1-6
太陽のような少女だと思った。
レンはアンという女の子をずっとそんなふうに考えていた。
いつも明るくて、前向きで、笑顔が眩しいそんな少女。性格だけではなくて、かけがえのないという意味でも、彼女はレンという人間が生きる上では決して欠かすことのできない存在だった。
いつもレンの手を引いて、色々な世界を見せてくれたアン。世界で一番大切な、愛しい女の子。
眩しく見えたのは、自分にはなかった、揺るぎない信念と心をもっていたからだろう。
弱くても、惨めであっても、彼女は人生に絶望なんてしない。
希望はいつも、目の前にあるのだから。
★☆★☆
日が落ちる前に森を抜ける必要があります、とエルザは言った。
時間に余裕はない。いざなったら、エルザがレンを抱えることを提案され、レンはそれを了承した。
不快な思いをさせてしまいますが、と申し訳なさそうにする彼女たちだったが、それはこちらの方だとレンは思った。
「レン様は、その、変わっていますね。
もちろんっ、悪い意味ではなく、とても良い意味で」
「よく言われます」
恐縮するベルに、あははと苦笑いでレンは答える。
変わっている。だからこそ、心配になるとエルザは思う。
男が女に嫌悪感を示すのは、女に襲われないようにする一種の防衛でもあるのだ。それができないレンは、女を勘違いさせてしまいかねない。同意を得たのだと、女は悪気なく襲ってくる可能性もある。
コミュニケーションが取りやすいのはありがたいが、少しだけ困るなとエルザは思った。
しかし、エルザは彼の守護者だ。どんな障害であろうと、どんな敵であろうとそのすべてからレンを守りきる。女を卑下しないことが彼の歩みであるのなら、自分はそれに付き従い全ての外敵を跳ね除けるまでだ。
エルザは隣を歩く小さな少年に目を向け、強く決意した。
「…」
空は快晴だった。木漏れ日に森の中は照らされて、鬱蒼とした雰囲気を感じさせない。
足を踏み出すと、枯葉の割れる音が響き渡った。
崖はなく平坦な道が続く、その先にその少女は立っている。
「…アン」
「…」
昨夜の泣き顔とは程遠い、決意を感じる真剣な表情。彼女は身の丈に合わない大人用の剣を持って、彼らの前に立ちはだかった。
太陽のアクセサリーがついた髪留めでポニーテールを作った可憐な少女に、レンは思わず頭巾を外して声をかけたが、アン何も答えない。
ただ真っ直ぐな視線を、レンの隣に立つ守護者へ向ける。
「レン様、お下がりください。どうやら、彼女は私に用があるようです」
その言葉と同時、レンはベルに手を引かれて後ろへ下げられる。
エルザはそれより前へ踏み出して、幼い少女と相対した。
「用件を聞くのは無粋でしょう。
剣を持ち私の前に立ちはだかった。子供であっても、女である貴方にその意味が分からないはずもない」
「当然」
その視線が示すものは敵意ではなく、悪意でもない。
純粋な戦意を持って、その剣をエルザへ向けた。
「勝負をしよう。わたしが勝ったら、レンはここに置いていってもらう」
そんな冷たい声をレンは初めてアンの口から聞いた気がした。
いつも明るく、心を照らすような元気な声が印象的なアンは、笑顔もなく鋭い視線をエルザへと向ける。
「そうですか…。貴方は、アンと言いましたか。
率直に言いましょう。貴方では、絶対に私には勝てません。
それでも、戦うのですか」
「女に二言はないよ」
「剣を向けるということは、貴方は死ぬかもしれないのですよ?」
「覚悟の上」
「やめろアン!」
レンの悲鳴のような言葉を、エルザは手で制する。
彼女はアンの思惑が理解できた。
例え子供であっても、女には引いてはならない時がある。それがどんな時であるか、エルザは十分に理解できる。
初めてレンとアンの2人を見たとき、不思議と胸が騒めいたことを思い出す。決して彼を傷つけまいと強く握りしめた小さな手。隣にいるのが当たり前で、守ってあげることが当然のような立ち振る舞い。子供相手になんて醜い感情を抱いたのかと、今更になって理解する。
レンの隣に立ち彼を支え、守り続ける存在が守護者というのなら、彼女は間違いなく彼の守護者であったのだろう。
ならば、今隣に立とうとするエルザは、アンにとっての何であるのか。
「なるほど。貴方だけは、例えレン様の願いであっても引くことはできないのでしょう。
そして、私の存在だけは許すことができない」
「そう、わたしは貴方を許さない。決して引くことはできない。レンを手放すことはできない。諦めることもできない。
突然席を奪われて、黙っていられるほど大人でもない。
だって、レンを守ることがわたしの務め。それがわたしの全てなんだから」
そう、エルザがこれからの人生をレンに捧げるのだとしたら、これまでの人生を全て捧げてきたのがアンだった。
その手を突然奪われて、黙って見送れと誰が言えるだろう。
他でもないエルザ自身が、彼女を蔑ろにできるはずもない。
「無礼を詫びましょう、アン。
私は誰よりも先に、貴方へ話を通すべきだった」
「言葉なんていらないよ。そんなもので納得ができるはずがない。
レンを置いていくか、結局は剣をとるかになるんだから」
剣の切先をエルザへ向ける。
この少女を説き伏せることなど自分にはできないとエルザは悟り、剣を構えた。
その構えに隙はない。素人目でもわかる、アンとはかけ離れた洗練された構え。
決してアンに勝機などないと誰もが理解できた。
それでもアンは引くことはない。怖気づくこともなかった。
勇気なんて誇らしいものじゃない。信念なんて格好のつくものでもないだろう。たとえ死んでも譲れないものがある。そんな我儘の為に、彼女は戦うのだ。
