第3話 最初の一ページ
それから、どれだけの時間が経っただろうか──。
「ああああああああああああああああああああ!?」
アーニャの神殿はとうに見えなくなり、二人は自由落下を続けていた。
真っ暗な闇の中で飛鳥の叫び声だけが響く。
「嫌だああああああああああああ!! 死にたくないいいいいいいいいい!!」
「お、落ち着いてください! 飛鳥さんは既に一度死んでいますから!」
「フォローになってませんけど!? 死ぬなんて一度で十分ですよ!」
飛鳥を落ち着かせようと、アーニャは彼の手を握り微笑んだ。
「着くまでこうしていますね。大丈夫ですよ、私がついていますから」
「は、はい……」
飛鳥は真っ赤になり、顔を背けてしまった。
何はともあれ落ち着いてくれたようだ。
直後、二人の体が光を放ち始めた。
飛鳥が目を見開く。
「これは……!?」
「始まりましたね。これから行く世界に合わせた服と、もし武器があれば作られますから、じっとしててくださいね」
自身の体を見つめていると、光が輪郭を帯び始めた。
形作られたのは、白い上着にブラウンのショートパンツと黒いブーツ。
右足だけ黒いオーバーニーソックスも履いている。
最後に、お尻まで丈のあるクリーム色のジャケットが現れた。
「武器の類はなし……っと」
アーニャは全身を確かめ、呟いた。
一方、飛鳥はというと──。
詰襟の黒い上着と黒いズボン、革製の黒いロングブーツ。
更に、留め具が銀のチェーンになっている黒いマントと、アーニャとは対照的に全身真っ黒な恰好だ。
腰にはこれまた鞘も柄も鍔も黒い、飛鳥の身長ほどもある長剣が出現した。
どうやら飛鳥には剣士としての能力が与えられたようだ。
「よく似合ってますよ」
そう伝えると、飛鳥は照れたように頭をかいた。
「アーニャ様もとっても似合ってます! それにその、可愛いです……!」
「ありがとうございます♪ あ、そろそろ着くみたいですね」
少し先に落ちた時と同じ穴があり、そこから地面が顔を覗かせている。
「あれが……!」
興奮しているのか、飛鳥の手に力が入る。
「私たちが救うべき世界です。着いたら『神ま』で状況を確認して、まずは当面の生活拠点を探しましょう。着地の衝撃は大きくないので安心してください」
「はい!」
飛鳥も着地の体勢を取った。
「では! とうちゃー……」
『く!』と同時に生温かい液体が体中に飛び散った。
それと、何かが地面に倒れる音が一つ。
「「…………」」
何が起こったのか分からず、二人ともその場で固まってしまった。
錆びた金属のような臭いが鼻をつき、アーニャが顔をしかめる。
この臭い、まさか……!
これまでの旅で幾度となく嗅いできた、でも、決して好きにはなれない臭い。
とすると、先ほどの音の主は恐らく。
二人とも恐る恐る目を開ける。
顔を見合わせると、互いの全身にスプラッタ映画よろしく真っ赤な血がベットリと付いていて、二人は叫び声をあげた。
「きゃああああああああああああああ!?」
「うわああああああああああああああ!?」
地面に視線を移すと人が倒れている。
案の定、その体には首がない。
「こ、これ、は……」
飛鳥は青ざめ、ヨロヨロと後退った。
アーニャが急いで飛鳥の体を支える。
「飛鳥さん! 怪我はないですか!?」
「は、はい……。僕は何とも……。でも……」
「一度ここを離れましょう。何が起きているのか確認しないと──」
しかし、そこで怒声を浴びせられた。
「おい! てめぇら何者だ!」
声の方へ目を向けると、金属製の鎧と剣を身に着けた男が立っていた。
剣からは血が滴り、警戒心に満ちた表情を浮かべている。
足元の死体はこの男の仕業だろう。
「てめぇらどっから現れやがった!? さては帝国の兵士だな!?」
「て、帝国? あのっ、私たちは──」
「うるせぇ! 魔王の手先が! 死にやがれ!」
男は剣を構え二人に迫った。
迎撃しようとアーニャも身構える。
こんなところでやられる訳には……!
「「はっ!」」
アーニャが男の腹へ蹴りを叩き込む直前、飛鳥が剣を弾き飛ばした。
「ぐぉ!?」
「えっ……?」
「アーニャ様! こっちに!」
飛鳥はアーニャの手を握り走り出した。
しばらく走り、二人は民家の影に腰を下ろした。
顔についた血を拭い、アーニャは頭を抱えた。
どうなってるの!? 今までは街の近くとかのどかな草原とか、そういう場所に出てたのに! 何で今回に限っていきなり殺人現場なの!?
飛鳥の方へ目をやると、黙ったまま俯いている。
無理もない。
飛鳥が生きていた日本という国は、もう何十年も戦いなど起きていない、地球の中でも特に平和な国だ。
それに『神ま』を読んだ限り、彼は犯罪に巻き込まれるどころか喧嘩すらほとんどしたことがない。
ショックを受けるなという方が無理な話だ。
私がちゃんとしないと……!
「飛鳥さん……。大丈夫……じゃ、ないですよね……。でも、心配しないでください! すぐに『神ま』で調べて安全なところへ──」
そこへ女の悲鳴と子どもの泣き声が聞こえてきた。
今度は何!? この町で一体何が起きてるの!?
