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#2

 



 おかしい。私は確かに法廷で刺されて倒れたはずなのに。困惑する私をよそに瑞喜はスマホをしまい込む。壁掛けの時計に西日が斜めに差している。もう遅い時間ね、と彼女はつぶやいた。


「いつもごめんね。勉強、付き合ってもらっちゃって」

「気にしないでって言ってるでしょ」


 瑞喜の受け答えはそっけない。血の通っていない人形みたいだ。バツの悪そうな顔をした女の子が、またペンを執った。書架の並ぶ部屋は静まり返っていて、運動部の掛け声が遠くの方で響いている。そうか、ここは学校図書館なのだと、ぼんやり私は思案した。

 手元には数学の問題集が広げられている。瑞喜は律儀に問題文をノートに写して、その脇に筆算や公式を並べながら問題を解いてゆく。「ここ分かんないよ」と女の子が言った。「どれ?」と顔を上げた瑞喜が、席を立ってテーブルの向こう側へ回り込む。ふわりと揺れた女の子の髪からは埃っぽい匂いが立っていた。ここ最近、どこかで見た覚えのある顔だったけれど、いつ見たのかは思い出せない。


「ただの微分の問題でしょ。最大値と最小値を求めればいいだけよ」

「こんなの習った記憶ないよ。わたし授業は一度も休んでないのに」

「じゃあ、きっと居眠りしてたのね」

「助けてよ瑞喜ちゃん。わたし、これ以上赤点取ったら奨学金を打ち切られちゃうよ。せっかく通わせてもらってるのにどうしよう……」

「大袈裟なんだから」


 はたと溜め息をこぼした瑞喜が、椅子を引いて女の子の隣へ腰かける。見づらそうに彼女は教科書を引き寄せた。下に重なっていた女の子のノートがあらわになった。表紙には丸っこい字で名前が書かれている。

 北山(きたやま)紫苑(しおん)

 私は声を上げそうになった。

 記憶が正しければ、それは桜野瑞喜が真っ先に殺害したとされる同級生の名前だった。


「──つまり式の右側を因数分解するの。Xに何を入れればカッコの中がゼロになる?」

「1と……3だよね」

「解けたじゃない。それが最小値の条件。ほら、ちゃんとグラフの範囲も満たしてる」


 瑞喜がシャーペンを置く。北山紫苑が「すごい……」と小さな感嘆の声を上げた。


「なんで分かっちゃうの?」

「あなただってすぐ分かるようになるわ。数学は身分も思想も選ばないから」

「そうやってすぐ謙遜するの、瑞喜ちゃんらしいよね。清華族って感じがしないよ」


 すり、と少しだけ身を寄せながら、紫苑は歌うように続けた。


「わたし、やっぱり瑞喜ちゃんがいなかったら高校辞めてた気がする。来年も、再来年も、こうやって一緒に勉強できたらいいのにな」


 その屈託ない笑顔に、私の良心はひどく軋んだ。ああ、それは無理なの。あなたはいつか殺されるんだよ。他でもない、あなたの隣にいる清華族の娘に──。そう教えてあげたくて、どれだけ叫んでも声にはならない。不意に、目の奥が強く引っ張られるような感覚が走り、同時に瑞喜が大あくびをした。「やっぱり一眠りする」と口ごもって彼女は顔を横たえてしまう。いよいよ引っ張られる感覚がひどくなって、急に糸が切れて、私の意識はまたも暗闇に落ちた。




 またひとつ、白亜の天井に染みを見つけた。

 ほかにすることが何もなかった。

 目を覚ましてから二時間ほど経っただろうか。病室の扉が滑るように開いて、公判を終えたばかりの高瀬先生が駆け込んできた。息せき切って容態を尋ねる先生に、私は医師から伝えられた経過を説明した。


「数週間で退院できるそうです。命に別状はないって。もう両親も帰りました」

「傷は痛みますか」

「縫ってもらった跡がズキズキします。これでもだいぶ引きましたけど」


 そうですか、と糸が切れたように先生は椅子へ座った。

 目まぐるしい一日だった。法廷で刺された私は意識を失い、救急搬送された。幸い、刺された傷は深くまで達しておらず、臓器の損傷もなかったようだ。目を覚ましたときには手術も終わり、私の身体は病院のICUに移されていた。事情聴取に来た刑事の話では、法廷に刃物を持ち込んだのは被害者遺族の一人だったらしい。もっと凶器が大きければ金属探知機に反応していただろうに。残念そうな刑事の物言いが、まるで大惨事を望んでいたかのようで少し気に障った。


