#7
身体に、力が入らない。
ベッドから起き上がる気力も湧かない。
点けっぱなしのテレビが深夜のニュース番組を映している。
世紀の凶悪事件は被告人の死で幕を閉じました──。淡々としたアナウンサーの言葉とともに、炎上する護送車の映像が流れている。今日一日で何度、同じものを見ただろうか。インターネットの言論空間はお祭り騒ぎの様相を呈していた。社会正義が果たされた、彼女は市民の手で死刑になったのだといって。
【少し休めましたか?】
【向こう数日間は休養にしましょう】
【司法研修所には事情を説明してあります】
ぽろんと着信音が響いて、高瀬先生からのメッセージが立て続けに届いた。私はスマホを伏せ、ぐったりと上体を起こした。家に帰り着いてからの記憶はない。まだスーツも着たままだ。全焼した護送車から四名の遺体が発見され、桜野瑞喜の死亡が確認されたことも、テレビのニュースで知った。しわの寄ってしまったスーツを脱ぐと、ほのかに煙の臭いが残っている。あの子はこんな臭いの中で死んでいったのだと思いを馳せたら、ぼろぼろと涙があふれた。
瑞喜を助けられなかった。
あとほんのわずか、手が届かずに。
せめて最期までそばにいてあげたかった。彼女の背負った罪の痛みを、重みを、少しでもいいから受け止めてあげたかった。この世は信頼できない大人ばかりだと悲観しながら、あの子も炎の中で泣いたのだろうか。焼け焦げた遺体はもう何も語らない。桜野瑞喜は未来永劫、同級生を虐殺した凶悪犯として墓標に刻まれる。
あなたの味方なんか誰も引き受けない、なんて言わなければよかった。あのとき私が少しでも心を寄せていれば。あなたの心の拠りどころに私がなれていれば。──そんなこと、いまさら嘆いても何ひとつ取り返しはつかないのに。
「ごめんね」
傷んだスーツを抱きながら私は慟哭した。
「ごめんね……ごめんね……ごめんね……」
燻されたスーツのそこかしこに、無念に死んでいった人々の断末魔が染み込んでいる。新民は差別され、庶民は搾取され、清華族は袋叩きに遭う。絡み合う憎しみを土台にした社会の前で、私の信じた正義はあまりにも無力だった。息が詰まって身体の力が抜けて、ふたたびベッドに倒れながら、瑞喜に会いたいと一心に思った。罪を問いたいのでも、弁護の打ち合わせをしたいのでもない。ただ、せめて最後につまらないわだかまりを解いて、彼女を楽にしてあげたかった。
──目が覚めた。
自室のベッドのうえに私は横たわっていた。
壁際に司法試験の参考書が積み上がっている。よろよろとベッドを這い出して時計を見ると、そこには一年前の日付が映っている。それは、法科大学院を卒業したばかりの私が、来る司法試験に向けて勉強に励んでいた頃の日付だった。
思い通りに身体が動く。
部屋の隅の鏡には私の姿が映っている。
瑞喜はどうしているのだったかと懸命に考えて、思い当たった瞬間、衝動が頭頂から爪先まで突き抜けた。午後六時を回ろうとしている時計をもういちど一瞥し、私は大慌てで靴を引っ掛け、玄関を飛び出した。
今日は桜野瑞喜が大量殺人を犯した日だ。あと一時間もしないうちに、瑞喜は紫苑の自宅で彼女を殺害する。その数時間後には寄宿舎に放火し、寮生の二割以上が逃げ遅れて死傷。第一回の公判では私が刺され、第四回の公判は不審物で延期になり、そして──。
取るものもとりあえず、通りかかったタクシーに手を挙げて飛び乗った。運転手は怪訝な顔をしながらもハンドルを握り、タクシーは日暮れの町を疾走した。降り出した小雨がウィンドウを濡らし、薄着の腕には鳥肌が立った。
お願い。
どうか、間に合って。
