合流地点
久しぶりに仲間達とご飯を食べに行った。
前回あった時からどのくらい経っただろうか?と振り返ったら一年ぶりくらいで、色んな事に振り回された今年一年の忙しさを実感した。
集まった仲間は自転車乗りの仲間達。それぞれ所属するクラブチームがあったりもするけど、それとは別に練習を共にしたりする仲間だったりする。インターネット上で出会い、実際に一緒に走るようになって、チームも作り、時間が合えば一緒に峠へ練習に行った。
僕らはツールのようなチームで出るレースには出なかった。それぞれ住む場所も違えば、時間的余裕も少なかったので、もっぱら出るレースはヒルクライム中心。その練習を共にする仲間で、いざレースが始まれば個人個人の戦いになった。練習でも、それぞれの能力の違いがあるので、峠までの道中と帰り道は一緒だけど、練習がスタートすれば、各々バラバラに登っていく。それでも、何の意味があるわけでもない、老若男女が必死の形相で自分のすべてをさらけ出すヒルクライムの練習を一緒にすることが出来るのは、それを温かく見守ってくれる仲間がいるからに違いないと思う。ゴール地点の峠の頂上で再びおち合い、下り道を一緒に走りながら今日も一日頑張ったね、今度はどこの峠に練習へ行こうかなどと話しながら帰っていく。ほとんど体力がすっからかんの身体を引きずって、帰りの50キロを漕ぎ続けられるのも、同じ仲間がいるからに違いなかった。
お互いの近況を話し合う。
数か所の保育園を運営する友人は、保育士さんたちの内部での足の引っ張り合いに悩まされていた。それが子供やその親たちにとってプラスになる議論ではなく、お互いの意地の張り合いになっていることがとても不毛で管理することがとても難しい様子。
行政にかかわる仕事をしている大会で優勝することもある我がチームのエースの女性は、先輩の意地悪をさらりとかわすように頑張っているようだけど、力強い同志がいないようで、少しへばり気味だった。
もう一人の女性は、足枷だった嫌な先輩たちが、事業の整理と共に排除され、今はのびのびと働くことが出来るようになったようで、案外元気そうだった。
給料がもらえて、誰かの笑顔を作ることが出来て、やりがいのある仕事で同僚が足を引っ張ることが僕には理解できない。何の意味もなく、お金を使った上、体力の限界を迎えて倒れたり、転んで事故を起こしてしまうロードバイクという趣味は、互いに支え合い、でも一人一人が自分の最大限の努力をすることを厭わない。
「山を自転車で登るって、何の意味があるの?」
自転車乗りは良く言われる。意味なんて無い。意味が無きゃ何もできない人は、多分、意味があることも最低限の力だけで済まそうとするように思えてしまう。
そんな思いを抱え、僕らは各々自分の仕事の環境の中、もしかしたらおかしいのは自分の方なんじゃないか?という疑問を抱えて生きていた。
でも、仲間たちに出会ったとき、やはりこの仲間たちは一緒にいるだけで自分を奮い立たせ、支えてあげたいと思える仲間達だった。そんな話をしていたら、久しぶりに会う仲間達だったけど、感極まってみんな涙ぐんでしまった。そんな姿を見せられるのも、自分の限界を晒すことが出来る仲間だからかもしれない。
「今度はもうちょっと早めにご飯食べに行こうね。」
もしかしたら、ここは峠の頂上、合流するゴール地点のようなものだったのかもしれない。
じゃあ次の合流地点まで、先にあそこで待っているから自分のペースでおいで。うん、今日はパワートレーニングするから先にあそこで待っていて。そんないつもの練習風景と同じような感覚がした。
皆を家に送り届け、一人一人自分たちの生活に戻っていく。皆も次の合流地点に向けて、頑張って生活という練習にチャレンジするだろう。そしてまた、違う峠の頂上を目指して生活を頑張っていく。その先のゴールに、信頼する仲間たちが待っているから、頑張って生きていけるような気がする。
「お待たせ、今日も頑張ったね。次はどこの峠に行こうか?」
人生のゴールと言うものが何かは分からないけど、そこにはそんな仲間達が待っていてくれているような気がする。




