1-0 第1章プロローグ・18年前、冬の終わり
冬の終わりの冷たい雨が降る深夜の古ぼけた小さな教会。その扉は何時いかなる時であっても来る者を誰も拒まずで、この時間でも施錠などされていない。
その扉の前に1人の女がたどり着いた。軋む扉を開け、左腕に赤子を抱いた女は重たく濡れた外套を捨てるようにして脱ぐと一瞬倒れかける。数歩よろけた女の身体は血まみれだった。その身体を引きずるかのようにして女は狭い礼拝堂の中を祭壇へと進む。赤子を抱く左腕には布切れが雑に巻かれていた。その左腕は手首から先が喪われていた。自身の血と返り血で身体を赤く染め上げた彼女の右手から血塗れの剣が滑り落ちるようにして補修跡だらけの床に、金属の乾いた音を立てて転がった。その床にポタポタと血を滴らせながら女は進んだ。彼女の脇腹からは止めどなく血が流れ出していた。女の顔、元は美しかったてあろうその半分は醜く焼け爛れ左目は潰れている。暗がりでも解る赤毛も汚れて乱れ、まるで流れ出した血のように顔へと掛かっている。女は祭壇に辿り着くと倒れ込むようにして膝を付き左腕に抱えた赤子を祭壇に置いた。
「ごめんね・・・私はここまで・・・ごめんね・・・」
女は縋り付くようにして赤子に語り掛ける。そして失われた左手がそこにあるかのように、右手と組み合わせるかのように祈りの姿勢を取る。
「神・・・よ・・・汚れきった・・・わた、私の・・願いな・・んて聞いて・・くれないかもしれ・・・ませんが・・・ど・・うか・・この子だけでもお助け・・・ください・・・」
最後は消え入りそうに言葉を唱え終えた女はドサリと床に倒れた。その時、祭壇脇の扉から神父が出てきた。
「どうされました?」
彼は祭壇に置かれた赤子を一瞥した後、女の身体を、所々当て布で補修された古びた法衣が血で汚れる事も厭わず助け起こす。
「酷い怪我だな・・・でも大丈夫ですよ、助かります。安心してください」
混濁する意識で女はその言葉を聞いた。神父の言葉は赤子の心配は無いと死にゆく自分を安心させるものだと受け取った。
「神父さま・・・お願いです、この子を、この子をお願いします!」
女は最後の力を振り絞るようにして神父に縋り付く。神父はコクリと頷きながら女の左手に巻かれたボロ布を剥がす。止血の為に自ら焼いたのだろうか、切断面は黒く焼けていた。女の視界はボヤけてきた。神父が優し気な笑みを浮かべ頷いた後に目を閉じたのを見て自分の死期が来たと悟った彼女は気が抜けたように息を吐いた。そして残された右目の瞼が自然と綴じ、意識が落ちようとしたその時、力強いウェルフトー語が聞こえた。
『治癒』
暗転するかと思った意識がはっきりしてくる。寒気を覚えていた全身が暖かくなるのを感じた。これが死後の世界へ行くという事なのかなと女は思った。死後の世界か、どんな場所なのだろうと、女は目を開けた。そこは古ぼけた教会の中のままだった。だが先ほどまでと違って視界が鮮明だ。女は自分の左目の前に左手をかざした。焼かれ潰された左目はしっかり見えている。いや、喪われた左手の先もある。
「・・・え?・・・ええっ!?」
思わず両手で顔に触れる。焼け爛れていたはずの顔にはその痕跡も無い。右の脇腹へ手を当てると致命傷と思われた傷も消え何処に負ってたかも解らない。これが死後の世界なのか?いや、目の前の祭壇には一緒にここまで逃げてきた、穏やかな顔で眠る赤子の姿・・・
「まだ痛む所はありますか?」
何が起きたのか理解が追い付かない女の肩に毛布が掛けられる。優しいその声に顔を上げれば神像のような慈悲深き笑みを湛えた女性、神父と同様に粗末ともいえる法衣を着た女性神官が声を掛けてきた。
