1-1 赤毛の新人
ベネル歴1412年4月1日、フィオラーノ連邦ロザリア神官騎士団ムーサ分駐所長のホイス・ジェラルド大尉はいつもどおり始業時間の30分前に出勤した。
連邦政府ムーサ庁舎の一角に間借りした分駐所事務室、広い室内には多くの机が並んでいるが使用されているのはごく一部だけで殆どが空いている。ホイスは空いた机を視界の片隅に捉えながら内心溜息を吐き、入り口から一番離れた窓側の所長席へと向かう。途中、先に出勤していたアンガレク・ワルター大尉と一言だけおはようと形式的に挨拶を交わす。ホイスは自席へと座り改めて室内を見渡した。自席で煙草を燻らせながら半ばこちらに背を向けるようにして新聞を読むアンガレクの他に人影はない。あと事務官が3名出勤してくるがそれがこの分駐所に所属する全ての人員だった・・・
3年ほど前、ホイスが赴任してくる前までは分駐所内全ての席が埋まるほどの人員が所属していた。だがムーサの隣街であるグロップに新港が出来たため多くの人員がそちらに新設された分駐所へ異動となった。ムーサ分駐所は2名の神官騎士と3名の事務官のみの配置、団直属兵員である神殿親衛隊の配置もなくなり必要な際にムーサ駐屯の連邦陸軍第15歩兵連隊から派遣を受けるという最低限の組織へと改編されていた。
ホイスは35歳、ロザリア神官騎士団、正式名称の連邦国家安全調査団と誰も呼んだりしないばかりか、公式文書などにも正式名が滅多に表記されないこの組織に籍を置いて13年が経つ。巡り合わせもあるが大きな功績を上げるとか大きな失点を犯すとか、とにかく何事もなく過ごしてきた。彼は自分の事を無能ではないが有能でもないと評価している。元所属の陸軍へ戻されることなく、閑職となり下がったムーサ分駐所長の職を得ている辺りが自分の微妙な人事評価を証明していると思っていた。そして自分にはこの職が相応しいと思っていた。
華々しい功績を上げたいという思いが全く無いわけではなかった。だが問題を起こしたりしてこの職を失いたくはないという思いの方が強かった。
ホイスは新聞を読んでいるアンガレクへと視線を巡らす。今日から野外活動に出る彼は神官騎士団の白い制服を着ていない。陸軍のものに近いデザインと布色を用いたオーダーメイドの野戦服を着ていた。26歳でホイスと同じ大尉の階級章をブラ下げている男だ。一応ホイスが先任であるので上官ということになっている。自分は同じ年の頃は中尉だったが何処で功績を上げたのか今の勤務態度、可もなく不可も無く、いや限りなく不可のアンガレクを見ているとホイスには甚だ疑問だった。もちろん、考課表を確認すればそれは一目瞭然なのだが。
(ま、このムーサにいるのだから、な)
その一言で全て片付けられるさとホイスは自虐的な笑みを浮かべる。するとホイスの視線を感じたのかアンガレクは新聞から視線を移しチラリと振り返る。ホイスは慌てて笑みを消し机の上の書類へ、前屈みになって視線を落とす。本人は髪の毛を前後左右から盛って隠しているつもりの、薄くなった頭頂部がはっきり見える。その様子をアンガレクは無表情で眺めると再びホイスに背を向け新聞へ視線を落とした。
(フン、ハゲ散らかしやがって。相変わらず変なヤツだ)
アンガレクに一応上官となるホイスへの敬意は全く無い。先任というだけで上官となっている無能な男だとしか思っていなかった。若い内にとんとん拍子で大尉まで昇進したアンガレクであったが職務上での人間関係の問題、俗にいうパワハラ問題を起こし2か月前にムーサへ異動となった。簡単に言ってしまえば左遷である。その処分には全く納得していなかった。仕事が出来ない者に遠慮する必要が有るのか?一体何が悪い?・・・と。
彼は自分を庇わず、躊躇なく左遷した神官騎士団本部への嫌悪感すら抱いている。だから中央へ戻るために発奮する気も無かった。さして重要な案件が発生する可能性もないこの地、ゆくゆくは廃止される運命のムーサ分駐所が最後を迎える日まで、適当な仕事を見繕いぬるま湯に浸かった生活を続けるつもりで彼はいた。有能であると自分を評価しているアンガレクにとって、自分がこの閑職に留まることが組織への嫌がらせ・・・いや、復讐だと考えていた。
始業時間まで5分、コンコンと扉をノックする音と若い女性の声が聞こえた。
「失礼します。レアニール・ニューロス少尉です」
アンガレクが新聞から視線を逸らさずに心底面倒臭そうな声音でどうぞと応える。
「おはようございます」
挨拶と共に扉が開けられる。入室してきた女性、ホイスと同じく神官騎士団の白い制服を纏っていた彼女はパンパンに膨れた軍用の大型背嚢を扉脇の床へと置くと被っていた青いベレー帽を取り一礼する。そしてホイスの執務机の前へブーツの足音を少々軋むマホガニー材の床に響かせてやって来た。
「レアニール・ニューロス少尉、ムーサ分駐所配置の命を受け着任しました」
ホイスの前に立った彼女はカツンとブーツの踵を鳴らし、気を付けの姿勢を取り再び一礼する。ホイスは文句の付けようのない綺麗な姿勢で腰を折り、頭を下げたままの彼女を思わず足元からまじまじと見てしまう。黒いタイツに包まれたスラリと伸びた脚、その先の白いブーツは真新しい。ウェルフトー新教の神聖文字が金糸で刺繍されたワンピース状の黒い短衣、その上に羽織った白い上着も真新しく初々しい印象だ。それよりも印象的なのは彼女の鮮やかな赤毛だった。それにしても・・・だ。
「聞いていない」
無思慮に思わず口から出てしまった。
「?」
ホイスの言葉にレアニール・ニューロスと名乗った若い女性少尉はその顔を上げて僅かに首を傾げた。セミロングの赤毛が柔らかく揺れて整った顔立ち、深い紫色の瞳がホイスを見つめる。着任の挨拶を真っ向から否定されたにも関わらず驚いた様子もない、全くの平静といった表情だがその眼差しに心の中を見透かされているような、例えるならば異端審問官と相対しているかのような気分にホイスはなった。
(もしかして抜き打ちの監査か何かか?)
