#3
「……最近、夢に見るの」
ぽろり、刃が欠けるように独り言がこぼれた。見舞いに来ていた母親が、衣類を畳みながら「何を?」と反応した。私は重たい最新号の法学雑誌を枕元に伏せた。
「犯人の子の高校生活」
「桜野グループのお嬢さんっていう?」
「そう。私、あの子のプライベートなんか何も知らないのに。毎晩あの子の身体に乗り移って、桜野瑞喜の高校生活を追体験してるんだよ。そろそろうんざり。麻酔のせいかと思ってたけど、もうとっくに切れてるはずだし……」
「身を挺して守ったから感謝されてるんじゃない?」
「どんな理屈なの。そんなわけないでしょ。それに私、ネット上では非難轟々だよ。どうして復讐の邪魔をしたのかって」
そうねぇ、と母はのんびり返事をする。父の工場経営を手伝っていた頃から、母は良くも悪くも長閑な人だった。価格交渉の場でも取引先に強く出られず、いいように使い潰され、あげく大口契約を打ち切られて工場は倒産した。いまは父も母も、パート勤務の賃金で細々と暮らす身だ。
私が刺されて入院して以来、母は週に三度か四度、こうして見舞いにきてくれている。もう傷跡もずいぶん塞がって、来週には退院できるようだという。医者の許可が出れば一刻も早く退院するつもりだった。さもなくば、いつか静寂のなかで気を病みそうだ。
「どんな夢を見るの?」
傍らの椅子に母が腰かけた。「いろいろだよ」と私は嘆息した。
「あの子が通っていた高校での授業風景とか、同級生との何気ない会話とか。なんかもう、日々の過ごし方からして殿上人って感じ」
肌寒くなって布団をかぶり直しながら、目を閉じる。いよいよ妄想癖がひどくなったのか、このごろは居眠りをしていても桜野瑞喜の夢を見る。面会中の尖った態度が嘘のように思えるほど、高校生の瑞喜は素行もよく、奢り高ぶることもない。そんな彼女に周囲の同級生も一目を置いている。
いや、違う。
あれは媚びを売る者の目つきだ。
戦後の高度成長期からこのかた、我が国の経済は幾多の財閥企業に牛耳られている。財閥系企業に勤める人と、そうでない人の間には数倍もの賃金格差があると言われ、財閥系企業に入ることが就職活動のゴールとすら言われる。ましてや洛陽高校は財閥系への就職ルートを持つ、事実上の就職予備校だ。誰もが桜野瑞喜に媚びを売るのも無理はないし、あの学校ではそれこそが正解なのだ。頭では分かっているのに、どうにもしこりが消えない。
「お母さんはさ。桜野グループのこと、どう思ってるの」
「別に何も思ってないよ」
「でも、あいつらのせいで工場潰れたんじゃん。ずっと納入し続けてた縫製素材、もう要らなくなったから在庫も受け取らないとか急に言い出して……」
「日葵はずっと恨んでるよね、桜野を」
うなずくと、母は枕元の法律雑誌をそっと手に取って、せっかく開いておいた読みかけのページを閉じてしまった。
「そりゃね、取引を打ち切られた時は頭を抱えたよ。でも企業活動はそんなものだって、ずっと覚悟はしてたから。どのみち、古い顧客だけを大事にしていたら寸詰まりになるのは見えていたし。販路開拓の体力のなかった私たちは、切られる覚悟で桜野グループに向き合うしかなかったの。顧客のニーズに追随できなかったものは淘汰される。それが自由経済の宿命でしょう。あなたたちの学問の言葉を借りるなら、機会の平等はあっても結果の平等はないんだよ」
「……そうだけど」
「桜野グループのことは恨んでないわ。もう祖業も破綻したようだし、あの財閥も苦しんでいる最中なんだと思う。……それに、今はのんびり仕事ができているしね」