大急ぎで清算を済ませ、タクシーを降りた私の前には、いつか訪問した丘陵そばの集落が広がっていた。紫苑の家は片親家庭で、唯一の肉親である母親はもっぱら恋人の家に入り浸っていたらしい。それゆえ、紫苑には頼るべき身内がおらず、瑞喜のいじめによって心を病んでいったのだという。第一回公判で検察の読み上げた冒頭陳述要旨では、事件の背景をそう説明していた。
紫苑の家にテープは貼られていない。
開いたままの玄関から、錆びた血のような臭いが漂っている。
足音をひそめるゆとりもなく、暗闇と化した家の中へ私は飛び込んだ。突き当たりのドアを抜けて狭い居間に駆け込むと、そこには先客の姿があった。──血まみれの包丁を握りしめた桜野瑞喜が、なだれ込んだ闖入者を見つめていた。
その足元には北山紫苑の亡骸がある。
間に合わなかった。
愕然とする私に、瑞喜は途方に暮れたような問いを投げかける。
「だれ……?」
「大丈夫だよ」
私はかすれた声で呼びかけた。息せき切って駆け付けたせいで、まだ呼気も整わない。それでもこれだけは伝えなければならなかった。
「大丈夫。怖がらないで。私はあなたの味方だから。もう包丁も持たなくていいの。誰のことも殺さなくていいんだよ」
「どうやってあなたを信じろっていうの!」
叫ぶように瑞喜が遮った。その手が、赤銅色の包丁を私に向ける。
「あなたは誰? どうして私がここにいるって分かったの? 答えによってはあなたのことも刺すわ! それでもまだ私の邪魔をしようっていうならっ──」
駄目だ。極限状態へ追い込まれた瑞喜の耳に、私の言葉は届かない。意を決した私は一歩を踏み出した。瑞喜が包丁を構え直す前に、その懐へ飛び込んで瑞喜を抱き締めた。「離しなさい!」と喚いた瑞喜が包丁を振りかざす。死に物狂いで差し伸べた右手が、振り上がった包丁の切っ先を掴んだ。
こびりついた血糊で包丁が滑る。離すまいと私も力を込める。手のひらに刃が食い込み、だらりと寒気が筋を描いて流れ出す。
痛い。
痛い。
力が入らない。
それでもこの刃を離すわけにはいかない。
みるみる私の血に染まってゆく右手を、慄くように瑞喜は見つめた。その腕から次第に力が抜け、ふっと緩んだのを私は逃さなかった。奪い取った包丁を暗闇に投げ捨てた私は、自由になった右手で瑞喜を強く、強く抱きしめ直した。
どこにも行かせない。
瑞喜を放火魔になんてさせるものか。
怒りに任せて同級生を虐殺するなんて許さない。この子は生きなければいけないのだ。紫苑の無念を晴らし、彼女をいじめた同級生たちに正しい裁きを与えるためだ。清華族も庶民も新民も関係ない。誰もが法の下で平等に、幸せを享受する未来のために。
「離して」
弱々しい声で瑞喜が吠えた。
「どうして邪魔するの。邪魔するならもっと早く来てくれればよかったのよ……。私、この子のこと刺しちゃった……死なせちゃった……死んでほしくなんてなかったのに、もうどうしようもなかったのにっ……わたしが……わたしがぁ……っ」
血にまみれた腕のなかで瑞喜は泣き崩れてゆく。どくどくと右手に走る痛みが、朦朧と淀んだ私の意識を理性の世界に引き留めてくれる。歯を食いしばりながら私は周囲を見渡した。壁際に座り込み、事切れた北山紫苑の瞳が、号哭する親友を静かに見上げていた。
◆
経営再建中の桜野財閥の創業家令嬢、桜野瑞喜。
同級生の少女・北山紫苑の自殺を幇助した疑いで、彼女は警察に逮捕された。
級友たちは当初、紫苑の自殺の原因は瑞喜のいじめによるものだと口々に言い張った。しかし桜野瑞喜の証言に加え、二人の通学先であった私立洛陽殖産高校の寄宿舎からもいじめの証拠が多数押収され、いじめの主犯格は桜野瑞喜ではなかったことが正式に裏付けられた。財閥傘下の名門校で起きた惨事は世間の注目を大いに集めた。実態調査のために第三者委員会が設立され、級友たちが取り調べを受けるなか、桜野瑞喜自身の刑事裁判も同時並行で進行した。
桜野瑞喜は殺人罪に問われなかった。
