1-4
レンは部屋の扉が開き、近づいてくる人の気配を感じた。
対して警戒をせずに、寝台から起き上がらなかったのは、その人の正体に気が付いていたからだ。
悲壮に沈み、近寄りがたい雰囲気を出していたレンに、その人影はあっさりと近づいてレンの身体の上に覆い被さった。
「夜這いに来ましたよー」
「…」
そのからかうような声にレンは溜息を吐いた。10才にもなっていない少年に通じる冗談でもないのだが、一体いつからこんなことをし始めたのだったか。男の部屋に許可もなく上がり込むなんて、女性どころか母ですらしないことなのに。
このおよそシスターとは思えない行動を起こすメリーを、母が何度も叱っている姿をレンは何度も見かけたことがあった。
朝に酒をのんで、昼間も酒を飲んで、夜も酒を飲む。三度の祈りより赤ワインを好むという彼女は、レンを幼い頃から知り手助けしてくれた恩人でもあったが、教育に悪い問題児でもあった。
「何かよう? メリー」
「女が男の部屋に上がり込んですることなんて一つしかありませんよ――――きゃ」
恥じらったように頬に手を当てるメリー。教会の規則なんて知らない、私はノリで生きる女です、なんてふざけたことを本気で語る彼女らしく、モラルというものは通用しないらしい。
「僕が叫んで家中大騒ぎになる前におとなしく答えてよ」
「わお、可愛くない反応。女に馬乗りになられてその豪胆さは素晴らしいものです。しかし、天使のような可愛い上目遣いも、神をも恐れぬ私には通用しません」
「それでいいのか聖職者…」
「神を信じ尊信することと、神を恐れ敬服することは違いますよ。
勉強が足りませんねレン君。シスターも人間。それぞれで敬い方は違います」
「メリーはどちらにも当てはまらない気がするけど」
どちらかと言えば無関心のような印象だ。神がいようといまいとどちらでもいいが、敬っておいて損はないだろうというそんな不遜。そもそも彼女は神様なんて信じてはいないのではないだろうか。
「レン君、誰が作り出したかもしれない形になんてはまってはいけませんよ。そんなつまらない人間になってはいけません。
既成の枠なんて壊すためにあるのです」
「メリーは少しくらいはまってもいい気がする」
「私ははめられるより、はめにいく側ですからね。私はいつも攻める側です」
「その意味はちょっとわからないな」
「いずれわかりますよ。教会の誰かが教えてくれるでしょう」
「メリーも教会の人なんじゃないの?」
「今私が教えてもいいのですが――――」
メリーがレンの首筋に唇をつける。
「さすがにロマンにかけますからね。初体験は貴方が聖人として立派になったその時までとっておきましょう」
くすりと笑う彼女の黒い髪が、窓から差し込んだ月の光に照らされて輝いていた。
野暮ったいシスター服のメリーだが、その姿はどこか妖艶に見える。その宝石のような赤い瞳が、レンを見つめていた。
まるで姉弟のようだと、その瞳をみて喜んでいたのはいつの頃だったか。遠い昔の記憶。今ではその何気ない言葉すら愛おしく思えた。
「貴方ならきっと大丈夫」
まるで自分に言い聞かせるように、悲しげに彼女は言った。
「メリーからそんな気遣いをされるとはね。最後までちゃかされてお別れかと思ってた」
「ふふ、これでも自称レン君とアンちゃんの姉ですからね。家族との別れを惜しむ心くらい私にもあります」
彼女がそう言ってくれるのはとても誇らしくて、喜ばしいことだと思った。物心ついたころからずっと隣にいてくれた彼女。常に誠実に理想の姉でいようとしたのがアンだとすれば、物事の善し悪しを体現し、世の現実を教えようとした姉が彼女であった。
「僕の為に色々と気を遣ってくれたことは知ってるよ。
問題だらけの反面教師だったけど、メリーは紛れもなく僕の先生で、自慢の姉だった」
「ふふ、嬉しいことを言ってくれますね」
メリーはレンの上からどいた後、彼のわきの下に手をまわして起き上がらせる。
「―――聖人はつらいですよ」
「え?」
