誰かを笑顔にすること、誰かに笑顔をみせること
いつも通り、正月は実家の秋田に帰省している。
両親がいなくなって二回目の正月。兄夫婦と甥っ子姪っ子が温かく迎えてくれて本当にありがたい。
秋田という場所が故郷なのではなく、両親がいる場所が故郷なのだということに気が付いたのは、親が年老いてきてからのことだった。いつまでも自分は子供で、いつまでも両親は頼れる存在だった。
二人とも旅立ち、それでも、精神的には未だにすがる存在であるということに気が付いて、ようやく親の大切さが身に染みてわかった気がした。なくなってしまったとしても、「元気でいるかな。」などと、真剣に思えるのは、今まで与えられた愛情によって、僕の心を育ててくれたからだろう。
姪っ子は、4年ほど勤めた臨床心理士を辞め、芸術大学に入るとのことだった。やりたいことが沢山あって、いつでも何かを楽しみたいと思える気質は僕も同じだったため、引き留める気は一切起こらず、その経験を生かして新たな世界に飛び出す背中を喜んで押してあげられた。
そんな人の心理を長年研究していた姪っ子だから、
「芸術を創り上げることは、自分の欲求のためか、それともそれに共感、承認してもらうためか」
という質問を投げかけた。自分の欲求のためだけにそれを創り上げるのであれば、発表したり展示したりして人に見せる機会などいらないはずで、姪っ子はどういう欲求で芸術を志したいと思ったのか、純粋な気持ちで質問してみた。
「自分の創りたいものを自分のために作るけど、それを展示した時に共感されることもこの上ない喜びに感じる。」
という答えだった。
どっちだけという気持ちではないだろうし、僕も自分の気持ちをこのエッセイという形でつらつらと書いてはアップしている。自分のためだけなら誰にも見せないノートに書きこんでしまっておけばよいのだけど、こういう場に公開するというのは、僕自身もどこかでそれに共感してもらったり、違う角度から批評してもらったりすることを求めているのかもしれない。
もしかしたら、誰にも見られないよう、自分だけに何かを創り上げる人は強い人で、少しでも誰かの目に触れるようにしたい人は、共感されることで自分の自信を後押ししてほしい人なのかもしれない。
「これさ、どうかな?」
そうやって友人や家族にみせるというのも、ちょっと背中を押して欲しい現れなんだと思う。
人は、そうやって誰かに背中をそっと押してもらって、自分自身に自信をつけていくのかもしれない。
僕自身、何かをやり遂げたというものなど何もない人間だけど、親の諦めることのない期待や激励、優しい言葉と慰めによって、自分の自信や尊厳を育ててもらいながら生きてこれた気がする。
いつか二人に再び会うときに、
「実はあのあとさ…。」
と話が出来るくらいはやり遂げてから会いに行きたい。
もし何かをやり遂げれたら、「おお、よくやったな!」と言ってくれるだろうし、もし何もできなかったとしても、「まあ次頑張れよ」と言ってくれるに違いない。
その言葉とともに、お袋と親父の笑顔が目に浮かんでくる。
人が何かに挑戦しようと思うよりどころは、そうやって自信をつけてくれる人達が見せる笑顔が見たいからに違いない。
お袋を喜ばせたい、親父を喜ばせたい。
僕も誰かの自信を後押しできるような、そんな笑顔で喜びを表せる人間になれたのなら…。
多分、その話を聞いた親父もお袋も笑顔になってくれる気がする。