現場の状況から、彼女は北山紫苑の自殺を助けたに過ぎないと検察が判断したためだ。
代わって起訴状に記載されたのは、刑法二〇二条、自殺関与及び同意殺人罪。被害者が死を望んでいた場合に限り適用される、殺人罪の減刑類型だ。北山紫苑はみずからの意志で自殺を図り、すでに助かる状況になかったものの、確実な死を望んだ彼女は桜野瑞喜に包丁を託し、自身を刺殺するよう依頼した。被害者の依頼に基づいて殺人を犯すことを、刑法では「嘱託を受けた」とみなす。かくして桜野瑞喜には嘱託殺人罪が適用され、東京地裁は拘禁二年、執行猶予五年の有罪判決を言い渡した。目下、検察側も弁護側も控訴を断念する見込みで、このままゆけば二週間後には一審判決が確定判決となる手筈だった。
「──どうですか、司法試験の準備は」
「短答は安定して点が取れてます。ただ、論文がどうしても苦手で。学説も判例も網羅しているはずなんですけど、解釈がおかしいといって添削されるばかりで……」
「まぁ、個人の主観を披露する場ではないからね。学説への言及はほどほどにしておけばよいでしょう。何より解答時間が勿体ない」
「高瀬先生はこんな苦労、きっとしなかったんですよね」
「まさか。私もだいぶ辛酸を舐めたんです。だから語れることもあるわけで──」
古い記憶を嗜むように嘆息した弁護士の高瀬先生が、おや、と眉を上げた。
「いらしたようだね」
からりとドア脇のベルが鳴った。制服姿の女子高生が一人と、その父親が、私たちの姿を見つけて静かに歩み寄ってきた。「注文はどうされますか」と先生が問いかける。おずおずとメニューのカフェオレを指差しながら、彼女は私の隣に腰を下ろした。
桜野瑞喜。
世間のいう人殺し令嬢、その本人だ。
「ご多忙のところ申し訳ない。どうしても娘が挨拶したいと言ったもので」
向かいの席に座った瑞喜の父親が深々と頭を下げた。かの桜野グループの頂点にして、経営再建騒動の真っただ中にいる人物だ。私は「いえ」と口角を上げた。言ってやりたいことが色々と浮かんできたが、それは今、この場で口にすべきことではなかった。
「娘さんに執行猶予がついたと聞いて私も安心しました。ずっと、心配だったから」
「何をおっしゃる、あなたのおかげですよ。あの晩、あなたが娘を止めていなければ、娘は同級生たちを手にかけていたかもしれん。そうなったら大変なことになっていた」
「私もよく覚えていないんです。どうしてあのとき、瑞喜さんを止めに入ったのか」
むず痒さを覚えて、私は右手の指で頬を掻いた。広げた手のひらには赤茶色の古傷が走っている。一年前、瑞喜が北山紫苑を殺したとき、なぜか私はたまたま現場に居合わせた。逸る彼女を止めようとして包丁を握ってしまい、そのときについたのがこの傷だ。おかげで私はしばらくペンを握れなくなり、司法試験の受験も泣く泣く諦めた。結局、一年遅れで再チャレンジを図ることになり、いまも試験勉強に追われている。
「我々がいると落ち着いて話もできないでしょう。私は向こうの席に移るよ」
目配せをした高瀬先生が、父親とともにグラスを持って席を立った。
残された瑞喜が、睫毛の向こうから私を窺っている。二人きりにされてしまうと妙に気まずくなって、私は空のマグカップを無意味に口元へ運んだ。
「……高瀬さんとは、どこで知り合いに?」
沈黙を厭うように瑞喜が尋ねる。「面会の時だよ」と私は答えた。
「たまたま一緒に面会受付に並んでて、先生があなたの弁護人だと知ったの。結果論だけど司法試験の勉強なんかも教えてもらって、なんだか本物の先生みたい。もう裁判も終わってしまったし、会えなくなるのは寂しいな」
「……そう」
「高瀬先生のおかげだね。こうして無事に裁判を終えられたのも」