民家の影から少し身を乗り出し、辺りの様子を窺いアーニャは目を見張った。
視線の先には、地面にうずくまっている親子らしき二人と、先ほど襲ってきた男と同じ格好をした男の姿が。
さっきの人と同じ! ひょ、ひょっとして盗賊団か何か!?
そこでようやく気がついた。
町の至るところから悲鳴と怒号が聞こえ、連続して爆発音が響いている。
今度こそアーニャは髪をかきむしった。
うわああああああああああ! 益々状況が分からないよおおおおお!
「お願いします! どうか命だけはお助けください!」
母親らしき女は子どもに覆い被さり、泣いて頼み込んだ。
だが、男が首を振る。
「駄目だ。町の連中は全員殺せとの命令だ」
「どうして!? 私たちが何をしたって言うんですか!?」
「うるせぇ! 畜生が喋るな!」
男が女の顔を蹴り飛ばすのを見て、アーニャは思わず目を背けた。
ごめんなさい……。ごめんなさい! でも、まだ分からないことだらけだし、ここで飛鳥さんにもしものことがあったら……。
アーニャは心の中で何度も謝りながら『神ま』に手を伸ばす。
しかし、その目の前で飛鳥が鞘から剣を引き抜いた。
震える声で彼に尋ねる。
「あ、飛鳥さん……? 何をする気ですか……? まだ私たちにどんな能力が与えられたかも分からないんですよ!?」
「大丈夫だ。もう視終わった」
「えっ……?」
それだけ言うと、飛鳥は走り出した。
「待って!」
アーニャが手を伸ばすが、飛鳥へ届くことはなかった。
男が剣を大きく振り被る。
「これも仕事なんでな。恨むなら俺たちじゃなく、獣人に生まれた自分を恨──」
「そこまでだ」
「め?」
飛鳥が男の目の前を駆け抜けたかと思うと、次の瞬間、男の頭と両腕が宙を舞った。
残った胴体から勢いよく血が噴き出し、地面に崩れ落ちる。
女の悲鳴が響き渡った。
だが、飛鳥は振り向かない。
眼前を見据えたまま、剣を構えている。
すると悲鳴を聞き付けたのか、同じ格好の男たちが集まってきた。
「なっ!? おい! これはてめぇがやったのか!?」
「だったら何だ」
「この野郎……! 生きて帰れると思うなよ! てめぇら! やっちまえ!」
迫りくる男たちに、飛鳥は溜息を吐いた。
「やめておけ。やられ役の台詞だぞ、それ」
飛鳥が横薙ぎに剣を振るう。
それだけで先頭にいた三人の首が、まるで果物でも切るかのようにあっさりと飛んだ。
残りの者たちが一瞬怯むが、飛鳥はお構いなしに突っ込んでいく。
あっという間に、一団は物言わぬ肉塊と化してしまった。
──どうして……何で……!?
その光景に、アーニャは立ち尽くした。
何で……飛鳥さんは戦えるの……?
『救世の英雄』には対象の世界を救う為の能力が与えられる。
飛鳥の剣術も恐らくその一部だ。
しかし、それだけなのだ。
与えられるのはあくまで能力と装備だけ。
その者本来の人間性が変わることはない。
これまでの人生を見る限り、飛鳥は平気でこんなことができる人間ではない。
躊躇いなく剣を取れるような人間ではない。
それぐらい、平和で戦いを知らない人生を送ってきている。
もしかして、精神に変化を及ぼす能力が与えられて……?
震える手で『神ま』を開くが、悲鳴と共に落としてしまった。
「きゃあっ!? 何……これ……!?」
飛鳥について書かれたページはインクを垂らしたような真っ黒い染みに埋め尽くされていた。
付与された能力はおろか、神殿で見た情報まで確認できなくなっている。
こんなことは初めてだ。
慌ててページをめくるが、他のページはいつも通り、変化はない。
得体の知れない恐怖に包まれ、アーニャは息を呑んだ。
その時だった──。
急に辺りが眩い光に包まれる。
視線を戻すと、飛鳥の剣が荒れ狂う雷を纏っていた。
あれも飛鳥さんの能力なの……!?
「咆哮せよ──」
飛鳥が両手で剣を構える。
そして、新たな一団に向け勢いよく振り下ろした。
自らが手にした剣の名と共に──。
「レーヴァテイン!!」
雷が巨大な渦となり、空間ごと抉りながら進んでいく。
男たちは渦に飲み込まれ、跡形もなく消し飛んでしまった。
「……ッ!」
程なくして、残った者たちは撤退を開始した。
中には泣き叫んでいる者もいる。
その後、町には静寂が訪れた。
だが、誰も喜びの声をあげない。
飛鳥が助けた親子も悲鳴をあげ逃げてしまった。
その心中は容易に想像ができる。
盗賊団らしき連中を退けたとは言え、彼らにとっては自分たちも得体の知れない存在だ。
同じ目に遭うのではないかと、恐怖と疑念が渦巻いているのが肌で感じられた。
飛鳥は振り向き、アーニャを見つけると微笑んだ。
その笑顔は、初めて見せてくれたものと同じで──。
だから、湧き上がってくる恐怖も疑問も全て黙らせ、アーニャも同じように微笑んだ。
これが二人の、救世の旅の最初の一ページとなった。