ガラス窓に映る母の笑顔は穏やかだった。一方的に契約を切られたあの日、走り去る営業車を見送っていた母の小さな背中を私は覚えている。あれからさらに一回り小さくなってしまった母や、父の無念を、私は晴らしてやりたかった。弁護士になって、弱小企業の法務に携わって、両親の職を奪った桜野グループに宣戦布告するのを夢見ていた。私にとって桜野瑞喜は殺人鬼である前に、いつか果たさねばならない復讐の当事者だった。
窓の外でデモ隊の喧騒が響いている。
今日も裁判所の周りで、桜野瑞喜の死刑を求めるデモ行進が計画されているらしい。
「あの子は死刑にならないんでしょ?」
母がつぶやいた。いかなる理由があろうとも、犯行時十八歳未満の少年に死刑を言い渡すことはできない。少年法五十一条にそう規定されているし、同趣旨の国際条約を我が国は三十年前に批准している。そう説明すると、母は胸を撫で下ろしたように言った。
日葵が危険を冒して守った甲斐があるというものね。
その穏やかな、理性に満ちた言葉に、私はぴしりと平手を打たれたような気分になった。
その晩、瑞喜は校舎の階段奥にたたずんでいた。手にしたスマートフォンからは耳慣れない声が響いていた。「そう」と力なく相槌を打った瑞喜は、うなだれた。
『──しばらくは瑞喜ひとりで暮らしなさい。私はしばらく会社から戻れそうにない。執事もいるし寂しくはないだろう』
「会社、大丈夫なの」
『駄目だろうな。少なくとも不採算の部門は閉じねばならん。デパートも衣料品も合成繊維開発も、勿体ないが事業ごと売却するしかない。買い手がつくかも分からないが……』
終始、電話相手の声は口ごもりがちだった。声の主が瑞喜の父、つまり桜野グループ総裁であることに私は勘付いた。電話の切れたスマホを手に、ふらり、瑞喜は歩き出す。放課後の廊下には金色があふれ、サッカー部の掛け声が遠く響いている。
教室に戻ると、そこには紫苑の姿があった。
「……まだいたの。先に帰ってって言ったじゃない」
「ワークブック、他の子のぶんも提出するように頼まれてるから。私の答えを写してるの」
へへ、と頼りなく紫苑は笑った。その手元には英語の問題集が数冊ほど積み上がっている。どれも違う名前が書かれているのを瑞喜は一瞥して、深々と息を吐いた。
「みんな、そこまでして好成績を取りたいのね」
「そりゃそうだよ。わたしだって財閥系に就職できるならズルしたくなるよ。それこそ瑞喜ちゃんのところとか……」
「ニュース見てないの。うち、もう無理よ」
ぽつりと瑞喜はつぶやいた。
私の見ている限り、瑞喜が人前で弱音を吐くのは今度が初めてだった。びっくりしたのは紫苑も同じだったようだ。「なんで?」と尋ねる声が、無邪気な動揺を孕んでいる。
「祖父の代から隠してきた簿外債務が発覚したの。要するに、ものすごい額の借金を隠してたのよ。明日にでも記者会見を開いて発表すると、さっき父が言っていたわ」
瑞喜の言葉はたどたどしかった。もう祖業も破綻したようだし、あの財閥も苦しんでいる最中なんだと思う──。折しも母の言葉が気にかかって、私も就寝前に桜野グループの状況を調べていたところだった。
明治維新直後の殖産興業政策により隆盛した製糸業と、そこから発展した繊維産業や百貨店経営を祖業とする桜野グループは、近年、安価な海外衣料品の流入や百貨店業態の陳腐化によって急激に経営が傾いた。苦境の中、あぶく銭を掴む思いで手を出した金融業が、十数年前の金融危機で破綻。その際に発生した多額の債務を、当時のトップだった瑞喜の祖父は粉飾決算によって誤魔化し続けてきたのだった。
結局、桜野グループは多数の事業を手放す羽目になり、それでも債務を支払いきれずに懸命な経営再建を続けている。
瑞喜が大量殺人を犯し、捕まった今も。
「……そっか」
紫苑の返事はどこか重みを欠いていた。財閥の経営危機が何を意味するのか、一介の高校生に易々と伝わるはずはない。伝わっているのは財閥と直結している創業家の令嬢──つまり瑞喜だけだ。
「もう勉強会もやめましょう」