「私は職業柄、聖人の女性を知っていますが、その人生を幸福であるとは思えませんでした。少なくとも、私は死んでもああなりたいとは思わない」
まあ幸福なんてその人間の考え方次第なのではありますが、とメリーは付け加える。
「聖人なんてただの道具です。その行いは尊いものであっても貴方が救われるわけではないのです。
聖人が神のように崇高なものと考えているのなら、その考えは改めたほうがいい。貴方の行いは報われることはなくて、残るのは取り返しのつかない後悔だけです」
メリーは諭すように優しく、レンに語り掛ける。
「…」
勘違いしてはならない。レンはまだ、本当の聖人としての役割を理解していない。そこにある絶望も、恐怖も彼の想像で形にできるものではない。幸福しか与えられてこなかった自分が、不幸とは切り離されていた自分が、果たして耐えられる道であるのか。
きっと無理だと誰もが思うだろう。か弱い男の子に耐えられるはずがないのだと。常人には理解できないであろう苦難と苦痛。
そんな険しい人生を、誰が笑って歩めと言えるのだろう。
「シスターメリー。僕は後悔をすることになるかもしれない。何も知らない僕じゃなくてお母さんや他の大人たちがみんな言ってる。
だから、泣くほどの不幸を味わることにもなるんだと思う。」
「泣くことができるのなら、まだ幸せですよ。泣きたくても泣けない。そんな絶望もあるのです」
「それは恐いね。想像もできないや」
ただの子供には、幸福な少年には、そんな現実が想像できるはずもない。
「だけど、僕は逃げちゃダメなんだ。いくら不幸になっても、どんなに辛いと感じる出来事があっても、僕はその全てに立ち向かわなくちゃならない。それが、幸福に生きたものの務めでしょう」
「きっと後悔します」
「そうなんだろうね。でも、この運命は悲しいことなんかじゃない。希望だってきっとあるはずだ」
それは儚い願望であっただろう。しかし、強い言葉であった。
誰もが悲壮にくれるなら、せめて自分が希望を見るべきなのだ。笑っているべきなのだ。自身の幸福を信じない人間が、他人を幸福にできるはずもない。
レンという少年の運命を嘆く人たちを幸せにするのなら、逃げるのではなくレン自身が幸せにならなければいけないのだから。
メリーは困ったように顔を背け、溜息をはいた。
「レン君私はね、君のことをそれは大事に育ててきたつもりです。
貴方の母親といえる年齢ではありませんが、家族のように貴方の成長を見守ってきました。
教会に貴方の存在を隠したのも、貴方と貴方の母親が大切だったからです」
「うん、それは感謝してるよ」
「私が好きでやったことなので、感謝とかはいらないんですけどね。
何と言いますか、息子とも弟とも言える貴方が、今から不幸になっていく様を見ていられない気持ちはわかってください」
心配で、目を離したくなくて、寂しい。複雑な感情を胸に秘めて彼女は語る。
「私はレン君の決断を否定することはしません。いつだって私はレン君の味方ですから。多少のことならなんとかしてあげられます。
しかし、聖人という務めはそれほど厳しいものなんです。当然できる限りの協力は惜しみませんが、命の保証だってできない立場になります。貴方の一言で数々の命を動かすことができるようになるのです」
「…」
それはどれ程の重荷となるのか、今のレンには実感できない。メリーもそれがわかっていたが、気にせずに言葉にする。今は理解できずとも、いつか彼が思い出す日が来ることはあるだろうと。
それが先生としての、家族としての務めであるからだ。
「私はレン君にそんな人間になることは望んでいません。今ならまだ別の道を選ぶこともできます」
「うん」
「聖人としての勉強―――修行とも言えますか、それだってきついはずですし、時間もかかるものでしょう。最悪、死ぬことだってあると聞きます。女だって死ぬのです。男の子の貴方が命を落とすことは十分考えられる。
