アンテナの感度
さあ、暇な時間が出来たから、何かお話でも書こうかとも思うんだけど、まあ、そう面白い話が出てくるわけでもない。その上、面白くない話ですら浮かんでこないからやっていられない。
なんだかアンテナの感度が落ちたように感じる。
昔、仕事のブログを、なんでも良いから一年間毎日更新しようと思って頑張ったことがあった。最初の頃は、ためになることやら面白いことやら考えて書いていたけど、それではすぐにネタが尽きる。そのうちに、毎日更新に追われていって、一つ話しを書き上げてはホッとし、その直後から明日のネタはなにか無いかと不安に苛まれる。
そのうちに、どんなときにも見たり聞いたり読んだりすることから、なんでも良いから思い浮かぶことはないかと言うことばかりで頭が一杯になった。
クライアントとの何気ない話、通勤途中に見える街や人々の姿から思い浮かぶ事、立ち寄った本屋にあった新作本の表紙に書かれた題名から連想した自分の気持ち、なんでも良いから文章の種を探すようになった。
数ヶ月書いた頃、書くことがそれほど苦痛ではなくなってきた。ちょっとした何かから話を書くことができるようになってきた。聞いた話や実際に起きた事実のままでは面白い話にはならないときは、そこから面白くなるように話を創作して面白い結末に変えることもできるようになった。一端のデッチ上げ師だ。
ブログのビュー数も、会社の名前で出していたものだったけど、日に数人だったビューも、500くらいまで増え、コメントも返してもらえることが多くなった。
一年が経ち、毎日更新を止めた。
それでも、面白い記事や為になる記事は検索エンジンから毎日コンスタントなビュー数があり、それが数年は続いた。
でも、一度辞めると、毎日書くことはできなくなった。その上、サボりぐせがついてしまったため、たまに書くのも難しくなり、一ヶ月に一回くらいの頻度になってしまうと、ページビューもどんどん減っていき、特定のページ以外は読まれることもなくなり、20ビューあるかないかくらいまで落ち込んだ。
結局、文章を書くことよりも、一つの話の始まりから終わりまでをパッと思いつくことができる能力が大切なのではないかと思う。書かなくなった途端、ちょっとした物事から話を思いつく能力が筋トレをやめた体と同様に、どんどんやせ細っていってしまった。
そして何より、自分で物語を創作する力は別物だった。
なにかの種をベースとして、話を作ることは出来ても、その殆どがオリジナルとなるような自分の空想から生まれ想像できた話を書くことは、また別の能力だと感じた。
それでも、やはり書いて書いているうちに鍛えられる力は大切だなと思う。敏感で感度の高い感性と、即興で話をまとめ上げる構成力は筋トレのような努力で鍛えられる部分だと感じた。その下地があっての物語の創造ができるのであって、話を思いつかない上に、まとめることも感じることも鈍くなっては、ますます物語を作り上げることの足を引っ張るばかりだろう。
だから、何でも気にして、少しでも浮かんだ気持ちは、すぐに文章に起こすことが大切だ。
鈍ったアンテナの感度をもう一度高めるのはなかなか大変。でも、面白くても、面白くなくても、まずは文章を考えて、そして、それをしっかりと書き上げるということからもう一度始めたいなと思う。
いつか、それが、誰かの心に届くような文章が書けるようになるまで。