人生の転機
俺にとって人生の転機が訪れたのは、間違いなく八歳の時だ。
エルーシア王国の中心地、王都テンレイトに俺は誕生日を迎えて一ヶ月後にやってきた。その目的はとある儀式を受けるため……エルーシア王国に住む人間なら誰もがやっている、加護の儀式と呼ばれるものだ。
人は生まれついて魔法を使うために必要なもの――魔力を抱えている。それがどれほどの量であるのかを確かめるため、王都テンレイトにある大神殿を訪れ、儀式を受けることになっている。といってもやることは神官から特殊な魔法を受け、どれほどの力を持っているのかを確かめるだけで、儀式の時間はものの数分。すぐに帰れる程度のイベント。
それは八歳の誕生日を迎えてから行われるもので……馬車に揺られておよそ十日。俺は幼馴染みの少女と共に、王都へやってきた。農村出身で周りは畑ばかりだった俺や少女にとって、埋め尽くされるばかりの人や、石畳によりきれいに舗装された道。さらに大通りに立ち並ぶ建物や数々の露店は、開いた口が塞がらないほどの衝撃を受けるものだった。
その中で俺は背中に剣を背負い、鎧を着た冒険者の姿を見た。もしかすると魔王を倒す勇者かもしれない……エルーシア王国の北には魔王の居城があり、今も戦いが続けている。だからこそ騎士は精強で、冒険者も強くて……幼い頃の俺にとって、憧れの的だった。
勇者になりたい――この時、俺はそんな風に考えたことをはっきり憶えている。生まれた時点で孤児だった俺は、育ての親から「お前の両親は魔物に殺された」と告げられた。だから自分と同じような境遇の人を出さないために――
儀式を受けた際、魔力が多ければ場合によっては騎士候補として目を掛けられることもある……なんて村の人から言われれば、そうなったことを夢想するのは子供としてはごく当然のことだった。よってその時の俺は、わずかな希望と大きな驚愕を抱きつつ、町の姿を眺めていた。
やがて大神殿にたどり着き、長い階段をゆっくりと進んだ。そして見えた大神殿の入り口は見上げるほど大きく、一緒に来た幼馴染みの少女と一緒に、呆然と立ち尽くした。
俺も彼女も、大神殿ほど巨大な建造物は見たことがなく――ふいに、風が俺達の体を撫でた。俺の黒い前髪が揺れ、横にいる幼馴染みの栗色の髪もサラサラと流れる……そんな彼女の髪は、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
「……行こう」
少しして、俺は少女へ言った。彼女はそれに小さく頷き、おずおずと手を差し出す。時折、怖くなると手を握って欲しいのかそうした行動をすることがあった。この時はきっと大神殿の迫力に対し、怖じ気づいてしまったのだろう。心細いような顔をした彼女の姿を、俺は今でも思い出せる。
彼女は何かあればすぐ俺の後ろに隠れるくらい臆病な性格だったので、当時の俺にとってはとても見慣れたものだった。だから俺は彼女の要求に応じて手を握り、先導する形で歩き出す。中は静謐で、俺と少女、そして案内役の役人の足音だけが聞こえていた。
「待っていたよ」
一番奥、台座のある場所に老齢の神官が立っていた……後に聞いた話によると、普段はもっと多い人数を一度にやるらしいのだが、田舎出身かつ、村で八歳になったのが俺達二人だけだったから、今回はここまで静かだったらしい。
「では、一人ずつやっていこう。まずは君」
と、神官は俺を指さした。こちらは頷くと少女の手を離し、前へ出た――思えば、彼女の手を握ったのはそれが最後だったし、このとき言葉を交わすことができなかったことは、後悔として残っている。
神官の前に立つと、相手は俺へ手をかざした。そして全身が暖かくなるような感覚になって……結果はすぐに出た。神官の反応は……少しの驚きと、どこか硬質な表情だった。
「これは……」
「どうしましたか?」
案内役の人物が問う。すると神官は、
「魔力が……身の内にほとんど存在していない……これは、非常に珍しいケースですね」
魔力がない――それがどういう意味を持っているのか、この時点で俺には理解できなかった。けれど、この事実は後の俺自身を苦しめることになる。