「東京地裁が金属探知機を導入して十年以上になるか……。たまにあるのですよ、こういうことが。数年前にも法廷に包丁を持ち込んで逮捕された老人がいた」

「金属探知機を通過したってことですか」

「それと持ち物検査もね。残念ですが、機械も人間も完璧ではない」

「公判はどうなったんですか」


 気にかかっていたことを尋ねると、先生は「一時中断しました」と首を振った。


「すぐに再開したがね。あとはただ検察側(むこう)弁護側(こちら)が冒頭陳述要旨を読み上げただけです。桜野さんは最後まで落ち着いていましたよ」

「それなら、いいけど」


 私は目を伏せた。

 安堵と、わずかな葛藤が、まだ打ち解けずに胸の底でマーブルになっていた。

 本当の社会正義を願うなら、あのまま桜野瑞喜は遺族の手にかかるべきだったのかもしれない。けれども安易に私刑を肯定すれば、それは法治国家の理念を捨てるのと同じだ。そうなれば清華族と庶民の格差はいよいよ広がってゆく。力ある者だけが肥え得る世界で、ノブレス・オブリージュなど期待すべくもない。

 持つ者が、持たざる者に施しをする。その果てしのない積み重ねが、福祉や人権という発明品を人類にもたらしたのだ。たとえば、勉強の得意な子が苦手な子にものを教えるように──。


「……あの」


 身を乗り出すと、先生が眉を持ち上げた。


「桜野瑞喜が最初に殺害したのって、なんて名前の子でしたっけ」

「それがどうしたのですか?」

「いえ……何となく」

「北山紫苑という子です。桜野さんの同級生だった女の子だ。享年十七歳」


 ノートの丸文字が脳裏をよぎり、私の頭は凍り付くように冴えた。やはり、そうだった。


「どうして殺されたんでしたっけ、その子は」

「なぜそんなことを知りたがるんだね」


 先生は眉をひそめながら鞄を漁り、取り出した手帳をめくってゆく。


「本人が何も話してくれないので真相は不明ですが……。北山さんは高校でいじめに遭っていて、その主犯が桜野さんだったとされている。()()()()()により誰もいじめを止められないまま恐喝や暴行はエスカレートしてゆき、最終的に北山さんは自宅に押し掛けた桜野さんから自殺を強要されるに至った。でも結局、怖くなってしまって実行できず、桜野さんが自ら手を下した。凶器とされる包丁の柄には、桜野さんの手のひらの紋が鮮明に残されていました」

「本人は認めたんですか」

「ずっと黙秘したままです。しかし火事を生き延びた同級生が、軒並み同様の証言をしている」


 自殺教唆か、自殺幇助か、それとも本人に死ぬ気がなかったのなら殺人罪か。ともかく聞くに堪えない凄惨な話だ。みずから望んで聞き出したのも忘れて顔をしかめながら、私は針を刺すように、浮かびかけた疑問をぱちんと弾いた。

 やっぱり()()は麻酔の見せた譫妄だったのだ。

 そうでなければ事実と整合しない。

 だって、桜野瑞喜は北山紫苑をいじめているようには見えなかったじゃないか。




 夕方のニュースは東京地裁での殺傷事件を真っ先に報じた。思いもよらない事件の顛末に、メディアも世論も興奮を極めていた。法廷を侮辱し、およそ反省の様子が見られない被告人。刃物を持ち込んで被告人を刺そうとした被害者遺族。そして、身を挺して彼女を止めた勇敢な司法修習生。


「……そりゃセンセーショナルになるよな」


 SNSの投稿を追いながら、ベッドの中で私は嘆息した。案の定、ネットの言論空間は過激な論調に染まっていた。清華族を甘やかすな、少年法を改正して遡及効で死刑にしろ、なんなら今すぐ殺してしまえ、云々。SNSでは威勢のいい彼らも、現実には財閥企業の前で頭を垂れているのだろうな。そう思うと、なんとなく気持ちが冷める。

 この国で財閥と関わらずに生きてゆくのは難しい。インフラ、建物、農産物、自動車、家電。身の回りのあらゆるものには、その背中に巨大資本の屋号が刻まれている。桜野もその一つだ。製糸や衣料品を祖業として勃興した桜野財閥──現在の桜野グループは、自社製品の販路開拓のために始めた百貨店経営で大成功をおさめ、その裾野をさまざまな産業に広げていった。いま巻いている包帯も、仕事中だけ着けているメガネも、上京時に乗った飛行機の翼の材料も、みんな桜野グループ傘下の企業が生産した商品だ。

