プロローグ
薄暗く静かな小部屋、乱雑にモノが散らばる中で白いチョークを床に走らせる者がいる。それは人の形をしており、口からは意味のない呻き声を上げながら細い腕を動かし続けている。
色白を通り越して生気を一切感じさせず、動かぬままであれば死体として認識されるような体は知性を感じさせない呻き声とは裏腹に精巧な図形を一切迷いなく描く。四角、円、多角、また円、そして未知の言語を白一色で床に並べ、瞬きを忘れて渇ききった瞳に捉えては次の手順へと移る。
もし、作業者が美しければその光景はさぞ映える場面になっていただろう。聡明さを感じさせる顔であればより一層引き立てられただろう。小柄な体躯を覆うほどの量を二つにまとめ、僅かに金色を宿す緑の髪を揺らしながら動く少女。
その顔は腕と同じく生気を感じさせないほどの白い肌。渇ききっているためにわずかに暗い緑の瞳は聡明さを感じさせるが、呻き声の通り道と化した半開きの口は先に挙げた美しさを幼さに置き換える。総じていえば聡明というよりも愛らしさが先に口に出る容姿であった。
しかし、この者は生者にあらず。心の臓は鼓動を止めて久しく、その身に宿すはずの温もりも無く、可憐な声を奏でていた喉は呻き声をあげることでしか存在を示すことができない。もはや生者としての証は人の形の他はなかった。
それでも彼女は動き続ける。思考は明瞭であり、怠ける四肢に鞭を打ち動き続ける姿は必死を通り越して妄執の域へと達していた。
すでに人でなしになったその身で何が彼女を動かすのか。その答えは描き切った図形が示す。
描き切った図形で最も外側にある円から外へ移動した彼女は冀うように膝と両手を床につけ、顔を天井へ向けて半開きしていた口を恥ずかしげもなく広げた。僅かに漏れていたうなり声は口が開き切ったと同時に絶叫へと切り替わる。
狭い部屋を断末魔が響きわたり、呼応するかのように青白い輝きが少女の身体から漏れ出ては描いていた図形へと飲み込まれていくにつれて一つまた一つ図形は青い光を帯びる。
対して青白い光を吐き出し続ける少女の身体は急速に衰えていき、すべての図形が光り輝きだした頃には骨と皮の骸となり果てた。部屋を震わせるほどの絶叫は消え、少女だったモノはうつ伏せに倒れる。
その瞬間を待っていたかのように青白い光を存分に吸い取った図形は一層輝き、部屋を埋め尽くす光となってすべてを包み込んだ。一瞬の静寂の後にドサリと何かが落ちる音が部屋に響く。音の元を辿れば床に描かれた図形の中央にもう一人の少女と彼女の所有物と思われるカバンが転がっていた。
その少女は丈の短い明るい青色のスカートと白い半袖のブラウスを身にまとっていた。袖やスカートからは四肢がはみ出しており、一番上のボタンが外れた白い半袖のブラウスは首元の鎖骨を誇大に主張している。
短く切りそろえられた黒い髪は耳と首を無防備に晒し、顔と四肢は日に焼けた小麦色の肌からは新たに表れた少女の快活さを想像させる。
瞼を閉じて規則正しく腹部を動かして呼吸する少女は先に部屋にいた者とは正反対に生者であることを心臓の鼓動をもって証明する。
チョークが走る音も絶叫も消えて、代わりに孤独な寝息が響く部屋。この小さな世界を塗りつぶした青白い光は粉雪のように小さくなり一つまた一つ骸と黒髪の少女へと降りかかる。
干からびた骸に光が触れる度に取り込まれ、その度に時間を巻き戻すように元の形を取り戻していく。一方、黒髪の少女に触れた光は雪のように何事もなく溶けていった。やがてすべての光が見えなくなる頃には病的に白い肌の死体のような少女と変わらず寝息を立てる黒髪の少女だけが残された。
「…ん」
さらに時間が過ぎた後、生者である少女が目を覚ました。半開きの寝ぼけ眼から見える黒い瞳を通して状況を脳へと送る。乱雑にモノが散らばり複雑な図形や文字のようなものが描かれた床、自身の家や故郷とは違う様式の室内、そしてすぐそこには多量の髪の毛で隠れているがうつ伏せで倒れている人の形。
五感から周囲から情報を取得し、状況を飲み込むたびに脳は警鐘を鳴らし、生み出された焦燥が思考を加速させる。
まず彼女がとった行動は近くのカバンの中から薄い板のようなものを取り出すことだった。使い慣れた手つきで側面の突起を押し、光りだした板にわずかに少女の表情は安堵してすぐに凍り付いた。
固まること数瞬。少女の背中にぞわりとした感触と共に汗が流れ始める。左右に首を振り、薄い板から何も得るものはないと判断したのか、再び突起に指で押し込んだ後カバンの中へとしまう。次に彼女はうつ伏せのまま動かない人の形をしたものへと視線を移す。
恐怖で震える身体に喝を入れ、自分に言い聞かせるかのように口からは「大丈夫」と繰り返しながらうつ伏せに倒れているモノへみっともなく這って近づく。
近づくにつれて少女の顔は一層引きつり、口から洩れていた言葉は失われ代わりに荒く息を漏らすだけになる。心臓は経験したことがないほど大きく脈打ち、全身に血と緊張を巡らせ、小麦色の肌には汗と鳥肌を浮かんでいた。必死に祈るような瞳は涙が溜まり視界をわずかにぼやけさせる。
日に慣れ親しんだ小麦色の肌と相反するような白い肌を持つ手に触れた時、少女にとって最も長く感じた時間は終わる。