瑞喜は静かに畳み掛けた。
「そのうちみんな、私を特別扱いすることもなくなる。むしろ疎まれるようになると思うわ。私と一緒に勉強会を開いているって知られたら、きっとあなたの立場も悪くなる」
「立場が悪くなったらどうなるの?」
「言われなきゃ分からないの。今でさえ同級生から酷い扱いを受けてるじゃない。物を持たされたり陰口を叩かれたり、問題集まで押し付けられて……」
「そんなの平気だよ。もう慣れてるもん」
さっぱりと断言した紫苑が、問題集を閉じて席を立った。力の抜けた瑞喜の手を取り、そっと手のひらで包みながら、紫苑は「わたしは大丈夫」と繰り返した。
「だから、瑞喜ちゃんともこれまで通りだよ。お昼ご飯も一緒に食べるし、体育の授業でもペア組むし、またこうやって勉強会をやってほしいな。瑞喜ちゃんさえ良ければだけど」
「あなたって──」
「難しいこと、わたしには分かんないから」
にへ、と紫苑は微笑んだ。
「そんな悲しい顔しないでよ。桜野グループがどうなっても、わたしは瑞喜ちゃんの友達を辞めたりしないよ。だってわたし、瑞喜ちゃんが清華令嬢だから好きになったわけじゃない。ダメな私を平等に大事にしてくれる、優しい瑞喜ちゃんが好きなだけだから」
「…………」
「お父さんから止められてること、きっと色々あるんでしょ? 清華族じゃなくなったら夢が広がっちゃうね。わたし、一緒に遊園地とかゲームセンターとか行きたいなぁ。そんでこれからも勉強を教えてよ。瑞喜ちゃんの説明って先生より分かりやすいんだもん」
紫苑は多分、本当に何も理解していないのだ。鈍感ゆえに瑞喜の危惧にも気づかないで、彼女の心痛を無邪気に包み込んでしまう。ぐずりと瑞喜は鼻を鳴らした。それから、紫苑の手を弱々しく握り返した。
財閥令嬢の地位なんか要らない。
ちやほやされるのも本当は苦手だった。
ただ、重責を負う羽目になった父が不憫で、忍びない。裏切られたといわんばかりに同級生たちも手のひらを返すのだろう。それがほんの少し、いまは心細い。
弱り切った瑞喜がぽたりぽたりとこぼす言葉を、紫苑は優しい笑顔のまま聴いていた。そうして時おり、おもむろに手のひらを握り直すのだった。やわらかな彼女の温もりが肌越しに滲みるたび、こわばった瑞喜の身体は少しずつ弛緩してゆく。そこにいるのは完全無欠な才女でも、まして冷血な貴族でもなかった。身内の不幸に胸を痛め、同級生の心遣いに胸を震わせる、ありきたりな十七歳の少女だった。
脇腹の刺し傷がようやく癒えた頃、すでに桜野瑞喜の公判は三回目に及んでいた。第二回に引き続き検察側の証人尋問が予定され、またも傍聴席は満員御礼のありさまだった。どこからかまた、刃物を持った人が出てくるんじゃないか──。根拠のない不安に背中を脅かされながら、私は傍聴席の隅に腰かけていた。尋問を受けていたのは、夢の中に出てきた瑞喜の担任教師だ。いつも物静かで、考えていることの分からない一匹狼だったと証言する彼女を、瑞喜は刑務官に囲まれながら睨んでいた。
日付をまたいで、私は拘置所へ出かけた。
面会室の冷えたパイプ椅子に腰かけていると、アクリル板の向こうに瑞喜が姿を現した。彼女は私を一瞥するなり、ぐっと嫌そうに喉を鳴らした。
「……あの弁護士は?」
「いないよ。私ひとりで来たの。先生も連日の公判、お疲れだろうと思って」
私は嘘をついた。本当は、瑞喜と二人きりで話したくて、わざと先生に黙って来たのだった。
瑞喜は気まずそうに「そう」とつぶやいた。
「あなたなのよね。あの日、私を庇ったのは」
「それも高瀬先生から聞いた?」
「どうして庇ったの。あのまま私が刺されていれば、みんなも溜飲が下がったでしょ」
「私が私刑を良しと思わなかったから」
きっぱりと私は言った。瑞喜は目をぱちくりさせて、「変な人」とつぶやいた。
