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#5

 



 桜野瑞喜の第四回公判は、土壇場で中止になった。

 裁判所に不審物が届いたためだ。

 予定を繰り上げて裁判所を出てきた高瀬先生の顔は、ひどく険しかった。


「封筒の中身は包丁だったようです。それもご丁寧なことに、桜野さんが現場で使用したのと同じ型番の製品だったそうだ。万が一にも関係者から情報が漏れていたら大変なことですよ」

「じゃあ、今日の日程は……?」

「ひとまず繰り越しです。弁護側(こちら)の証人を立てる予定だったが、やむを得ず今日は帰っていただいた。次回の公判の日程もお伝えしましたが、来てもらえるかどうか……」


 ずず、と先生はコーヒーを乱暴に啜った。私の含んだ紅茶も溜め息の味がした。地裁の近くで落ち合った私たちは、最寄りのカフェで無為に時間を潰していた。今日の公判ではいよいよ私も弁護人席──つまり先生の隣で公判を傍聴する予定だった。瑞喜を恨む有象無象が、私の勉強のチャンスをことごとく台無しにする。

 窓の外を、装甲板を嵌めた警察の護送バスが走り抜けてゆく。デモ隊のシュプレヒコールが地鳴りのように響いている。今日は法務省のあたりでデモをやっているらしい。「清華族の()()の撤廃を求めているようですよ」と、先生が冷ややかに言った。


法務省(かれら)は法の番人に過ぎないのですがね。法を改廃する権限は彼らにはない。文句を言う相手を履き違えていると、誰かが教えてやれれば良いんでしょうが」

「誰に文句を言っても仕方ないって、あの人たちも本当は分かってるんじゃないですか。そもそも清華族の()()に法的根拠なんてないんだから」

「おや。君も少し冷静な議論ができる気分になりましたか?」


 茶化され、私は気まずい思いでカップを手に取った。不自然な不逮捕、不起訴、刑の減免、どれも実際に起きていることだと、この店で先生に食ってかかったのをしみじみ恥じた。

 逮捕、起訴、あるいは減刑。難解な定義を孕む法律用語の中には、大衆による誤解が蔓延しているものも多い。たとえば「逮捕」がそうで、そもそも逮捕とは刑罰の一環ではなく、捜査上の必要に基づいて容疑者を拘束すること。端的にいえば、取り調べの最中に逃げられたら困るので、一時的に牢屋に入れておくだけの手続きだ。逃げ出すおそれがないと判断された場合には、べつに逮捕する必要はない。清華族の容疑者が往々にして逮捕されないのは、彼らが往々にして高齢で、顔も知られており、相対的に逃亡しづらい立場だからだ。しかし公正世界観念をいだく民衆の眼には、どうしても「悪事を働いたのに何故逮捕されないのか?」という偏見(バイアス)がかかってしまう。

 司法に携わる者が政治や世論に惑わされてはならない。司法はみずからの良心にのみ従い、その他の国権から独立した存在であるべきだ──。そうした建前のもと、司法審査の過程は基本的にブラックボックス化されている。どんな議論を経て減刑がなされ、あるいは無罪になるのかを、国民が知らされることはない。そこに大衆は「特権」の幻想を抱くのだ。恥ずかしながら私もそのひとりだった。見舞いにきた母の言葉に平手を打たれ、瑞喜の半生を夢に見るまでは。


「何にせよ、桜野瑞喜は世界を跡形もなく変えてしまいましたね。この調子なら向こう数年、清華族への批判が止むことはなさそうだ」


 先生の言葉に、私はいつか紫苑の口にした予言を思い返した。瑞喜ちゃんは賢いし、それに清華族だから、いつか立派な立場になって世の中を変えてゆく──。彼女の祈りはいま、皮肉な形で現実になりつつある。


「彼女の父親も肩身が狭いだろう。ただでさえグループの経営再建に注力している頃でしょうに」

「お父さんは面会に来てるんでしょうか」

「彼女のほうから拒んでいるようですよ。もう私の面倒を見る必要はない、といって」

「……あの子らしいな」


 つぶやいたら、先生が少し口角を上げた。


「瑞喜さんとは親しくしていますか?」


 とんでもない。私は大仰に首を振った。もう何度も会って話しているが、彼女の態度は冷淡なままだ。大人という生き物への信頼が、根元から折れたように欠けている。


「君が法廷で刺された時、あの子はみずから刺されようとしているように見えたそうだね」

「見えましたけど……」

「私も同じように思うんだよ。あの子はどうも、自分の立場を意図的に悪くしようとして、わざと突き放した態度を取っているように見える。十七歳以下の犯罪者は死刑にならないことも彼女はちゃんと分かっている。その上で、それでもなお死刑になりたがっている」