「おおおおぉぉ!!」
幼い少女は声を上げて駆け出す。
余りにも拙いその走り。エルザが過去に相対した難敵の、その誰よりも遅く、力のない疾走だった。
「――――――――――」
だが、エルザの腕には力が籠った。
目の前にいるのは、過去最弱の敵であろう。限りなく手を抜いても、決して負けることのない相手。
蝶よりも容易く、その命は奪えるはずだ。
「いくぞ」
それでもエルザに加減をする様子は微塵もなかった。
他人が見れば間違いなくアンは最弱と嘲笑するだろう。勝算なんて欠片もない。彼女がエルザに勝てることなど、天地がひっくり返ろうと起こりえないことなのだから。
しかし、それは関係のない他人から見た場合の話だ。
目の前に迫る少女を、エルザは絶対に見くびらない。エルザにとって、彼女は間違いなく過去最強の相手なのだ。
だからこそ、エルザは最大の一撃をもって、目の前の敵を破壊する。
「っ……」
鈍い音が響き渡った。
奇跡だって、ドラマだって起こりえない。
それは当然の結果であり、絶対的な運命なのだ。
鮮血が鮮やかに地面を濡らす。エルザが放った攻撃は、大気を揺らすほどの最強の一振りであった。
「…………」
身体が粉々になったような衝撃。
アンは不思議と痛みを感じなかったが、ただ、ああ、と自分の負けを悟った。
そんなことはわかりきっていたことだ。自分に勝ち目なんてなくて、立ちふさがるだけ無駄だということは。
それでも、自分は立ち向かわなくては行けなかった。相手がどれだけ強かろうと、勝算なんてなくても、わたしだけは逃げ出しちゃダメだったんだ。
「あ……」
視線の先に愛しい人が見えた。今にも泣きそうなその綺麗な男の子。アンという少女の全て。
そんなに悲しい顔をしないでほしい。これは貴方のせいじゃない。自分勝手な我儘が招いただけ。ただの自業自得なのだから。
ごめんねレン。笑って見送ってあげたかった。頑張ってね、と励ましてあげたかった。
それができなかったのは、きっとわたしが子供だったからなんだろう。
結局わたしは、貴方の立派なお姉ちゃんにはなれなかった。
「ああ」
身体に力が入らず、アンが地面へ倒れた。
冷たい。体温がなくなっていく。視界すら閉じていく中で、目の前に髪飾りが落ちてきた。
これは、なんだったかと、薄れていく意識の中で考える。とても大切で、忘れてはいけないものだった気がする。
アンは鉛のような体を動かして、それを手に掴んだ。
「………あっ」
大切ものだ。世界に一つだけのアンの宝物。そんな大切なものだったのに、その太陽は半分に欠けてしまっていた。
探さなければ。絶対に探さなければいけないのに、身体は動いてくれなかった。
だって、もう泣くことすらも許されない。
「ゆっくり休むといい、アン。貴方は誰よりも立派な騎士だった」
そんな言葉を最後に、欠けた太陽を強く握りしめたアンの意識は途切れたのだった。
「アン!」
レンはその姿を見届け、走って側へ駆け寄った。
血だまりに倒れこむアンの容態も確認せず、彼女へ回復の魔法を発動する。
「なんでこんなことしたんだよ」
今にも泣きそうな顔で、レンはアンを抱きかかえた。
エルザが急所を外してくれたのだろう、レンの魔法でアンの傷は跡形もなく治り、彼女は静かな寝息をたてていた。
「それはレン様が一番わかっているのではありませんか」
エルザが労わるように声をかけた。
「うん、わかってるよ。わかってるから、やめてほしかった。
アンにはただ、幸せになってほしいだけなんだ」
「彼女にとっての今の幸せは、レン様と共に生きることだったのでしょう。
それを、私たちが奪ったのです。
責めるのであれば、私を責めてください」
「…責めませんよ。そんな資格が、何もできなかった僕にあるはずがない」
レンは悲壮感に歪んだ顔で、アンの頬をなでる。
「アン」
レンの為に全てを捧げ、彼の幸福を作り上げてくれた少女。
だからこそ、彼が彼女の為にしてあげられることは、ただ一つだけ。
この穢れなき太陽を、レンという呪縛から解放するのだ。
「いままでありがとう。さようなら」
もう二度と出会わないことを祈った。
そしてレンはアンが大事に握りしめていた太陽の髪飾りを取り上げた。
彼女の幸福な未来に、レンという未練が残らないように。
「レン様、彼女は私が村へ運び届けましょう」
「はい、よろしくお願いします」
エルザの言葉に、レンは渋ることもなくそう応えた。
アンとレンの物語は、月が照らす屋上で既に幕を下ろしている。
この場で起きた出来事は、ただの蛇足に過ぎない。救いなど何もなく、レンはアンに別れを告げていたのだから。
だからここに自分の役割はない。
「レン様、しばしの間、貴方の側を離れることをお許しください」
「アンのことをよろしくお願いします」
「はい、無事に村へ届けて参ります。
ではシスターベル、レン様をよろしくお願いします」
「お任せください」
エルザはアンを軽々と担ぎ上げて村へと向かっていく。
レンはただ、遠ざかるその姿を悲しげに見送った。
私の全てだとアンは言った。
それが真実であったのか、レンに答えは出せなかったけれど、彼女は間違いなくレンにとっての光であった。
しかし太陽は沈み、もうレンの手を引いてくれる人はいない。この足は自分の意志でのみ前に踏み出す。
だけど、心配はない。視界は暗く、未来の姿なんて見えないけれど、歩き方はアンが教えてくれた。
「レン様、行きましょう」
「はい」
迷いのない返事で自分を励ます。
優しい思い出を置き去りにして、レンは足を踏み出した。
プロローグ完