『あなたに伝えたいこと』
不死者の病特有の怪力でわかってくれたのか、あの後の彼女は比較的おとなしいものだった。内心でため息をつきながらもそろそろと思い湯船から立ち上がる。いくら久しぶりだからとはいえ長湯しすぎた。
幸い、この身体は長時間の入浴でものぼせることはないのか、特にふらつきもせずに浴室の外へ歩くことができた。
十二分に温められた全身からはうっすらと湯気が出ている。以前の私であれば熱さを疎んでそのまま水浴びでもしただろうが、今はこの偽りの体温を感じていたかった。
例え数刻も待たずに失われるものだとしても、肌の色が変わらず青白くとも、この温もりは私が今も生きていると自信をつけさせてくれるのだ。
浴室から出てすぐに体をタオルで一通り拭き終わった頃にあることに気が付く。それは白い紙に大粒のインクを一滴ずつ染み込むかのようにじわじわと私に染み込むように知覚する。
(なんであの娘は興奮しているの?)
嫌な予感がする。正直に告白すると振り向きたくない。知って仕舞えば不幸な気分になると私の中にある何かが警鐘を鳴らす。だが、彼女が不意打ちを狙っているのなら回避できるかもしれない。先ほどの風呂では辛うじて魔の手から逃れることができたが、今回も逃れられるとは限らない。
淡い期待と決意を抱いて振り向く。すると彼女は、すぐそこに─
(─いない?)
てっきり、また我慢できなくなって襲ってくるかと身構えたのだが背後に彼女の姿はない。浴室を見渡してみれば彼女はまだ湯船の中に浸かっていた。
(何をしているの?)
この辺りではあまり見ない濡れ鴉のように黒い髪は水気を浴びることで色気が引き立てるが、その髪から覗く横顔は少女のような幼さを感じさせる。私よりも発育の良い身体が浴槽で隠されたことでその二つは明確に対比する。
大人の色気と少女の可憐さ。矛盾するはずの二つ魅力を併せ持つ彼女は年齢を知らないこともあって、同性かつ異性愛者の私でも息を吞むほど神秘的だった。
どこにでもある平凡な浴室は彼女が静寂の中で無表情で佇んでいるだけで1枚の絵画として完成するのではないかと錯覚させる。
興奮を漏らしながら手を盃にしてお湯を飲もうとしなければ。
ふつふつと自身の底から沸き立つのがわかる。これは怒りだ。これは羞恥だ。
普段の私であれば彼女へ苛烈に感情をぶつけることはしない。冷え切った状態なら猶更だ。だが、長風呂で火照った体は私が思う以上に心の動きを滑らかにしたようだ。
躊躇いはない。先ほどの罰では物足りなかったようだ。ならばより強くその身に刻まなければならない。あふれ出た激情に身を委ね再度、浴室へと私は突撃する。
「ヴぁあああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」
羞恥を感じたにも関わらず、それ以上にはしたなく大声を張り上げる。爆発する感情は身体に想像以上の力を発揮させて彼女がこちらに気が付く頃にはあと一歩という距離まで近づく。
後になって思う。さすがに冷静さを欠きすぎではなかっただろうか。もうちょっと、こう、賢者らしい動きはできなかっただろうか。少なくとも濡れた浴室で走ることの危険性を考慮していなかったのはいただけない。
ただでさえ、使った後は滑りやすい上、不死者の病は筋力を向上させるが器用に動かしにくくする。ついで言うと私は運動は得意では無い。
要するに、転んだ。それもう盛大に。
「あ“あ”?!」
乙女として問題がありそうな声が漏れている気がするがそんな些細なことを気にしているほど私には余裕がない。なぜならこのままいけば頭から浴槽に突っ込んでしまい、不死者特有の怪力で粉砕してしまう可能性が─
(いや、それはない。)
不死者の病は力が増すが別に肉体そのものの強度は上げてはくれない。つまり、硬めの石に頭からぶつかって倒れる未来しか見えない。純粋に痛い目に合うことになるのだが、発端を考えると理不尽と思わざるおえない。