「裁かれることじゃなく、死ぬこと自体に目的があるんでしょうか?」

「そうかもしれないね。拘置所でも刑務所でも自殺は徹底的に防がれる。もはや、あの子はみずから進んで死ぬことができない」


 先生は浮かない顔でカップを口に運んだ。身内に手を噛まれたような悲哀が、その丸い背中に満ちている。思いきって「あの」と切り出したら、先生は背筋を伸ばした。


「私たち、なにか思い違いをしてるんじゃないでしょうか。桜野瑞喜はいじめの主犯で、その延長で被害者を殺したんですよね。だけど具体的な証拠は何もない。ぜんぶ、その後の放火を生き延びた同級生たちの証言です」

「本当にいじめていたのは同級生のほうなんじゃないかと言いたいのかな」

「それなら辻褄が合うと思いませんか。桜野瑞喜はあくまでも傍観者で、いじめられていた子とも懇意にしていて、彼女の恨みを晴らすために寮へ放火したんだとしたら……」

「しかし桜野さんが北山さんを刺殺したのは事実ですよ。現場に残された指紋や髪から、彼女が殺害に加担したことは科学的に立証されている。犯行当時、現場には二人の他に誰もいなかったことも判明しています。もしも実行犯が桜野さんでないのなら、誰が北山さんを殺めたのだと思います?」

「それは……その」

「いずれにせよ証拠はすべて灰になりました。あの寮とともに、桜野さん自身が燃やしたのです」


 はたと先生は肩をすくめた。突きつけられた自身の無力を噛みしめるように、コーヒーを啜って、それから小さく私を見上げた。


「だが、瑞喜さんが本心を隠しているのは明白だ。それを暴けるのは君だけかもしれません。情けないことですが、私はとうとう瑞喜さんに信頼してもらえなさそうだ。彼女からすれば私も、理不尽を押し付ける大人のひとりに過ぎないのでしょう」





 初めて耳にする瑞喜の大声は、弦楽器みたいに引きつっていた。


「──何してるの!」


 ばたばたと靴音を鳴らし、瑞喜は同級生たちの輪の中へ割って入った。その中心には紫苑が横たわっている。両腕で顔を覆い、必死に身を守る紫苑の身体には、日暮れ前の夕陽のオレンジが満ちている。その光が、褪せた制服に残る靴の跡をあざやかに映していた。


「ちょっとー。邪魔しないでよ桜野さん」

「歯向かったから制裁してるだけだよ。ねぇ?」


 けらけらと同級生たちが笑う。うずくまった紫苑は震えるばかりで言葉を発さない。


「歯向かったって、何を……」

「私らの口からは言えないなー。ほら北山、自分で言えば? 宿題を頼んでたこと先生にチクりましたって!」


 振り上げた上履きの先が下腹部にめり込んで、紫苑が苦しげな息を吐いた。ふるふると彼女は弱々しく首を振っていた。異議を唱えているのじゃない。あなたは関係ないから、ここから離れて。わたしに構わないで。潤んだ目が、そう瑞喜に訴えている。


「クズ、カス、卑怯者! あんたのせいで停学になったらどうしてくれんの?」

「せっかく稼いだ内申点、今すぐ返してよね!」

「もしくは学費払ってくれてもいいよ?」

「無理無理! こいつ新民なんでしょ。特例だか何だか知らないけど、ズルして学費も安くしてもらってようやく通えてんだから!」


 口々に罵声を浴びせながら、同級生たちは紫苑を足蹴にする。紫苑が声にならない悲鳴を上げる。瑞喜は唇を結んで駆け出した。一目散に駆け込んだのは職員室だった。息せき切って事の次第を説明する瑞喜を、担任教師は「まあまあ」となだめにかかった。