真新しい制服、この時期で少尉という事は新人と考えるのが妥当だ。だが新人にしては落ち着き過ぎているようにも見える。そこでホイスは抜き打ちの監査なのかと思わず嫌そうな表情を浮かべてしまった。
疑う所は多々ある。だけれど分駐所長たる者であれば平然とそれに相対すべきなのだが・・・その辺りの腹芸が出来ない辺りが彼の限界であった。そんなホイスの表情の変化を見て取ったレアニールは気にもしない様子で、脇に抱えていた革製の書類ケースから内示書を取り出し半歩前に出るとホイスへ差し出した。
「こちらをご確認ください」
ホイスはそれを受け取り一度レアニールの顔を見てから視線を落とした。
「内示、レアニール・ニューロス、少尉に任ずる。ムーサ分駐所への着任を命ずる」
ホイスは思わず声に出して読んでしまった。だが彼の疑念はそれで晴れたわけではなかった。彼の頭の中では警報音が鳴り響き続けている。新人がムーサに配属されるわけがない、これは何か裏があるのではないか?辞令ではなく内示という辺り正式な記録を残さないためなのか?隊名の名乗りは無かったがベレー帽や制服のパイピングは青、別に青隊の管轄ではないムーサ分駐所に、自分やアンガレクに続き3人目も青隊所属だと?偏り過ぎだ、これは偽装だ。探られて痛い腹があるわけではない。いや、その痛い腹が無い事の方が問題なのか?ああ、畜生!何が正解なのだ?この事務室で勤務させるのは危険ではないのか?と。そこでホイスはアンガレクが今日から数日間、ムーサ近隣で続発している野盗の調査に出向く事を思い出した。
「ワルター大尉、ちょうど良かった。貴殿の調査にニューロス少尉を同行させたまえ」
良い思い付きだと思ったのだろう、ホイスの声は少し上擦っていた。その声音にアンガレクは心底嫌そうな顔を新聞から上げた。何がちょうど良かっただよ、クソったれ!と。
先ほどからのやり取りに聞き耳を立てていたアンガレクはホイスとは異なる見解を持っていた。新人がムーサに配属となる、前例が全く無かったわけではないことを彼は知っていた。確か縁故人事で能力的に難がある者を仕方なしに配属した話があった、そしてその新人は1か月ともたず神官騎士団を辞めた・・・と。
9年前に実際あった話ではあったがアンガレクはその真相、全てが諜報工作の偽装であったという事を知らない。もちろん真相は極秘情報であったからなのだが、その上辺だけの情報でアンガレクはレアニールの事を無能な新人なのだろうと断定していた。だからレアニールを押し付けられて元々嫌悪感しかなかったホイスへの感情がさらに悪い方へと進んだ。嫌いから大嫌いになった、そんな具合だ。彼は調査の概要をレアニールに嬉々として伝えているホイスに侮蔑の目を向けた。
仕事している気になっているんじゃねぇぞ、ハゲ!・・・と。
「おい、新人!行くぞ」
ホイスの説明の途中だったが新聞を無造作に机の上に放り出してアンガレクは立ち上がると足早に部屋を出て行った。
「お、おい、ああっと、申し訳ございません、すぐに後を追っていただけますか?」
レアニールを監査官だと勘違いしているホイスはそれに慌て思わず敬語を用いていた。
「レアニール・ニューロス少尉、ムーサ周辺での調査任務に就くべく行ってまいります。それと私の荷物が分駐所宛てに届きますので帰所するまで保管いただければ幸いです」
ホイスはレアニールに承知いたしましたと、これまた敬語で答えていた。レアニールは生真面目な顔で再びホイスに一礼し踵を返す。特に形式ばった動作ではなかったが、先ほどから様子を覗っていた事務官たちが賛嘆するような颯爽とした身のこなしだった。レアニールは入室してきた時と同様、ブーツの靴音を響かせ入り口まで進み、背嚢を担ぐと振り返り部屋の中の一同を見渡した後に深々と一礼した。そして小走りにアンガレクの後を追って行った。その後ろ姿を見送りホイスは安心したかのように、ため息を吐いて椅子の上で脱力した。
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ホイスが野盗発生レベルの事件を神官騎士団が調査するというのは、中央からしたら暇な部署と思われかねない事に気付き真っ青になったのはアンガレクがレアニールを連れて出発した30分後のことだった。
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