉は忘れられなかった。
この世は影。本物の幸いは別にある。
その言葉は腫瘍となって脳髄に残った。今でも思う。兄と共に行っていたら、と。
文靖は殿試に合格した。しかし、名のある席次には至らなかった。兄のような天賦の才は持ち得なかった。されど、そのために人生は凪の如くであった。選人として地方に務めた後、中央にて幾つか職を歴任した。暫くすると、再び地方を任された。その間に、婚姻も果たした。父と縁のある官戸の令嬢であった。李家同様、代々進士を輩出した門閥である。妻は、聡明強記なれど、容姿は凡庸で、温情に欠けるところがあった。特権意識を隠すことなく露わにしていた。ゆえに佃戸だけでなく、付き合いのある商人とも度々軋轢を生じた。生来柔和な文靖は、人々を宥め、関係維持に奔走した。中央に戻された文靖は数年を経て官界を退き、領地経営に専念した。進士の内では十人並みで、野心もなかったが、それゆえ政争に巻き込まれず、穏和な人脈を築いた。文靖は詩作を趣味とし、士人達と交わった。子を五人授かったが、成人したのは三人のみだった。初子は夭折し、喉が灼けるまで、妻は哭泣した。馴染みの道士が、人品改めねば次子も同じ末路を辿る、と占った。それを機に多少は改まったが、若干の刺々しさはなお残った。二人の男児は共に凡夫で、科挙に落ち続けたが、好機ありて官職を得られた。宰執は望むべくもなかったが、それなりに裕福に暮らした。娘は人の羨む結婚をし、母以上の子宝に恵まれた。正月には多くの縁戚が家に集まる。孫は勿論、長命だった文靖は曾孫の顔も拝むことができた。気づけば、人生は晩秋を迎えていた。
黒雲が張り詰めるような闇。四海遍く暗きに沈み、一点たりとも白はない。その中にて兄、文礼は恍惚と、されど荒涼ともした色を浮かべ、漂っている。兄は真理、絶対を見つけたのだろうか。長江の嵐にて自ら消失し、彼岸の超越を目指せし兄は、かの龍にまた見えたのだろうか。瞳に朧なる影が揺らめいた。黒の闇に映じられながら、不思議と鮮明に知覚できる流体。神経過敏となり、やがて視界がここそこを判別能うようになると、威容持てる龍の姿が慄然と光を放った。鱗は踊る青海波、瞳の煌めき明星を凌ぎ、牙は白刃雪より眩しき。声なき猛りが静かに溢れ、突き刺す神威がいと激しい。指先まで石に変わり、動脈静脈、化石と固まる。龍の背にある兄は目鼻口耳いずれも能面だった。月にあるが如く浮かぶ、体、精神で兄を見据えた。しかし、思惟する姿に人らしき印象は豪も抱かれない。ああ、兄上、李文礼よ。求めし龍はあなたの願いを叶えたか。教えてくれ、その瞳にあるは幸いなるか悔やみなるかを。龍は唸り、吠えた。世界に波紋が立った。雷が弾け、火花が煌めく。豪雨が空間を覆い、雲が八方より噴出した。白が全てを幕の向こうに収めていく。兄上。喉仏は震えない。兄上。舌は痙攣、空気も零れず。兄上。消えゆく容貌、再び凝視。唇に微笑が、苦悶が浮かんだ。知恵は果てない。それを探るは愉悦か、哀惜か。兄よ。手を伸ばし、引き戻さんとするも、その爪が龍を越え、手首に届こうとした瞬間、文靖は世界の向こうへ弾き出された。
頭は降雪に似て、皺は枯木を彷彿とさせる。夏のため窓は開け放してあり、満月が静謐に光っていた。龍の眼も兄の面も、丁度、月のように移り気で、銀白色の文様は幾多に変異した。真理とは多面的である。文靖はそう思い、すぐ打ち消した。多面的なのは我々の方だ。文靖は起き上がって水を飲もうとした。しかし、体の節々が痛んだ。もう、一人では立ち上がれなかった。邸宅の一部屋に文靖は独りで床を延べている。息子夫婦も孫達も別所にいる。文靖は人生の冬を迎えしこと、間もなく雪原の上に散ることを直感していた。冴えてしまった意識は長くも短い境涯を想った。それは幸福な道行きだった。若くして科挙に受かり、やや難はあったが申し分のない妻を迎え、子孫に恵まれた。病気一つせず、苦しみ少ないまま命は萎れつつある。不満などあろうはずがない。しかれど、一抹の後悔がないわけではなかった。太平の海を渡り来たからこそ、狂乱する空を飛んでもみたかった。終局を知悉するからこそ、不変の味を感じ取りたかったのだ。今になってようやく向き合うことのできる感情だった。兄と共に船に乗っていたならば。否、その他に転機はいくらもあった。真理に至れる可能性は自分にもあったやもしれぬ。兄に比べれば無才だった。それが穏当な生き方を選んだ理由だったのか。兄のことを、彼が見た龍のことを何度も夢に見、思い返す。誰もが忘れ去る中、自分だけが。もしかしたら、と再び仮定をし、目を閉じた。隔離された内なる空。広漠とした我だけの宇宙。もしかしたら、自分が兄になっていたのかもしれない。兄の顔が浮かぶ。ああ、よく似ている。恐らく根本は同じだったのだろう。けれど、兄は自分ではないのだ。
翌朝、文靖の死体が見つかった。形容し難い死に顔だった。