 財閥令嬢ってどんな気分なのだろう。

 貧乏な工場で育った私には想像もつかない。

 あの図書館で、あの少女の隣で、桜野瑞喜は何を思いながら暮らしていたのだろうか。

 殺人鬼の心境など知りたくもないのに、やることがないと興味を向ける先が欲しくなる。布団に埋もれながら私は夢の内容を思い出そうとした。暗闇のなかへ一本、一本、神経が千切れて、また脇腹の痛みが強くなった。


「──ごめんね! 球ぶつけちゃった」


 北山紫苑の悲鳴で私は我に返った。

 ずきり、と痛みが響いて、また遠くなってゆく。転々と足元で弾んだバレーボールの白球を、()()は脇腹を押さえながら拾い上げた。私はふたたび一年以上前の世界に戻っていた。広々とした校庭の一角にネットが張られ、体育の授業が行われているところだった。

 鈍くせぇな、と誰かが野次を飛ばした。サーブをぶつけた張本人の紫苑は、真っ青な顔でネットの向こうに佇んでいる。ばたばたと駆け寄ってきた同級生たちが、身を案じるように瑞喜を覗き込んだ。


「桜野さん、大丈夫だった?」

「痛かったら休んでもいいんだよ」

「桜野さんは何も悪くないからね。悪いのは下手くそなサーブ打ったあの子だから」


 誰に言われたでもないのに、同級生は口々に瑞喜の肩を持つ。瑞喜は「大丈夫だから」といって彼らを追い払い、手にしたボールの土汚れをそっと拭き取った。紫苑はまだコートの隅で小さくなったままだ。

 洛陽学園、洛陽殖産高等学校。

 ボールには校名の刺繡がなされていた。

 就寝前、瑞喜の通学先について少しだけ調べたのを私は思い出した。彼女が通っていたのは、いわば身内──近縁の財閥企業が資金を出し合って運営している私立高校のひとつだ。少子化の進むなかでも人材を確保するために、財閥企業の多くは各所に自社の支配する「学校」を作り、そこで育てた子供を社員として採用する仕組みを築いてきた。寄宿舎や奨学金を自前で整備して優秀な生徒を集め、有名大学に送り込み、卒業した彼らを自社グループで囲い込む。まさに学生側にも財閥側にもメリットのある仕組みだ。その頂点に当たるのが、桜野グループを筆頭とする複数の財閥によって設立された洛陽殖産高校なのだった。

 桜野瑞喜を称えることは、ここでは正解になる。

 なぜなら、栄えある桜野財閥に()()しているから。

 バン、と鈍い音を立てて瑞喜がサーブを打つ。ネットを越えて相手陣地に飛び込んだボールは、たたずむ同級生たちの脇を抜け、バウンドして砂煙を上げた。どう考えても打ち返せるはずの球を、誰も打ち返さなかった。「桜野さん上手!」「また点を取られちゃった!」──賑やかに飛び交う賛辞を、瑞喜はにこりともしないで聴いている。

 その目が、溜め息とともに細められる。

 視線の先には、ただひとりボールを追いかけてゆく紫苑の姿がある。早くしろよ、球拾いはお前の役目だろ。見守っている男子生徒たちが退屈そうに吠えている。


「何をやらせても下手だよね、あの子」


 同級生が苛々と話しかけてきた。


「いつもチームの足を引っ張るばかりじゃない。桜野さんにも迷惑かけてること、そろそろ自覚したらいいのに」

「私は別に迷惑だと思ってないわ」

「あの子、田舎の()()育ちなんだってね。奨学金を借りてまでこんなとこ来なければよかったのに。親も親だよ、定期試験のたびに赤点で生徒指導室に呼ばれるなんて、今までどんな教育してきたんだか……」

「どんな出自も隔てなく受け入れるのが洛陽(ここ)の理念でしょ。成績さえ伴えば、だけど」


 真水のように淡白な瑞喜の言葉に、同級生はすこし気まずい面持ちで口をつぐんだ。

 紫苑の拾ってきた白球を、彼女のチームメートが受け取ってサーブを放つ。どっと打ち上がったレシーブを、トスの一拍を挟んで瑞喜は敵陣へ打ち返した。お世辞にも上手じゃない、誰でも軌道を追うことのできる穏やかな一撃だ。それでも誰も打ち返さなかった。てんてんと転がってゆくボールを、また紫苑だけが追いかけた。




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