私の考え方は少なからず市民感情から乖離しているのかもしれない。加害行為と縁のない人々にとって、刑罰とは純粋な応報の賜物だ。正しいものは報われ、正しくないものには罰が下る、そんな公正世界観念を礎にして社会秩序は成り立っている。けれども「刑罰」の実態は、そんなに痛快な代物じゃない。
そもそも、正しくないものを罰する権利が誰にあるのか。
正しいことと正しくないことを、誰が、どうやって正しく分別できるのか。
悪行に対して道義的責任を問い、苦痛という応報を与えることが刑罰の本質であるとする古典的な応報刑論は、現代では多くの批判を浴びている。刑罰の究極目的は犯罪を抑止することにある。けれども長い刑罰の積み重ねの中で、いたずらに罪人の首を吊るだけでは犯罪を減らせないことが明らかになってきた。長年にわたる議論の末、現在では刑罰によって罪人を矯正し、更生を図ることで犯罪を減らすという考え方が主流になりつつある。もちろんそれが正解と決まったわけではなく、法学の世界では今も侃々諤々の議論が続いている。
目には目を、歯には歯を。そんな古の自力救済の理屈で刑罰を運用するべきではない。刑罰とは国家による人権侵害であり、時には冤罪によって取り返しのつかない結果を招くこともある。けれども感情任せの私刑に、そういう理性の制御は効かないのだ。
「……私はね。弱い者の味方になりたくて、弁護士を志したの」
瑞喜から少し視線を外して、私は切り出した。
「正しいものが常に報われるとは限らない。力が弱ければ押し込まれることもある。公正世界観念なんてただの幻想だと、頭の中では分かっているの。それでもできる限り、正しい人々の利益は守られなきゃいけない。それが社会正義の在り方だと思う。私は弱くて正しい人を守りたいし、正しくないことを糺したい。駄目なことを駄目だと言える力がほしい。犯罪も、私刑も、あなたがやったことになっている北山紫苑さんへのいじめもね」
「…………」
「本当に、あなたがいじめていたの?」
瑞喜の肩がぴくりと動いた。
「傍聴するにあたって、高瀬先生の持っている裁判資料を読ませてもらったの。でも、あなたが北山さんをいじめていた客観的な証拠って、ほとんど挙がっていないんだね。かなりの部分が証言に基づいてる。それもあなた自身じゃなく、生き残った子たちの証言。まるで口裏を合わせたみたいに、みんな同じことを語っている」
「……何が言いたいの」
「分からないんだよ。誰の言葉が正しいのか。本当に正しかったのは誰なのか」
私は身を乗り出した。正しいという言葉を連発するたびに、ひどく浮ついた言葉だと顔をしかめたくなる。この手に携えた「正しさ」の物差しの精度さえ、もはや私には担保できない。そんなことは誰にもできないのかもしれない。だからこそ、瑞喜にはありのままにすべてを語ってもらいたいのだ。
「あなたはわざわざ北山紫苑の自宅に乗り込んでいって、彼女に自殺を強要した──。調書ではそうなっているけど、でも、あなたはそんな粘着質の執心を抱く子に見えないよ。もしも冤罪なら、私はあなたを守りたい。あなたは守られなきゃいけない。だから教えてほしいの。警察にも高瀬先生にも口を噤んで、あなたはいったい何を守ろうとしているの?」
「……事実よ」
瑞喜は小さな声で言った。
「私がいじめて、あの子を殺した。あなたはそれだけ分かっていればいいわ」
「……どうして?」
「あの子は新民だったから」
感情のない瑞喜の声色に、私は目の前でぴしゃりとシャッターを下ろされたのを自覚した。当たり前のことを尋ねるな、とばかりに瑞喜は口角を上げた。
「新民は差別され、庶民は搾取され、清華族は袋叩きに遭う。そうやって、この国の秩序は何十年も保たれてきたわ。あなたのいうような正しい世界なんて、いったい誰が望んでいるの?」