感じたのは白さに比例するかのように凍てついたように冷たい肌。ソレは慣れ親しんだ人肌の感触を持っているにも関わらず命の鼓動を一切感じない。さらに言えば呼吸の音もそれに合わせて上下する動きもない。
すでに少女は自身を騙し切れていないことに気が付いている。血や腐った臭いは無いがこれは死体であると。どこかで予想していたからこそ、過大な期待をしていなかったからこそ、非常な現実と冷え切った死体が彼女の思考と精神に冷静さを取り戻していく。
限界間際まで張りつめていたものが無くなった少女はうつ伏せになっている死体のわずかに金色を宿す緑の髪を頭から撫でるように手ですいていく。長い間手入れを怠っていたのか、それとも生来の髪質なのかごわついて絡む感触で動きに詰まりながらも頭からうなじまでの距離を往復させる。2度、3度繰り返したところで少女は満足したのか、動かしていた手を髪から離した手をそのまま顔を隠している前髪を横へ動かす。
視界を遮る前髪の下には渇ききった昏い緑の瞳と半開きのままになった口。少女には見慣れない顔立ちではあるが、どこか幼さを感じさせながらも同性でも思わず息を吞むほどに整っている。もし、生きていれば自身よりも年下に見える顔がどのような表情をしていたのだろうかと少女は思い馳せることを止めることができなかった。
いたたまれなくなったのか彼女は物言わぬ死体を抱き寄せる。小さい体躯は少女の非力な腕力でも容易く腕の中へとすっぽりと納められた。ぽふりという音と共に体を密着させ、自身を落ち着かせるように大きく息を吸う。幸いなことに抱いて密着しても何かが腐ったような臭いはしなかった。
己の息遣い以外には何も聞こえない静寂が今も生きる少女に自分以外の時は止まっているのではないかと錯覚させていた。ゆえに抱いている骸の指先が、少しずつ動いていることを見逃していた。尤も、見逃していなかったとしても結果がわずかに伸びるだけに過ぎなかったのだが。
突如として人の呻き声が部屋に響く。驚きと恐怖が緊張を生み、思わず少女は縋る先に腕の中にあるモノを選んでしまった。無意識に腕に力を込めて呻き声の発生源を探ろうと首を動かす直前、もぞりと腕の中で何かが動いた。
戸惑いの声が漏れ出し、恐怖から驚愕へ表情を変えた少女は動かないはずのモノへと目を向ける。視線の先にあるのは変わらぬ表情。しかし、二度目の呻き声はその口から洩れており、ゆっくりと顔を近づけてくる。
反射的に突き放そうとしたところで、死体と思い込んでいたモノの腕が見た目からは想像できない怪力で少女の腕を掴み、突き飛ばすことはおろか動くこともままならない。
「あっ……」
理解したところでもう遅い。近づく白い顔は自身の首筋に歯を突き立てるところだった。
ガブリと音を立てて皮と肉が裂ける音と共に少女に襲ったのは激痛。思わず悲鳴を上げて暴れだすが、掴んでいるモノは全く動じない。それどころか少女はバランスを崩して仰向けに倒れてしまう。床に倒れた際に鈍い痛みが頭に走ったが、未だに首筋からは異物の感触があり、涙でぼやける視界には先ほどから変わらない表情で自らの首筋に食いつくモノが映っていた。
「痛い!痛い!!痛い痛い!!!」
黒髪の少女は嘆願するように悲鳴を振り絞るが、金髪のナニカは必死の嘆願に一切耳を貸すことはない。それどころか顎に込める力が増していくのを感じながら少女はもがき続ける。しかし、掴まれた腕は微動だにせず、いたずらに彼女の体力を消耗するだけにとどまる。
やがて首筋は万力のごとき力に屈したのかより鈍い音を立てながら下にある肉が完全に食いちぎられてしまう。直後、水の入った袋に穴が開いたように血が体の外へと流れ出た。肉だけでは足りないのか嚙み切ったそれの頭は少女の首筋から離れるどころか、漏れ出る血を啜り、歯をわずかに開けて舌を傷口に這わせる。
少女の首筋は肉を喪った激痛と舌を這わされる連続した痛みを悶え続ける。次第に力が抜けていき、代わりにだるさがそこから全身へと緩やかに広がり続けていく。少女は必死に、悲鳴を上げ、もがき続けるがその力も長くは続かなかった。
だるさに全身を支配されてしまう頃には少女の四肢は床の上に投げ出されたように落ち、視界は少しずつ闇に飲まれていく。弛緩しきった体から漏らしていけない何かが抜けていく感覚があったが、視界と同じようにぼやける思考ではまとめられず、気が抜ける短音と共に体をわずかに震わせることだけが彼女が最後の抵抗だった。
無論、何の成果を上げず、彼女は体が凍える感覚に見舞われながら意識を完全に手放した。
力尽きた彼女の瞳にはすでに光はない。だというのに肉を噛みきったナニカは未だ首筋から口を離さず、流れ出る血を啜る。その駄賃とでもいうのか、金髪のそれは先ほど部屋を塗りつぶした青白い光を口から傷口を通じて鼓動を失った彼女へと送り込む。その度に彼女の身体を光が包み込んでは内側へと吸い込まれていく。その意味を答える者は今この場にはいない。
なろう初投稿です。至らぬ点があると思いますがご指摘ご鞭撻をよろしくお願いいたします。
マイペースに書いていきますので気長にお付き合いしていただけると幸いです。
次回はGW中に投稿...できたらいいなぁ...