役人もそれを聞いて言葉をなくし俺を見た。でもこっちはどういうことなのか理解できず、首を傾げるばかりだった。
「……ともあれ、続けましょう。では次」
神官が少女へ視線を移す。俺は一歩引き下がり、彼女が前に出る。
――当時の俺は、この後町を見て回って帰るのだろうと考えていた。勇者になりたいなんて願いを持っていても、これまでの日常が激変するなんて夢にも思わない。神官や役人だっていつもの儀式ということでさしたる感情は抱いていなかっただろう。
だから滞りなく儀式が終わり、俺と少女は故郷へ戻り、いつもの日常を繰り返す……畑を耕す大人を手伝い、勉強して、時折幼馴染みと一緒に村の中や森の中を駆け回り、楽しく遊ぶ……そんな日常に戻ると思っていた。
けれど、そうはならなかった――神官が幼馴染みに魔法を行使した瞬間、異変が生じた。
突如、彼女の体が――いや、胸元辺りが光り輝いた。神官が目を丸くし、さらに役人も何事かと身構える。
俺もまた、自分とは異なる状況にビックリして……次の瞬間、さらなる異変が起きた。一瞬、神殿内を満たすように光が拡散し……それが消えた時、神官がわなわなと震えだした。
「お、おお……これは……これは……!」
「い、今のは……!?」
役人が驚き尋ねた直後、神官が叫ぶ。
「この魔力の大きさ、そしてその質……間違いありません、これは……これは、古代の魔王を討ち滅ぼした、女神リュシアと同質の力……!」
女神リュシア。その名はエルーシアに暮らす人間なら知らない者はいない。当時存在していた魔王を打ち破った、この国の救世主。そして亡くなった時、女神として崇められ国を守護する存在となった、最も偉大な人物。
「す、すぐに王室へ連絡を! リュシア様の再来だと……!」
「め、女神の……! わ、わかりました!」
役人が走る。そして神官が興奮する中で、当の幼馴染みは無言だった。俺もまた一緒だった。けれど、わかっていたことが一つだけある。
それは十日前にあったごく当然の日常が、もう戻ってこないということ。自分には何もなく、目の前の幼馴染みは女神の力が……その事実によって日常というものが崩れ去ったことだけは、明瞭にわかった。
この一連の光景が、今も胸に残り夢にも現れる。人生の転機……八歳の出来事からおよそ十年。俺も幼馴染みも人生が一変した。
けれど大きな違いが一つ。彼女は女神の再来と呼ばれるだけの力から否応なく激変し、俺は……彼女の影響を受け、自らの意思で人生を変えたのだ――
「……いっ! おいっ! アレス!」
ふいに、俺の名を呼ぶ声が聞こえて目を開けた。気づけば座り込み、岩壁に背を預けて眠ってしまった。
「おいおい、しっかりしてくれよ。座った直後に眠り込むくらい、疲労がたまっているのか?」
声に対し顔を上げる。俺の目の前には……剣を握り、美麗な鎧を着る男性の姿があった。
「あ、ごめん……大丈夫」
答えると男性は俺から離れ、こちらは立ち上がりながら衣服についた砂埃を手で払った。
現在俺は、洞窟……ダンジョンと呼ばれる場所にいる。周囲には俺に声をかけた人物――魔物を狩り、魔族を討つ俺にとって憧れの存在である勇者と、彼を助ける仲間達。さらに少し離れた所には白銀の鎧を身にまとった騎士が多数いた。
「休憩は終わり、だよな?」
「ああ。もうすぐ出発するところだったんだよ。反応しなかったら置いていくつもりだったからな」
勇者はそれだけ言うと歩き始める。途端、彼の近くに仲間達が集まり始める。
そうした光景を見ながら俺は息をつき、歩き始め……ふいに、近くにいた勇者の仲間である戦士が声をかけてきた。
「別に逃げてもいいんだぜ? お前一人いなくなったって、誰も気づきはしないぞ」
「……いや、大丈夫」
無能は無能なりの戦い方がある……そう自分に言い聞かせる。
冒険者となって、繰り返し言われ続けた。無能な冒険者、最弱の剣士。魔力を持たないことは珍しいが、そうした人々も普通に生活はできる。しかし冒険者となれば話は別だ。
魔力は戦う力を高める効果がある……人類の脅威である魔物と戦うために必要な技術。それをほぼ持たないからこそ、俺はどんな冒険者よりも弱い。時には侮蔑されながら、戦場を渡り歩いていた。
なぜなら目的があるから……それに向かい、剣をとり続けていた。