「住所」
「じゃあ、今日はこれで解散ね」
女の先輩が朗らかな声で言った。
「うい、おつかれさまでーす」
「おつー」
部室に残っていた学生たちは、いささかホッとした様子で口々に言い合った。
時計の針はもう夜の8時をまわっていた。
夏とはいえ、外はすっかり暗くなっていた。
「良い文化祭になるといいねえ」
「今年で最後だからね」
Aは荷物をまとめて外へ出た。
まばらに立った街灯の白い光が、コンクリートの黒い道路をぼんやりと照らしていた。
夏の夜の空気には、昼間の暑さの余韻が残っていた。
ふと立ちすくんだAの横を、先輩たちが楽しそうに喋りながら通り過ぎていった。
「…………」
Aは道路のわきに突っ立ったまま、自分がどこへ向かうべきかを決めあぐねた。
催しの会場である学校へか、場所の記憶の曖昧な自宅へか、両者は全く別の場所に位置するスポットであった。
Aは緊迫した面持ちで、自宅がありそうな方向へ足を踏み出した。
在り処の明確な学校へ向かっても、到着はできるだろうが、一夜を明かせはしない。
Aにきちんと家に辿りつける確信はなかった。
6階建てぐらいのマンションがいくつも道路に沿って並んでいたが、果たして自室がどの箱に納まっているのか、Aは知らなかった。
自宅の鍵はバッグに入っていた。
Aは必死に記憶をたぐりよせた。
白っぽい部屋だった気がする。
窓枠が白くて、床も白くて、陽の光がよく入る部屋だった気がする。
単身世帯用の賃貸にしてはそこそこ広くて、明るくて、「いい部屋ね」と母親と言い合った気がする。
あの部屋はどこにあるんだろう。
Aは肩にトートバッグを携え、暗い道路をテクテクと急いだ。
その方角が正しいと判断しているからではない。
迷った素振りを見せたらおかしな人間に絡まれるからだ。
Aは、ニヤニヤしながらこちらを見ている男に気づかない振りをした。
手ぶらの不審な男は、Aのあとをついてきた。
Aの背に冷や汗がつたった。
しかし、気づいていない振りを続けた。
Aは、10mほど前方に同じ部活の先輩が歩いていることに気づいた。
Aは歩を速めて彼に近づいた。
「○○さん」
彼は振り向いた。
長めの髪を赤茶色に染めた彼は、面倒くさそうにAを見た。
「なに?」
日頃から交流のある仲ではなかったので、彼は不審そうに顔をしかめていた。
「すみません、変な人がついてきているので、帰り道の途中まで同行してもらえませんか」
「ええ?」
彼はちらりとAの後ろを見やった。
「いいよ」
Aは少しホッとして、名前も曖昧な赤髪の先輩の横に並んだ。
あとをついてきていた不審な男が、スッと離れていくのが分かった。
あのような輩を根絶やしにできればいいのにとAは思った。
「ありがとうございます。」
Aは小さな声でお礼を言った。
赤髪は「まあ、」とかなんとか曖昧に受け答えた。
突然やってきたお荷物を歓迎していない様子は、Aにもよく伝わってきた。
会話らしい会話もないまま歩いていると、ほどなくして赤髪はひとつのマンションの入り口の前で立ち止まった。
「じゃあ、俺はここなんで」
Aは感謝の意志を込めてぺこりと頭を下げた。
態度は冷たかったが、彼のおかげで不審者を避けることができた。
マンションの階段を上がっていく彼を見ながら、Aは羨ましい気持ちになった。
Aの家は一体どこにあるのだろう。
引き返せばまたあの不審な男がいるので、Aは道なりに沿って進んだ。
少し歩くと、バスが通るような大通りにつきあたった。
手入れされた黄緑色の低木が、広い車道と歩道を隔てていた。
Aが右を向くと赤いポストがあった。
ポストの向こうには、バス停がある。
何か思い出す手がかりにならないかと、Aはバス停に近づいていった。
「団地前」
Aは呟いた。
目の前のバス停の名前は見覚えのないものだったが、Aは突然思い出した。
自宅に一番近い停留所の名前は、確か「団地前」だった。
「団地前……」
このバス停は、“団地前”のバス停とそう離れてはいないだろうと思った。