「落ち着きなさい。よくあることでしょう」

「先生はご存知だったんですか? 北山さんがあんな目に遭っているのを分かっているなら、どうして止めに入らないんですか?」

「あのね桜野さん。我々は警察でもなければ裁判官でもないのよ。最終的には当人たちに解決をゆだねるしかないの。今どきは親御さんもうるさいからね」


 担任教師は落ち着き払っていた。まるで、ゲームに飽きて投げ出した子供のように。


「それに、そもそも桜野さんが口を出すべきことではないわ。私は確かにあの子たちを注意したけど、それはあの子たちのやったことが校則違反だからよ。与えられた課題を自力で解かず、内申点を不正に稼ごうとした。そして、その不正に北山さんも加担したの。いま教員会議で、実行犯にあたる北山さんをどう処分すべきか話し合っているところよ。品行方正な模範生徒のあなたが、どうして彼女を庇う必要があるの?」


 品行方正。模範生徒。担任教師が称賛のつもりで口にした言葉は、レッテルとなって瑞喜の身体を縛り付けたのだろう。どう言葉を並べても担任教師を説得できず、「失礼します」と頭を下げて瑞喜は職員室を出た。紫苑の処分はすでに決まっているようだった。決まっていないのは、処分の具体的な内容だけ。

 教室へ戻ると暴行事件は終息していた。三々五々、憂さを晴らした同級生たちが歓談しながら立ち去ってゆく横で、ただひとり紫苑だけが雑巾のようになって床に倒れている。


「北山さんっ……」


 駆け寄った瑞喜の顔を紫苑は見上げた。

 それから、へにゃりと笑って「大丈夫だよ」と言った。


「瑞喜ちゃんは、関係、ないから」


 瑞喜の顔は苦悶に歪んだ。上体を屈めた紫苑がくぐもった咳をする。瑞喜はハンカチを取り出し、彼女の口元を拭った。真っ白なハンカチに血の跡がついた。暴行の弾みで口の中を切ったのか、紫苑の唇は赤黒く濡れていた。


「警察に言うわ」


 瑞喜は声を震わせた。


「教師なんか当てにできない。暴行の痕跡さえ残っていれば、警察は犯罪として立件してくれるはずよ。このままじゃ、いつか北山さんは本当に潰れてしまう……」

「いいよ。もう、何もしないで」

「どうしてそんなことを──」

「迷惑かけたくないの。これ以上、わたしと関わったら、瑞喜ちゃんまで不幸になる」


 肩で息をしながら、紫苑は腕を伸ばして瑞喜を引き離した。はずみで取り落としたハンカチが、床に広がって埃にまみれた。


「これでもわたし、自分の()()は理解してるつもりだよ。清華令嬢の瑞喜ちゃんとは生まれも育ちも違うし、瑞喜ちゃんと同じ道は歩めない。瑞喜ちゃんは誰よりも綺麗な道を歩いて、誰よりも立派になって、いつか世の中を導く人になるんだよ。貧しい新民育ちのわたしが、それを邪魔しちゃいけないの」

「違う。ちがう。私は……」


 瑞喜は叫ぶように何かを言いかけて、でも言い淀んで、腹這いになったハンカチを悲痛な顔で拾い上げた。そのとき瑞喜の脳裏に浮かんでいたのは、会社経営に苦しむ父の顔だったのかもしれない。あるいは早世した母の顔だったのかもしれない。私には、分からない。

 うずくまるように座り込んだ瑞喜の横を、またひとり同級生が立ち去ってゆく。

 ──桜野さんも桜野さんだよね。

 ──うざいよね。

 ──そのうちパパが力尽きたら、清華族でもなくなっちゃうのに。

 漏れ聴こえた会話に瑞喜が反応することはなかった。たったひとり紫苑だけが、その優しい瞳で、唇を噛みしめる瑞喜を見上げていた。




 殺人罪。

 その名の通り、人を殺めることによって問われる罪だ。

 日本の刑法では一九九条に規定があり、法定刑は五年以上の拘禁と定められている。外患誘致罪のような特殊例を除けば、日本におけるもっとも重い罪の一つだ。どの国においても殺人罪は基本的に重く扱われ、ほぼ例外なく死刑や長期の拘禁刑が課される。

 人の命を奪うことが、なぜ罪になるのか。

 奪われた命の値打ちはどうやって量るのか。

 刑法を学ぶ者なら、どこかで一度はそんな命題に突き当たる。


「──前に言ってたよね。あのまま刺されていれば、みんな溜飲が下がったのにって」


 そう私が切り出すと、アクリル板の向こうで桜野瑞喜がうなずいた。やり直しの第四回公判を翌日に控え、私は何度目かの面会に訪れていた。高瀬先生は今度も一緒に来なかった。自分がいれば桜野さんは心を閉じてしまうと、頑なに言い張って譲らなかった。