ガンっと鈍い音と共に私の頭に激痛が走る。寄りにもよって浴槽の淵に真正面からぶつかったらしい。わずかな浮遊感を感じた後、すぐさま体は床へと落ちる。続けて全身に衝撃を感じたが受ける面積が広かったためかそれほど痛みを感じない。
だが、私の視界は湯気だけでは説明がつかないほどぼやける。視界に集中すれば赤い液体が映る。状況を飲み込むために息を吸えば身を清めたというのに鉄の臭いが鼻についた。
自身の身に何が起きたのか把握しようとしたが、明瞭だったはずの思考は寝起きのようにぼやける。彼女を呼び出した後、意識を取りもどした直後も似たような感覚だった。だが、あの時とは逆に時間が経つごとに意識はぼやけていく。
「──!──!」
おそらく彼女が叫んでいるのだろうが、音が来ている感覚しか伝わらず正確な発音を聞き取ることができない。今の状態で正確に聞き取る意味はあるかは不明だが。
食事も睡眠も不要になったはずの身体で起きたこの感覚の条件について、思考を割こうとしたがそれよりも早く意識を手放した。
◆ ◆ ◆
意識を取り戻したとき、私は街中に立っていた。周囲の建物には見覚えがある。研究のために家に籠ってばかりでしばらく出ていなかったが、それでも住んでいる街並みを忘れることはない。
周囲にはすでに失われたはずの喧騒があり、人々が街を行き来する。その眺めに思わず嗚咽が出そうになるが、同時にこれは夢であることも確信した。
よく聞けば喧騒は意味のない雑音、行き来する人とぶつかっても幻のようにすり抜けてしまう。不死者の病に侵された私の郷愁が生み出した光景だろうか。
幸いなことに身体は思い通りに動いてくれるので近くを歩き回りながら、どこか落ち着ける場所を探すことにした。活気にあふれる街並みは私が取り戻したい日常であることを改めて感じさせる。
心音が止まったあの日に見た光景はあまりにも救いがなく、私を含めた誰もが絶望に膝を屈していた。希望を持つことも、滅びることすら許されず淡々と時間が流れていくだけの光景はあまりにも悲しかった。
ふと、窓に映る自分の顔を見る。色白の肌にわずかに朱を帯びる頬、鏡像に視線を向ける瞳は僅かに光を宿しており、何よりも口元の動きが滑らかに動いている。自己評価では表情が乏しいと思い込んでいたが、不死者の顔に比べれば十二分に豊かだ。何だか表情があることがうれしくなってしまい、夢なのを良いことに足と止めて窓の前で百面相を催してしまう。
冷静に考えればはしたないことではないかと感じてしまうが、誰も見ていないのだから大目に見てほしい。
「ああ、そうだ。ちゃんと話せるかも確認しなければ。」
久しぶりに紡がれる私自身の言葉。口から漏れ出て耳に入る声は呻き声ではなく、正しい発音と文法できちんと意味を成している。会話する相手こそいないが、まだ発音の仕方を忘れていないようで安心した。未だ不死者の病の治療について手掛かりが掴めていないが、無事に治療できた時にも言葉を忘れていたら円滑な対話に支障がでる。実際のところは夢の中なので現実で治療ができたとしても話せるとは限らないが。
「よいっしょ、っと」
一人でにらめっこしていた窓から離れ、誰も座っていないベンチを見つけたので腰を落とす。今は夢の中にいるから現実に影響を出せないが、思考することは問題ない。改めて私が意識を失う条件について考えることにした。
まず、私が意識を失った状況は覚えている限りでは2回。1回目は使い魔を召喚した時、2回目は恥ずかしいがついさっき浴槽に頭をぶつけた時だ。久しぶりに滑らかに動く口で言葉を話せることが嬉しいのでリハビリがてら考えを呟き続く。
「この二つの状況に共通しているのは何?」
片や魔法の行使、片や肉体の損傷。心当たりはすぐに出るが、関連性がわからない。ならば、それぞれ違う原因であることを前提に考えるべきだろうか。