むしろ、もしかしたら、同じ路線かもしれない。
バスを待っているのだろう、停留所の屋根の下に立っている若い女の人が、不審そうにAを見やった。
Aは、どこへ向かうか知れないバスに乗る勇気はなかった。
バス停を離れ、Aは大通りに沿って歩き出した。
立ち並ぶ色とりどりのマンションをぼんやり眺めながら、考えた。
もうどうしようもない。
今日中に自宅に辿りつくのは無理そうだ。
だって、何も分からないんだから。
この地域の一帯のどこかに自宅があることは確かだが、建物の外観も、名前も、住所も、記憶から出てこないのだ。
「どうでもいい場所だったのかも」
Aは学校を思い出した。
友だちらしい友だちは少なかったが、東京にあるあの学校はAにとって意味のある居場所だった。
いつかの催しでは、Aは得意の粘土細工を展示した。
自身に割り当てられたスペースに群青色に塗った棚を置き、イチゴやツタの葉を飾りつけて、小さく緻密な作品を所狭しと並べた。
学校という守られた区画で、AとAの作品は輝いていた。
Aは、あの学校へ帰るための道筋だけは、きちんと思い出すことができた。
電車を乗り継いで何時間もかかるが、駅名も風景も全て覚えていた。
しかし、今からあの学校へ行ったとしても、しんとした無人の校舎と、オレンジっぽい灯りに照らされた校庭の砂利が広がっているだけだろう。
あそこに行ってもすることがない。
Aはもう、あの学び舎からは「外れてしまって」いるのだ。
あそこは人生の通過地点であり、永住する場所ではないことを、Aはよくわかっていた。
Aは誰もいない歩道をなんとなく進み続けた。
Aの記憶は、まるで霧がかかっているようにほとんど曖昧だった。
父親の名前を思い出そうとしたが、思い出せなかった。
どうして自分がこの地へ引っ越してきたのかも、思い出せなかった。
さっきまでいた「部室」が、一体なんの部活の集まりだったのかもAは知らなかった。
Aはスマートフォンを持っていた。
しかし、ずいぶん前から壊れているそれの電源はつかなかった。
LINEアプリを使っていれば、Aの頭はまだ何か覚えていたかもしれない。
そんなAの脳裏に、ふととある人物の存在の影が浮かび上がった。
学校の記憶とともに、他のよりはいくらかまともに鮮明に脳にとどまっているその記憶を、Aは慎重にたぐりよせた。
それは比較的、新しい記憶のようだ。
人物の姿をある程度まで思い出すことができた。
正確な発音は思い出せなかったが、その人の名前を構成する文字の形も浮かび上がってきた。
その人はAを攻撃しない人だということも覚えていた。
声さえあげられれば、今まさに困っているAを助けに来てくれるであろう人物だった。
Aは、わずかに心が軽くなるのを感じた。
赤いポストとバス停の名前を告げれば、その人はきっと来てくれるだろうと思った。
実際は、連絡手段を持たないAにとってそれは叶わぬ夢なのだが、Aの心持ちは穏やかであった。
Aは道沿いにある適当なマンションの軒下にもぐりこんだ。
夜は更けていた。
マンションはくすんだ青緑色の建物で、金属のプレートに「エメラルド」と書いてあった。
なんとなく、自分の住んでいる家もこんな雰囲気だったような気がした。
屋根を得たことに安心したAは、誰もいないエメラルドマンションの入り口に座り込んだ。
そこにいても、事態が何も変わらないことは分かっていた。
でも、いつか記憶が戻ってくるかもしれない。
Aはそう考えた。
今は何も思い出せないけど、待っていればいつかは、霧のように散っている記憶の断片がつながって1つのストーリーになるかもしれない。
自分を中心に2メートル四方の記憶しかない今、なにを焦っても仕方がない。
というより、暗い海にぽっかり浮かんだ離島のように何も無いから、何かに焦るための材料すらない。
Aは黒い夜空をぼんやりと見上げた。
冷たいコンクリートの床を感じながら、Aは夜が明けるのを待った。
どこまでが本当の自分の記憶なのだろう、と考えかけて、Aは身震いした。
(おしまい)