それに、わかっているかと思いますが、魔法を使って傷を治すことだけが聖人と務めじゃない。言葉を使って心を癒して、身体を使って慰めることだってあるでしょう。今の貴方では理解できないかもしれませんが、それは男の子の貴方にとって、とても辛く苦しいことなんです」
身体を使うとはどういうことが、幼いレンには知識が不足して実感できない。
ただただ痛くて、苦しくて、拷問のようなものだと教えられていた。
「貴方がこの村で積み上げてきたもの、貴方が守ってきたもの、貴方が貴方としてある全てを捨てる必要がある。慰めてくれる母もいない、手を引いてくれる幼馴染もいない、道を示してくれる師もいない。物事の全ての責任をとらされることもあるでしょう。
それでもレン君は大丈夫なんですか?」
「ありがとうメリー。でも、僕はもう決めたんだ」
メリーは寝台から立ち上がり、レンの部屋に置かれた机の前に立つ。そうして、机上をいつくしむように指先でなでた。
彼女にはたくさんのことを教えてもらった。言葉や文字や、計算や道徳。人として生きることの全てをこの場所で彼女に教わったといってもいい。
感謝してもしきれない。レンにとって、メリーはそんな人間の一人だった。
「レン君、貴方は世界の為に、全てを捨てる覚悟はありますか?」
それは、メリーという女性の初めて見せる真剣な表情であった。
先ほどのような悲壮感も憂いもなく、レンという人間を推し量るようなその眼差し。
だが、レンは決して目をそらさずに即答した。
「それが聖人の務めであるなら」
自身の全てを差し出す覚悟なら、先ほど済ませてきた。
今更その決意を曲げるつもりはない。
「そうですか。わかりました」
メリーは諦めたようにそう言って俯いた。
「私も覚悟を決めましょう」
再び顔を上げた時、そこにはいつもの彼女らしい明るい笑顔があった。
「子供の成長は早いですね。先生としては少し世間知らずで不安なところもありますが」
メリーがからかうように言ってレンの隣に腰を下ろす。
「おばさんくさいなその台詞」
「おばさんとは失敬な。まだ15才のぴちぴち美少女に向かって」
「美少女云々は置いておいて、15才は噓でしょ」
「ってことは美少女ってところは認めてくれるんですね、やん嬉しい。
お姉ちゃん困っちゃいますう」
先ほどまでの悲しい雰囲気は何処へやら、身もだえるような仕草をする推定20オーバーのおばさんは、年甲斐もなく顔を赤く染めた。
「メリーさんは早く結婚して女の幸せを見つけなよ」
「かっちーん。レン君いくら可愛い男の子でも言っていいことと悪いことがあるんです。
とくに、未婚女性に対する結婚ネタはデストロイ。死刑にされても文句はいけません。
故に!レン君には罰を執行します!」
くくく、と悪役のような笑みを浮かべるメリーは、レンと両手を掴み合う。
「子供相手に仕返しとか、発想が幼稚!」
「言ったでしょう私は15才の可憐な少女だと!」
「15才は成人だし!それにやってることは10才以下だよ!」
そうしてしばらくやいやい揉めて、やがて疲れた2人は寝台に並んで寝転がった。
いつもの見慣れた天井も、こうして2人で見つめたのは何度あったろう。勉強に疲れて2人でお昼寝をしたこともあった。母が家を留守にした時は、不安にならないようにと手を繋いで一緒に寝てくれたこともあった。
それも今日で最後だと思うと、やっぱり寂しかった。
「レン君、貴方はきっと素敵で美しい人になるでしょう。
今よりもずっと、誰よりも何よりも」
メリーが優しく髪を撫でる。心地が良くて、レンの瞼は段々とさがっていく。
「嫌なことも、苦しいことも、辛いことも、貴方はこれからたくさん経験していくでしょう。
生きていく限りそれは仕方のないことです」
子守唄を歌うように、優しい声で彼女は語る。
「ですか、決して足は止めないで。笑顔で頑張るのですよ。
その先に、それ以上の幸福が貴方を待っているはずですから」
やがて視界は暗くなる。
レンの世界の幕が下りる。
「おやすみなさい、私の大切な弟」
それは世界で一番優しい言葉だった。