第1章 穢れの村
朝霧がゆっくりと山間を流れていく。
鴉ノ杜村は今日も静かに、何事もなかったかのように朝を迎えていた。
けれど、村に流れるのは平穏などではない。
それは”均衡”だった。誰もが口には出さず、だが徹底して守り続けてきたもの。
「おはようございます、結菜様」
畑の前を通ると、村の婦人が深く頭を下げた。
その声は穏やかで優しい。だが、その背後には硬直した敬遠が滲んでいた。
相沢結菜は小さく微笑んで会釈を返す。
「おはようございます」
──近づきすぎてはならない。
誰もが無言のうちにそう心得ていた。
穢れた子には、敬意を。だが、触れてはならない。
それが村に伝わる掟だった。
(……私は穢れているから)
結菜自身も、それを当然だと受け入れていた。
この世に生を受けたときから、彼女は「呪われた子」として育てられてきた。
生まれつきの黒い紋様──穢れの印。身体の奥深くまで侵食し続けるそれが、結菜の運命を決定づけた。
誰も結菜を責めたり、罵倒したりはしない。
だが、誰も結菜を友として迎え入れる者もいなかった。
それは”当たり前”だった。村人たちにとっても、結菜自身にとっても。
──神罰を招かぬために。
村の掟は絶対だった。
村の外には穢れが満ちており、神に背けば滅びる。
神の意志に従えば、村は救われる。
幼い頃から、結菜も繰り返し教えられてきた。
「おはよう、相沢さん」
今度は同世代の青年が声をかけてきた。
結菜と同じ年頃のはずだが、やはりどこか距離のある笑顔だ。
「おはようございます、榊さん」
言葉を交わすのはほんの数秒。
それ以上は続かない。続けられない。
背後では、その様子を静かに伺う老婆たちの目が光っている。
──誰が見ているかわからない。
この村では、密告こそが正義だった。
教えに反する者がいれば、報告せよ。
誰かが逸脱すれば、村全体が神罰を受ける。そう刷り込まれている。
子供ですら監視者となる。
家族すら信用しきることはできない。
(私がもうすぐ二十歳になれば、すべては終わる)
結菜は静かに歩を進めた。
この先には神殿がある。毎日の日課、穢れの浄化祈祷だ。
生贄として捧げられるその日まで、結菜は清め続けねばならなかった。
神殿前の鳥居をくぐると、白装束の神官が出迎えた。
「結菜様、本日もお努めご苦労様です」
「……はい」
神官は無表情で、しかしどこか機械的に言葉を紡ぐ。
それがこの村の”優しさ”の形だった。
神殿の中はひんやりと冷たい。
社の奥へ進むたび、空気が重たく淀んでいく。
奥深く──封じられた存在が、脈動している気配を感じる。
(……神様)
結菜は幼い頃、一度だけ奥の封印部屋を見たことがあった。
蠢く肉の塊。無数の目。禍々しいそれを。
けれど、それすら「神の御姿」と教えられてきた。
「では──祈祷を」
神官の合図で、結菜は中央に正座し、掌を合わせた。
口にするのは教え込まれた祝詞。
意味など分からなくとも、口は自然に動く。思考する余地など最初からなかった。
『──穢れを鎮め給え。神の御心のままに。』
目を閉じれば、脳裏に浮かぶ。
あの、黒くぬるりと光る肉の塊。動く目玉たち。
その視線が、彼女の内側の穢れをじっと見つめる。
(私は、いずれ還る)
(私が捧げられれば──みんなが救われる)
そう、信じていた。いや──信じさせられていた。
祈祷が終わると、神官たちは無言で退出を促した。
誰も彼女に言葉をかけない。だが、それもまた優しさだった。
村の外れを通りかかった時、数人の男たちが大人しく並ぶ背中が見えた。
その前には村役の男たちと神官が立っている。
「……神罰の疑いあり。隔離処置とする」
淡々と読み上げる声。
家族を抱きしめようとする女を、無表情の村人たちが引き剥がす。
泣き叫ぶ子供の声が、山間に吸い込まれていく。
(……神罰……仕方のないこと)
結菜は、何の感情もなく視線を逸らした。
村の掟に背いた者は、神罰により神隠しにあう。
それがこの村の常識だった。
──今日も、鴉ノ杜村は平穏だった。
誰もがそう信じ続けていた。
(第1章 了)