受難 ④
「今日ね、わたしの母親の話しが出たでしょう。あれでね、なにもかも分からなくなってしまったの」
「そうですね、ファンさん、すごく驚いてましたもんね」
「真夜中に深い山で遭難して、どこに進んでようのか、行き場を失って、でもそこに灯りが見えて、わたしを探しにきてくれた人がいるの。その人がね、ライス君のことのような気がして・・あのときそんな思いを感じていたの」
そのセリフは、僕の理性の壁の一枚を瓦解する。
自分の左手に勇気を出せとエールを送り、その左手は並んで座るファンさんの細い胴を捕まえると、彼女を引き寄せてくれた。ファンさんに拒否はされていない感じだ。
お互いの体が密着すると、動悸が激しくなる一方で、フワフワと自分が自分でないような、そんな錯覚を覚える。
そんなフワフワとした僕に、ファンさんは自分の頭を預けるように寄りかかってきた。
「ライス君は、わたしの過去のこと分かっているでしょう?」
それはかなり前の話しになるが、ファンさんの幸せだったり悲しかったりの人生を、ガイターさんから確かに聞いている。ただ、素直に「はい」と返事をすると、ガイターさんを裏切ってしまうような気がして黙りこんでいた。
「いいのよ、わたしは魔女で長生きだけど、幸せだったって思うのは、亡くなった主人のレーカーと過ごしてきたときぐらい・・大勢の人の命を奪ってしまっていたこともあるの・・だから、こうして生きて旅をしているのは、しょく罪のため。そう思ってきたの」
「・・・」
「でもね、今がとても幸せに感じるの。ミルフっていう子供もいるし、楽しい仲間たち、なによりも、もう絶対に芽生えないと思っていた感情がつぼみのように膨らんでいるのが分かるの」
いくら僕がにぶいといったって、その感情がなんなのか分かるし、誰が対象になっているのかも分かる。
「ファンさん、もう、しょく罪のために生きるという気持ちはすっぱりと捨てましょう。もし、誰かがあなたをとがめるのであれば、僕は頭を地面にこすりつけあやまり続けます!」
僕は自分の感情のままファンさんをギュッと抱きしめた。ファンアさんも僕の体に手をまわし、同じ気持ちであったことを認識させてくれた。
「ありがとうライス君。わたしね、たぶんライス君のその優しさに打たれちゃったんだと思う。ライス君の優しさって心を覆うように刺さるの。ライス君って、ウソのつけない素敵な人ね」
お互いを見つめていた瞳であったが、ファンさんはまぶたを軽くとじた。僕がファンさんのほほに手を置くと、甘えるように僕の手に顔をうずめてくる。
自然の流れのように、ファンさんの唇に、僕の唇を重ねようとしたとき、ドンと防波堤のようなものが、僕の感情を押さえつけた。
ここにはソシミール陛下がいる・・!透明になって部屋のすみから、この様子を見ているはずだ・・どうしよう。
3秒ほど、ちゅうちょしてしまった。その3秒が唇を重ねる行為を完全にご破算にした。
コンコンと部屋のドアがコンコンとノックされる音が響いたのだ。
なんだ、こんなときに!いきなりのことに心臓がバクバクとして体のバランスが乱れまくる。
そこにドアの外からの声が聞こえてきた。
「ねえ、ライスさん、あたしペーリー!少し話そうよ」
ファンさんと僕は、思わず顔を見合わせてしまった。