微笑みかけたら、遮るように「違う」と瑞喜が声を重ねた。その瞳が一瞬、迷うように焦点を失って、それからふたたび私をまっすぐに見つめた。
「あなたのせいよ」
「え……」
「何を信じればいいのか分からなくなって破れかぶれになった私を、あのとき、引き留めたのはあなただけだったわ。あなたのせいで私は人間に失望できなかった。あなたのせいで毎晩、北山さんを手にかけた痛みで眠れなかった。痛くて、痛くて、でも嘆くたびに誰かの優しさが染みて……おかげでなんとか今日まで生きてこられたの」
あの惨劇の夜、血まみれの包丁を握っていた右手を、そっと瑞喜は左手で撫ぜる。あの夜、私と争ったはずみで、瑞喜の右手にも切り傷が残った。まだいくぶん肌は荒れているが、それでもペンは持てる。家柄にも才能にも秀でた彼女は、ひとたびペンを握り直せばどこまでも昇ってゆくだろう。望むのならば、その発言ひとつで社会を動かすような地位にさえ。
「ずっと、訊きたかったことがあるの」
ぽつりと瑞喜が尋ねた。眉を上げると、彼女は傷跡を包む左手にいっそう力を込めた。
「あなたは、どうしてそんなに強くなれたの。誰の目にも立場の悪かった私を、どうしてずっと庇ってくれたの。あなたには感謝しているけど、そこだけがずっと、分からない」
「私だって強くないよ。今もときどき、自分の信じた正義が信じられなくなる」
苦笑した私の脳裏を、両親の顔がよぎって消えていった。工場をつぶされた両親の代わりに桜野財閥と対峙し、社会正義を実行すると誓って法曹の道へ入った私は、その時点で両親の真意を読み違えていた。あとになって両親から聞いたことだ。
「法学の世界にはね、法律なければ刑罰なし、っていう有名な格言があるの。何を罪とすべきなのかは時代によって変わってゆくから、その時勢に応じた民意が刑罰にも反映されなければいけない。だから、罪の類型や課せられる刑の内容は、国会の制定する刑法によって定められる。そういう考え方を罪刑法定主義って言って……厳密にはもっと色々な議論を孕んでいるんだけど」
「…………」
「要するに、絶対的な正義なんてどこにもないの。あるのは時代に即した相対的な正義だけ。だから、かえってみんな何を信じればいいのか分からなくなって、自分の身を守ることに必死になってる。いまはそういう時代なんだと思う」
「……私が北山さんを死なせてしまったのは、絶対に正しいことじゃなかったわ」
うつむいたまま、瑞喜は首を振った。「でも執行猶予がついた」と私は言い返した。
「誰もあなたを完全に断罪できなかった。あなたを悪だと言い切るだけの正義を誰も持たなかった。そんな有様だから、この国には今も差別やいじめが蔓延り続けてるのかもしれない。何が正しくて、何が正しくないのか、北山さんのような犠牲を生まないためにはどうしたらいいのか。我々も一生懸命に考えるから、あなたもあなた自身の言葉で考えて、悩んで、いつか答えを出してほしい──。あの執行猶予はそういう意味なんだと私は思ってるよ」
「……それで、いいのかな」
「それでいいんだよ。あなたはもう一人じゃない。私もそばにいるから、一緒にたくさん考えよう。あなたはいつか立派になって、世の中を変えることのできる身分でしょう?」
励まし半分、冷やかし半分のつもりで畳み掛けたら、不意に瑞喜の目が丸くなった。そわりと彼女は身体を震わせて、涙ぐんで、無理やり腕で拭いながら「不思議」と言った。
「いつか、北山さんも同じことを言っていたわ」
自由になったら何がしたいのかと尋ねたら、北山さんの墓参りに行きたいと彼女は言った。それが済んだら遊園地やゲームセンターに行って、北山さんの分まで遊びたい。ついでに勉強も教えてもらって、いつかあなたに追いつきたい。そういって微笑んだ瑞喜の頬には、人間らしい温もりと、清華令嬢の愚直な矜持が、溶けた絵の具のように滲んでいた。
Fin