「いまでも、死にたいって思ってる?」

「私が?」

「このあいだ高瀬先生がおっしゃってたの。あなたはわざと自分を不利な立場に追い込んで、死のうとしているように見えるって」

「だったらどうだっていうの」

「わけを知りたいの。そうまでしてあなたが死ななければならない理由を。──あなたが裁判長に食ってかかったとき、私、てっきりあなたに罪の意識なんて少しもないのだと思った。でも今のあなたは、まるで贖罪のために死を望んでいるように見えるから」


 畳みかけると、瑞喜の目がわずかに私を見た。


「寮の生徒たちを殺したこと、後悔してる?」

「……していないわ」

「北山紫苑さんを殺したことも?」

「……して、ない」

「それは新民だから?」


 わざと意地の悪い訊き方をしてみせたら、瑞喜は「違う!」と席から身を乗り出した。監視役の刑務官が腰を浮かせるほどの勢いだった。踏みつけた地雷の炸裂に驚きながら、同時に私は、ようやく瑞喜の出した尻尾を掴むことに成功していた。


「私、ずっと疑問だったの。北山さんが新民であるというだけで、あなたが彼女をいじめる理由は何だったんだろうって。新民がいわれのない差別を受けるのと同じように、清華族もただ生きているだけで羨まれ、妬まれ、時には陰口を叩かれる。その理不尽に、あなたは人一倍敏感だったはずだよね。むしろ有象無象の同級生より、北山さんとは分かり合える部分が大きかったんじゃないの?」

「…………」

「人を殺すことが罪になる理由は、法学の世界でも明確になってないの。あまりにも当たり前のことだから。でも一説には、生命があらゆる意思決定の基盤──つまり人権の源だからだと言われてる。言い換えれば殺人とは、取り返しのつかない究極の人権侵害なの。もしも命を奪われてしまえば、その人は永遠に言葉を失って、弁解も告白も名誉回復も叶わなくなる。誰にも守られず、誰にも顧みられず、いつか存在ごと忘れられてゆく」

「……あの子はそれを望んでたわ」


 声を震わせながら瑞喜が割り込んだ。

 ふたたび席に腰を下ろしながら、彼女は右手を握りしめていた。夢の中で瑞喜はペンを右手で握っていた。紫苑の胸に突き刺した包丁も、きっと右手で握っていたはずだ。


「そうだとしても。北山さんを刺したこと、あなたはずっと後悔していたんでしょう?」


 私は念を押すように畳み掛けた。


「実際に彼女をいじめていたのが誰だったにせよ、あなたは北山さんの声を、尊厳を、生きる権利を永遠に奪ってしまった。聡明なあなたはそのことをちゃんと理解している。だから、自分自身を断罪しようとしているんじゃないの。法があなたを死刑にできないのなら、あなた自身が率先して死を選ばなければいけないって──」

「──もうやめて!」


 瑞喜は叫んだ。


「やめないよ」


 私も大声を張った。たちまち刑務官の顔に緊張がみなぎったが、そんなものを気にかけてはいられなかった。


「私が身体を張って守った命を粗末にしないでよ。たとえどんな理由があろうとも、あなたはたくさんの命を奪った罪に向き合わなきゃいけない。そのうえで、北山さんの声を奪った自覚があるのなら、()()()()北山さんの声にならなければいけないの。北山さんの無念をあなたは知っているんでしょう? 彼女の最期の言葉を聴いたんでしょう? 失われた彼女の尊厳を挽回できるのは、この地球上であなた一人しかいないんだよ! それこそがあなたの成し得る、本当の贖罪なんじゃないの!?」

「もう遅いの! いまさら私が何を語ってもあの子は浮かばれない! それこそ私が、この手で、あの子をっ……」


 取り乱したように喚く瑞喜を、駆け寄ってきた刑務官が抑え込んだ。面会の中断を無情に告げられ、私は大人しくこうべを垂れるしかなかった。

 顔を上げ、刑務官に連れられて面会室を去りながら、とうとう瑞喜は私を直視してくれなかった。その顔は苦痛に歪み、息は心臓が破れたかのように上がっていた。紫苑の死因は左胸に包丁を刺されたことだったという。刺されたのと同じだけの痛みが、いまも瑞喜の胸を脅かしているのだと私は思った。──生きている限り決して癒えない、決して赦されることのない痛みが。




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