不死者の病に侵されてから睡眠を含めて意識を失ったことが無いのでそれぞれに原因はあると考えているのだが。あり得るとすれば1回目が魔力の過剰な消費、2回目が肉体的な損傷。前者はともかく後者はわかる。健康に問題がなくとも大けがをすれば意識を失うこともある。同じように不死者の病に侵された者に対して肉体的損傷、特に頭部を破壊するとしばらくの間は死体のように倒れ込む。もっとも、数刻もすれば起き上がって活動を再開していた。なら、今回の場合は頭部への損傷による気絶であると考えてよいだろう。
「身体活動に支障が出るようなことがあれば、最優先で再生にかかりきりになる?だけど、魔力切れは…」
魔力切れを起こしても生命活動に支障はなく、大量に消費した際に精神的な疲労こそあるが意識を失うことはあり得るのだろうか。保有量に差はあるが誰もが魔力を有しているし、魔法を使わない者も無意識のうちにその恩恵に受けている。しかし、魔力を保有していない生物はいるし、囚人用の拘束具には本人が保有している魔力を限りなく0に近い状態にする機能が付いているが囚人達が意識失い続けたという話も聞いたことがない。それにも関わらず、召喚術を使った私は意識を失った。このことから考えられる仮説が一つ。
「つまり、不死者の病は魔力を活動源にしている?」
確かな一歩なのだが、治療に結び付くかといわれると難しい。確かに体内に保有されている魔力を0の状態を維持し続けていれば意識を失わせることも、もしかしたら死に至らしめることができるかも知れない。
だが、私が求めているのは治療であって自殺を助長する手段ではない。もし、休みたい者がいれば方法論としては考え無くないが、今はそれにかまけている暇はない。
「だけど、分からないことがある」
先の仮説通りに召喚術で大量に魔力を消費したことが気絶の原因ならば、彼女はどこから召喚されたのだろうか。召喚術は召喚対象との距離に比例して消費する魔力量が増える。そして、端くれとはいえ人よりも魔力の保有量が多いはずの賢者たる私の魔力があの条件で使い切るほどの消耗をするだろうか。正確な距離を測ることはできないが、少なくとも同じ大陸であれば問題ない程度は自信があったのだが。
「つまり、彼女はこの大陸の住人ではない─?」
その口にした言葉は恐ろしいことを意味していることに遅れながら理解してしまった。別の条件で私は不死者の病に罹ったものを除外するように指定した。だというのに気絶してしまうほど私の魔力は消費してしまった。つまり。
「この大陸は、すでに、不死者の病に飲み込まれてしまった…?」
それは、あまりにも重大すぎる話だ。私が知る限りでは世界には3つの大陸があり、それぞれにほぼ同じ程度の人々が住んでいるらしい。そのうちの一つの大陸で、世界中の1/3の人口と魔力を持つ生物が呻き声を上げてさまよう存在になってしまったというのか。
あまりにも重すぎる可能性に思い至り、私は恐怖と驚愕で衝動的に顔を上げる。その時、視線の先に何かが下から生えてくるように現れた。
「なに、あれ」
端的に表すなら塔。しかし、遠いところにあるため大きさはわからないが、私が知るどの建物よりも大きく、そしていくつも並んでいる光景は夢ならではと言えるだろう。だが、これは私の夢だ。ならば、知らないモノが出てくるはずもない。
「あ、そうか、あれは、彼女の─」
使い魔契約を通じて私と彼女は繋がっている。それは主と使い魔と相互理解を深めるために組み込まれた機能がある。お互いの感情がわかるのもその内の一つ。そして、今回は互いの夢を繋げる機能は体験や思い出を共有して価値観すり合わせるためのものだ。
「行かなきゃ」
おそらくだが、あの塔の群れのどこかに彼女がいるはずだ。会ってどうするかなんてその時にならないとわからないが、私には彼女に伝えなければならないことがある。つたない足を必死に動かしながら私は彼女の夢へと駆けていった。
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