第16話 トリックスター(4)
そこには、闇が広がっていた。
必死に目を凝らしても終わりが見えない、夜よりもなお深き闇の世界。
そんな空間を飛鳥は漂っていた。
とは言ってみたものの、漂うという表現が適切なのかは分からない。
妙な浮遊感を感じるだけで、どこかに向かって進んでいるのか、或いは止まっているのか。
試しに腕を動かしてみた。
次に足を、首を。
どうやらまだ五体満足な状態らしい。
ここは精霊術の中か……。早く脱出しないと……!
脳裏にある光景が浮かび上がる。
それは大好きな、一番大切な人の笑顔。
まだ一月にも満たないが、愛しい彼女と過ごした記憶。
そして、その笑顔が──。
思わず彼女の名前を呼んだ。
だが、発した筈の声は自身の耳にさえ届かない。
飛鳥は全身に力を込め、もう一度叫んだ。
今度は相棒である剣の名を。
しかし、反応はない。
ダメか……。どうすれば……。
すると、頭上に淡い光が現れた。
あれは、出口か……!?
光に向かって必死に手を伸ばす。
だが、光から現れたのは愛しい人でも相棒である剣でもなかった。
現れたのは見たこともない女であった。
彼女の姿に、飛鳥は目を疑った。
右半身は非常に美しく、すぐに思い浮かんだのは奇しくも愛しい人と同じ『女神』という存在。
しかし──、
もう半身は酷く醜く、腐り果てた骨と皮だけの、まるで映画に出てくるアンデッドのような姿であった。
酸っぱいものが喉に上がってくるが、それでも飛鳥は『女神』から目を離さない。
そうしていると、『女神』が口を開いた。
右半分は滑らかに、もう半分は皮が剥がれながら、ぎこちなく。
紡がれた言葉はこう告げていた。
「裁定を下す。汝の魂、勇士に非ず。故に──」
その瞬間、全身が凍えるように冷たくなっていく。
だが、飛鳥に怯えは無かった。
何故なら──、
「悪いな。もう視終わったよ」
『精霊眼』からの情報を頼りに雷撃を放つ。
目の前がガラスのようにひび割れ、景色が変化した。
腕に刺さった黒い帯を引きちぎるのと同時にアクセルを蹴り飛ばす。
「がっ!?」
彼は受け身も取れず、床を転がった。
その顔には信じられないものを目の当たりにしたような、明確な焦りの色が浮かんでいる。
「てめぇ、何をした! 何故そいつを解除できる!?」
アクセルが重力球と黒い槍を放つ。
しかし、飛鳥が床を蹴ると雷が壁のように噴き上がり、あっさりと防いでしまった。
「言った筈だ。視終わった、と」
飛鳥はゆっくりと、一歩ずつアクセルに近づいていく。
「そうかよ。全く厄介だなァ、『精霊眼』ってのは!」
白兵戦に持ち込もうと考えたのか、アクセルが間合を詰めた。
飛鳥に先ほどまでの怯えはもうない。
レーヴァテインがアクセルの肉体を捉えた。
左腕と右足を斬り飛ばし、再び心臓を突き刺す。
更に顔に蹴りを叩き込んだ。
「いやああああああああああああああああああああ!!」
リーゼロッテが叫ぶ。
青ざめ、へたり込む彼女の手をアーニャが握った。
「飛鳥くん……。もう、やめて……」
アクセルは動かない。
彼を見つめ、飛鳥は立つよう促した。
「何をしている。頭以外ならほとんどダメージは無いだろう? ……お前はもう、人間じゃないんだから」
飛鳥の言葉に、リーゼロッテは耳を疑った。
「は……? 人間じゃ、ない……?」
「信じられないことだけど、この眼に映ったならそうなんだろ。お前、どうやってそんなものを手に入れた? お前が受けた実験って一体何なんだ?」
アクセルの指先がピクリと動き、彼は顔を上げた。
そこには激しい憎悪が浮かんでいる。
「複数の属性を操る。それがお前の『特異能力』かと思ったが違うな。氷は魔狼ヴァナルガンド、大地は世界を支える大蛇ミドガルズオルムに由来するもの。そして、闇のエレメントは冥府を統べる女神ヘルの力だ」
「……黙れ」
「お前が受けた実験って、もしかして──」
「黙れと言ったのが聞こえねぇのかァ!!」
アクセルの傷口から黒い帯が伸び、斬り飛ばされた腕と足を引き寄せると、あっという間に傷が消えた。
「本当にムカつく野郎だ。人様のことを勝手に視てんじゃねぇ!」
二人の周りの重力が増していく。
雷を撃ち出すが、アクセルの目の前に現れた真っ黒い穴に吸収されてしまった。
アクセルが笑い、手をかざす。
「視えたから何だ。どの道第七門のてめぇじゃ俺には勝てねぇんだよ!」
無数の氷の矢が生み出され、視界を埋め尽くした。
飛鳥は何も言わず、左手を向ける。
「はっ! 片手で受け止められる訳ねぇだろうが! 今度こそ終わりだァ!」
氷の矢が一斉に射ち出された。だが──、
「なっ……!?」
それらが飛鳥を貫くことはなかった。
全ての矢が飛鳥の目の前で止まり、宙に固定されている。
そして、僅かに雷を帯びると、アクセルに向かって射ち返された。
「がああああああああああああああああああああ!!」
自身の攻撃に打たれても、アクセルは倒れない。飛鳥を睨みつけ重心を下げた。
飛鳥もレーヴァテインを構える。
その時、闇の中で見た『女神』の言葉が頭をよぎった。
──あぁ、その通りだ。俺は勇士なんかじゃない、英雄にだってなれるか分からない。俺がなりたいのは、俺が救いたいのは。
まっすぐアクセルを見つめる。
『精霊眼』が読み取った情報から取るべき行動を導いていく。
二人は同時に床を蹴った。
レーヴァテインが軌跡を描き始める。
だが、それよりも速くアクセルの腕が飛鳥を捉えた。
「だから言っただろうが!」
しかし、振り抜いた腕が空を切り、彼は目を見張った。
飛鳥が静かに紡ぐ。
「其の動くこと──」
レーヴァテインが煌めく。
「雷霆の如し──!!」