「・・・大丈夫です」
女はそれだけ言うのが精一杯だった。見れば法衣を着た女性は赤子にも毛布を、慈しむように丁寧に毛布を巻いていた。そして赤子を抱き抱えると女へと差し出す。女は静かに首を振る。
「私には・・・私にはその子を抱く資格なんて本当は無いのです・・・」
女は俯きポタポタと涙を床へ垂らす。それきり女は何も言わない。神父たちは女を見守るだけで何も言わない。女性神官は赤子を神父に渡すと女の肩を抱いて優しくさすった。
「話したくなければ話さなくても構いませんよ」
女性神官の言葉に頷いた女は声を殺して泣いた。どれくらい経ったか、女は姿勢を正すと床に手を付き頭を下げた。
「神父さま、この子をお願いします。私は追われる身、私と一緒にいてはこの子にも危険が・・・」
神父は女性神官へ視線を向ける。目が合うと彼女は小さく頷いた。
「わかりました。お任せください」
赤子を抱いたままの神父は優しく、だが力強く言う。その言葉に女は安堵の顔を浮かべるがすぐに顔を曇らせた。
「教会に赤子が置かれているなんて日常茶飯事です。何の問題もありません」
女の心配を見て取った女性神官が優しく声を掛ける。
「ありがとうございますありがとうございます・・・」
女は嗚咽混じりに何度もお礼を言う。女が落ち着くのを待ってから女性神官が尋ねる。
「あなた、これから行くあてはあるのですか?」
女は小さく首を振る。
「ならば・・・手紙を書きます。それを持ってロザリア神殿のジェイナス・マレンコフ大司教を訪ねてください。あの方なら悪いようにはしないはずです」
それを聞いて神父は少し苦笑したように女には見えた。女性神官がチラリと神父を見ると小さく頷いてジェイナスなら大丈夫だと言う。
傷が癒えたとはいえ逃避行を続けた女の体力は消耗していた。女は2日ばかりを小さな教会で過ごした。それは赤子と過ごす最後の時間でもあった。そして女が旅立つ日がきた。
女は女性神官が洗濯し繕ってくれた服を着て手紙を携えてロザリアを目指す。見送りの時、神父が尋ねた。
「この子の名前は?」
名前を尋ねられて女は伝えるべきか迷った。いや迷う必要なんてない、この子の名前は唯一つだけこの子に残されたものなのだから。女ははっきりと告げた。
「レアニールです」
「レアニールですか・・・良い名前ですね」
そして女は赤子を残して旅立った。
ベネル歴1394年、3月の終わりのことだった。
それから18年の歳月が流れた。
ヒュイーン・・・
タービンの回転音を響かせて魔導機関搭載二輪車、一般的に魔導バイクと呼ばれるそれが走っていた。夜明けから数時間、未明まで降り続けた雨のおかげで所々水溜りの残る未舗装路だ。避けて進む事が出来ない大きな水溜りを派手な水飛沫を上げて突っ切っていく。道中もそうして進んできたのだろう、魔導バイクを操る彼女はその所属を示す白づくめの衣装を泥塗れにしていた。軍用ヘルメットから覗く赤髪もそれを浴びたのかくすんだ色に見える。
まるで空へと昇るような緩やかな登り坂が延々と続く道、その頂点に達した所で彼女は魔導バイクを停めた。その眼前、高低差100メートルほどもある急斜面の下には港町が見える。その向こうには白波が斑に見える海。ゴーグル越しにその風景に目を細めた後、彼女は魔導バイクのメーター、そこに組み込まれている時計へと視線を落とす。
「ふぅ・・・良かった、間に合いそうだね」
小さく息を吐き出し、安堵からか独り言ちる。目的地は眼前、最後のひと踏ん張りとばかりに彼女はバイクを再び走らせた。